2012-08-02

欲望のオブジェ デザインと社会 1750年以後

アメリカの電気調理器のパブリシティ写真(1961)
大騒ぎすることも汗だくになることもありません―調理器からまるでひとりでに料理が出てくるかのよう。
デザインという言葉を「人工物」にあてはめた場合
『ものの外観』と『製品を生産するための仕様の準備』
ということになります
「デザイン」というものについての理論(定義というか理解)が貧しいのは、『デザインをアートと混同し、その結果、制作の産物を美術作品と見なしてきたこと』でもあります。「デザイン」というものは、その「もの(製品)」を観る人々の目をも変えてしまいます。20世紀に入り製品のデザインを変えていったもののひとつに「家庭用電気負荷の増強(増加)」が挙げられます。見かけ上は「ガス調理器」と同じような「電気調理器」や、「オール電化の家」という『鳴り物入り』の住宅(というより機械設備でコントロールされる)がコマーシャルされてゆきました。第一次世界大戦は、電気産業にとって『戦時産業への電力供給が要請される』という景気のいい時代でありました。(英国では)電気の家庭需要は人口一人あたり7kwh(1920年)から128kwh(1939年)、約770kwh(1961年)とたった40年あまりで110倍にも拡大してゆきました。電気販売の全範疇(家庭用、工業用、商業用、街灯用、牽引用)のうちもっとも増加したものが家庭用であり二十世紀初頭の電力技師たちの夢をかなえるような「数字」として消費されてゆきました。それは私たちの暮らしにおける「掃除」「暖房」「調理」「洗濯」などの家事労働を電気という『代理役』にすがたを変えおこなわれてゆきました。人々はその『代理役』が産んだ「時間」を『余暇』と称して「教育」や「教養」または「レクリエイション」へとむけてゆき、それまでは「富裕な人々の独占していたもの」であった『余暇』は広範に普及して誰でも共有できる「モノ」として使われてゆくようになりました。電気は「目に見えない」「色もない」「よいもの」とも「わるいもの」とも判別のつかないものでしたが『清潔で、音もなく、瞬時に用立てられ、近代的で革命的だ』ということを「メーカー」や「デザイナー」たちがこれらの特質を象徴的に用い『アールデコ』や『モダン・デザイン』といったものに仕立ててゆきました。1930年ころから電気デザインの「おはこ」となっていった『クロムめっき』や『流線型』は「熱の拡散」や「熱の流れを視覚化」を想起させるような「モノ」としてつくられてゆきました。第二次大戦後も、電気器具は引き続き電力の家庭用販売(キャンペーン)の重要な部分となって、『最も現代的なエネルギーのかたち』として消費者へ伝えるためのイメージデザインとして形成されてゆきました。
上図は、一九二〇年代にEDA(「電気開発協会」)から出されたパブリシティのパンフレットに、電気エネルギーによりいかに「家事労働からの開放がなされるのか?」をイメージ・デザインされ描かれたものです。そのパンフレットには下記のような文章も付されていました。
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ここ数年、それまでお荷物になっていた家事を主婦やメイドが楽しくこなせる日課の一部に変えている魔法は、いったい何なのでしょうか?どんな家庭展でも、女性たちが家事労働の助けになる器具をとても熱心に見ていることに注目してください。この好ましい変化をもたらしたのは、おおむね、ほんの小さな電気モーターだということがおわかりでしょう。じっさい、電気は、奉公人やそのほか、文明の最も力強い要素―家庭―を混乱することになりかねないさまざまな問題を、かゆいところに手がとどくように解決してくれます。電気は、近代的な主婦にとって完璧な奉公人―清潔で、静かな、それほど経費のかからない―となってくれるのです。「かつて時間のかかる労働(きびしい労働)だったものが、いまではあっという間に難なく片付けられる」
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本書の訳者・高島平吾氏が、こうしたイギリスを中心とする「モダン・デザイン」から「デザイン」というものについての「履き違え」と、これから示すべき「デザイン史」の著しかたを以下のように記しています。
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われわれは、そのアウトラインを、主としてニコラス・ペヴスナーに学んだ。いや、ふりかえってみれば、わが国のデザイン教育の根幹はほとんど彼ひとりに負うてきた、といってもいいことに思いいたって、いささか愕然とせざるをえない。本書は、その大いなるペヴスナーに対する、もう少し正確にいえば近代デザイン史のペース・セッターとしての彼がかぶせた大枠に対する、ひとつの批判をバネにしている。もの、いいかえれば製造品のデザインは、ほんらい、社会的・経済的なさまざまな要因のからみあいのなかから生まれてくるものだ。にもかかわらず、ペヴスナーをはじめとする従来のこの分野の歴史書は、あたかもそれがアートと同じような純粋な創造的営為であるかのように扱い、したがってデザイナー個人に過大なスポットをあててきた、と著者、エイドリアン・フォーティーはいうのである。とすれば、新たに書かれるべきデザイン史は、いきおい社会史の相貌をおびざるをえない。
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「デザイン」というものはその時代、または社会性を映し出すための「鏡」のようなものであり、けっして「絵画的」なものではなく、まして「鑑賞」されるようなものでもないのです。「目に見えていないものをかたちにして、こうあるべきだ。」と導くためのもの、それが「デザイン」であり「デザインされた製品」ということになるのです。原子力によるエネルギー政策がたちゆかなくなっている現在、私たちが指し示さなければならない『二十一世紀のエネルギーのデザイン』はいったいどのような「モノ」としてあらわされていくのでしょうか。


(目次)

まえがき

序論

第一章
進歩のイメージ

第二章
最初のインダストリアル・デザイナー

第三章
デザインと機械化

第四章
デザインの差異づけ

第五章
家庭

第六章
オフィスのデザイン

第七章
衛生と清潔

第八章
電気―未来の燃料

第九章
家事の省力化

第十章
デザインとCI

第一一章
デザイン、デザイナー、デザイン文献

訳者あとがき

再版のための訳者あとがき

写真クレジット

参考文献

原注

索引


(参考)






『インダストリアル・デザイン』