2012-12-07

京町家

光村推古書院から
刊行されている、1998年02月01日初版の
小さな写真集です

「町家」とは-庶民のための都市住宅の形式をその名で呼ばれるものです。その原型は中世以前に遡る遺構が残されていないことにより、正確なところは不詳のようですが、平安時代末の「年中行事絵巻」や鎌倉時代の「一遍上人絵伝」などの絵画資料などに、隣家と接続されている様子が描かれていることから、当時の町家の佇まいを窺い知ることができます。この絵図によると、それぞれの家の間口は2~3間(1,820~2,730)程度で、「商人・職人」などが暮らしていました。そのようなことから町家には「商い」あるいは「仕事場」が内包されていて、職住一体の都市型住宅でした。通りに面したこの「商家併用型都市住宅」はできる限り多くの家が面することが有利であったため、狭い間口としてつくられていたようです。近世の京都では、通りの両側の各家が集まって「お町内」というものを構成していて、これは、もともと自治的な組織としてうまれ、近世には行政の末端などを担うようにもなっていたということです。町会所の「維持費」、幕府からの「賦課金」など、お町内で必要な費用は各家(町家)間口の大きさ(幅)に応じて納付していました。商売にとって「間口が大きい」ほうが有利にはなりますが、そのぶん、お町内の費用負担も大きくなるということにもなるのです。このようなことから町家の形式は、通りに面して間口を狭く、奥行を長くとるという宅地形状が一般化し、今日のような町並みを形成するようになりました。町家建築には3タイプ(型)のものがあり
「通り庭形式」
「表屋造り形式」
「大堀造り形式」
という
『「土間」「にわ」「空地」』と、『「みせ」「台所」「座敷」』などの生活空間との組合せによってそれぞれ特色のある町家をかたちづくってゆきました。このような町家建築は、「町衆文化」を象徴する文化遺産であることはいうまでもありませんが、それとともに伝統的まちづくりの「システム」を内在させたひとつの装置であるともいえます。このようなことから「町家の消失」は、単に文化遺産の消滅ということだけでなく、優れた「まちづくりのしくみ」の消滅にもつながるといえます。「町家」を保存するということは、「町家による優れたまちづくりのしくみ」を次世代へと継承することにもなり、より豊かな町とそこに棲む人々のコミュニケーションを再生するということにもなるのです。


(目次)
京町家について
町家拝見
《秦家》
表構え/カド/店庭/店/玄関/坪庭/座敷/台所/座敷の庭/
離れと土蔵/離れの意匠/土蔵の入り口/台所庭の中戸/
奏家にみる意匠
町家のいろいろ
《堀井家(大市)》古風な町家
《川北家》京町家の典型例
《杉本家》大店の遺構
《下里家》祇園のお茶屋
《藤岡家》高瀬川沿いの炭問屋
《吉田家》近代的な町家
《仲家》大堀通りの町家
商う
前土間式の店庭(藤岡家)/古色を帯びた店庭(大市)/店(大市)
迎える
玄関(川北家)/内玄関(下里家)/玄関見通し(吉田家)
暮らす
台所庭(藤岡家)/台所庭(吉田家)/台所庭上部の梁組(杉本家)
もてなす
一般的な町家の座敷(藤岡家)/大店の座敷(杉本家)/2階の座敷(川北家)/
お茶屋の2階客室(下里家)/書院造風の座敷(仲家)/坪庭の意匠(杉本家)/
座敷の庭(吉田家)
祇園祭
店の屏風飾り/座敷の屏風飾り/お町内の装い
町家のかたち
煙出し/一文字瓦/うだつ/鍾馗さん/忍び返し/むしこ/犬矢来/駒寄/ばったり床几/
出格子窓/荒神棚/箱段
公開している町家


(参考)

京町家 光村推古書院

京町家 Wikipedia