萩往還公園
2010年03月より有料道路部分が「無料」となっている
「道の駅」でもあり「萩城下」への入口でもある
前庭には「維新の志士」たちの像が
迎えてくれている
左より「高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞」
同じく「天野清三郎、野村和作」
同じく「品川弥二郎、山田顕義」
同じく「山縣有朋、木戸孝允、伊藤博文」
「志士」の各像には
このような陶板でできた
「銘板」
が
ついている
この「道の駅」のなかには
「松下村塾」
のジオラマやパネル展示などがあり
萩の町を学ぶには絶好の場所となっている
入場は「無料」というのもスゴイ
ところかわって「萩しーまーと」
大屋根が印象的な建物
軒先は「天然石」が敷き詰められている
入口脇には「レトロ」な照明と停留場
こんな「バス」がきます
表示はやはり「松陰先生」
その近くにある「時計塔」
メタルでできた「魚」が泳いでいます
が泳いでいます
(参考)
高杉 晋作(1839-1867)
19歳のとき友人の久坂玄端のすすめで松下村塾に入塾
久坂と並んで村塾の双璧と称された
奇兵隊を結成、四境戦争などで長州藩の勝利におおいに貢献した
明治維新を見る直前に下関で病死した
吉田 松陰(1830-1859)
萩の松下村塾において幕末の志士や明治維新に活躍する
多くの人材を育てた
日本に黒船が来航したとき世界に眼を向けていた松陰は
海外渡航を計画したが失敗
その後、安政の大獄によって処刑された
久坂 玄端(1840-1864)
17歳のころ松陰と出会い、松陰の妹である文と結婚
杉家に同居し松下村塾の教育事業を助けた
松陰亡後の村塾ではつねに中心的人物であったが
蛤御門の変において25歳の若さで亡くなった
天野清三郎(1843-1939)
(渡部こう蔵)
松下村塾には16歳のときに入塾
松陰はその学識を高く評価した
のち長州藩の海軍所に入り下関戦争や奇兵隊創設にも参加
松陰門下生の中で最も長命で97歳まで生きた
野村 和作(1842-1909)
(野村靖)
16歳で松下村塾に入塾
村塾グループとともに尊皇攘夷運動に参加し
四境戦争や戊辰戦争で各地を転戦した
維新後は政府高官となり内閣大臣を務めた
品川弥二郎(1843-1900)
松下村塾に15歳のとき入塾
攘夷血盟に加わり英国公使館焼き打ちや
蛤御門の変など参加
維新後は政府高官となり外交方面で活躍
内務大臣などを務めた
山田 顕義(1844-1892)
(山田市之允)
14歳のときに松下村塾に入る
村塾の一燈銭申合や攘夷血盟のメンバーであり
外国と日本の不平等な交渉に強く反対した
維新後は司法大臣を務め
日本大学、國學院大學を創設した
山県 有朋(1838-1922)
(山県小助)
松下村塾に21歳のときに入塾
高杉晋作の挙平、戊辰戦争などで奇兵隊をひきて活躍
維新後は軍隊の近代化につとめ
内閣総理大臣や枢密院議長などを歴任した
木戸 孝允(1833-1877)
(桂小五郎)
松陰とは藩校明倫館で知り合い
江戸での松陰門下生たちの世話を行った
薩長同盟を結び西郷隆盛・大久保利通とともに
明治維新の三傑と呼ばれている
伊藤 博文(1841-1909)
(伊藤利助)
17歳のとき来原良蔵の紹介で村塾に入門
松陰は伊藤を「周旋屋(世話好き)」と評した
維新後は「明治日本」の確立に中心的役割を果たし
日本最初の内閣総理大臣となった
道の駅「萩往還公園」パンフレットより