2010-10-10

ハギ 03

萩往還公園
2010年03月より有料道路部分が「無料」となっている
道の駅」でもあり「萩城下」への入口でもある

前庭には「維新の志士」たちの像が
迎えてくれている
左より「高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞」
同じく「天野清三郎、野村和作」
同じく「品川弥二郎、山田顕義」

同じく「山縣有朋、木戸孝允、伊藤博文」
「志士」の各像には
このような陶板でできた
「銘板」
ついている

この「道の駅」のなかには
「松下村塾」
のジオラマやパネル展示などがあり
萩の町を学ぶには絶好の場所となっている
入場は「無料」というのもスゴイ

ところかわって「萩しーまーと
大屋根が印象的な建物
軒先は「天然石」が敷き詰められている
入口脇には「レトロ」な照明と停留場
こんな「バス」がきます
表示はやはり「松陰先生
その近くにある「時計塔」
メタルでできた「魚」が泳いでいます
そして「発電」しています
「しーまーと」の軒下は
ちょっとした
「ガーデンテラス」
美味しいです
建物のなかでは「ヤリイカ」や「メイボ」
が泳いでいます

(参考)

高杉    晋作(1839-1867)
19歳のとき友人の久坂玄端のすすめで松下村塾に入塾
久坂と並んで村塾の双璧と称された
奇兵隊を結成、四境戦争などで長州藩の勝利におおいに貢献した
明治維新を見る直前に下関で病死した

吉田    松陰(1830-1859)
萩の松下村塾において幕末の志士や明治維新に活躍する
多くの人材を育てた
日本に黒船が来航したとき世界に眼を向けていた松陰は
海外渡航を計画したが失敗
その後、安政の大獄によって処刑された

久坂    玄端(1840-1864)
17歳のころ松陰と出会い、松陰の妹である文と結婚
杉家に同居し松下村塾の教育事業を助けた
松陰亡後の村塾ではつねに中心的人物であったが
蛤御門の変において25歳の若さで亡くなった

天野清三郎(1843-1939)
(渡部こう蔵)
松下村塾には16歳のときに入塾
松陰はその学識を高く評価した
のち長州藩の海軍所に入り下関戦争や奇兵隊創設にも参加
松陰門下生の中で最も長命で97歳まで生きた

野村   和作(1842-1909)
(野村靖)
16歳で松下村塾に入塾
村塾グループとともに尊皇攘夷運動に参加し
四境戦争や戊辰戦争で各地を転戦した
維新後は政府高官となり内閣大臣を務めた

品川弥二郎(1843-1900)
松下村塾に15歳のとき入塾
攘夷血盟に加わり英国公使館焼き打ちや
蛤御門の変など参加
維新後は政府高官となり外交方面で活躍
内務大臣などを務めた

山田   顕義(1844-1892)
(山田市之允)
14歳のときに松下村塾に入る
村塾の一燈銭申合や攘夷血盟のメンバーであり
外国と日本の不平等な交渉に強く反対した
維新後は司法大臣を務め
日本大学、國學院大學を創設した

山県   有朋(1838-1922)
(山県小助)
松下村塾に21歳のときに入塾
高杉晋作の挙平、戊辰戦争などで奇兵隊をひきて活躍
維新後は軍隊の近代化につとめ
内閣総理大臣や枢密院議長などを歴任した

木戸   孝允(1833-1877)
(桂小五郎)
松陰とは藩校明倫館で知り合い
江戸での松陰門下生たちの世話を行った
薩長同盟を結び西郷隆盛・大久保利通とともに
明治維新の三傑と呼ばれている

伊藤   博文(1841-1909)
(伊藤利助)
17歳のとき来原良蔵の紹介で村塾に入門
松陰は伊藤を「周旋屋(世話好き)」と評した
維新後は「明治日本」の確立に中心的役割を果たし
日本最初の内閣総理大臣となった

道の駅「萩往還公園」パンフレットより