2012-12-26

あの日からの建築。

建築とはなにか。
建築家にできることとは、どんなことか。
その場所に潜む、ポテンシャルに抗うことのなく蓄積された「術」を
どのように、その地域のチカラとして活き活きと再生させることが可能か。
そんな、建築家による
釜石での「透明」な取り組みと展望が、描かれています。
グローバル経済によって支配される現代社会では、建築家の倫理感や善意をはるかに超えた力によって建築はつくられ、破壊されている。そこにはかつてのような公共空間やコミュニティの場が成立する余地はほとんどない。それどころか経済を効率よく循環させるためには、共同体は徹底して個に解体されたほうがよい。そのような巨大資本につき動かされる巨大都市に建築家はどう向き合っていくべきなのか、そんなことを考えているさなかに(東日本)大震災は起こった。/大学で建築を学び始めた頃、東京オリンピックの開催に伴って、首都高や新幹線が開通し、東京は世界でも有数の都市となった。だから独立して自分で設計を始めてからも、建築を考える根拠は東京にあった。当時の自分の文章を読み直してみると、いかに東京都いう都市を意識していたかに驚く。東京に私が託していたのは「新しさ」であった。未来に向かっての夢を叶えるための何かを東京という都市が提供してくれるとずっと信じていたからだろう。私にとって近代とは即ち東京であったのだ。/そのような未来の自然を発見したいという想いを巡らせながら被災地に向かった時に、私は東北の地で自分の故郷に帰ってきた、と感じたのだ。信州を出て以来、田舎がこんなに魅力的に思われたのは初めてであった。いつも東京へ向かっていた私の旅は、一巡して自然の地に帰り着いたのかもしれない。/東京が失ってしまった豊かさが東北にはまだ残っている。なぜ豊かかと問われれば、ここには人と自然とが一体化された世界が存在しているからである。人々は未だ自然の恩恵で生きていることを幸せに感じている。だから自然の猛威に屈伏しても、決して自然を怨むことはないし、自然への信頼を失うこともない。何度津波に襲われても再び海辺に戻ってきたいと願う人々の姿がその証である。今後、被災各地の復興は困難をきわめるだろう。安全で美しい街が五年十年で実現するとは到底思われない。しかし東京のような近代都市の向こう側に見えてくる未来の街の萌芽は確実にここにある。21世紀の人間社会のモデルは東京ではなく、東方の地にあることを、大震災は多大な代償と引き換えに私たちに教えてくれたのではないか。自然への信頼、人間への信頼を失った場所に人間の棲むべき未来があるとは考えられないからである。
◇◇◇◇◇
被災地に行った後で思い出したのが、石川淳の『焼跡のイエス』という短編小説でした。若い頃に読んで、それっきり本棚でほこりをかぶっていた文庫本ですが、突然思い出して、もう一度読んでみました。この小説に描かれたように、人間はすべてを失い、見栄やモラルからも解放され、ゼロに立ち返った時に、人間本来の姿が神々しく現れることがあります。普段は想像することさえできない、事物が見えるのです。これだけのダメージをこうむったのだから、今の日本の社会が何かを感じ取って、新しい社会に向かって方向転換する良い機会ではないでしょうか。現地を訪れるたびに、私は被災地の人々の明るさと純粋な気持ちに力を貰い、元気づけられます。

僕が自分のアトリエをスタートした1971年以降、メタボリストたちのような都市への提案はほとんど影をひそめてしまいました。内向と抽象の時代はいまだに続いているのです。それを打破し、建築家が社会との関係を取り戻すまたとない機会ではないかという気もします。そんなことを考えるようになった背景に、今回の震災神戸のような大都市ではなく、漁村や農村であったことがあげられます。今回被災したり、原発を含めても直接被害を蒙ったのは都会の人々ではなく、海や土と日々向かい合って暮らしている人々です。特に漁業に携わっている人々はどんなに海が恐ろしいものかを知り尽くしていても、海と向き合わずにはいられない人々です。恐らく彼らは我々がどんなに安全なまちや住まいを提案したところで、海を捨てない限りいずれは同じところに戻って住むのではないか、そんな人たちに対して都市ばかりを念頭において考えてきた我々は、これまで抱いてきた価値観を大幅に変えざるを得ないのではないでしょうか。

私のような建築家がまちづくりに参画しているというと、市の復興マスタープランを依頼されているかのように思われがちですが、違います。今回の復興計画は主として行政と土木のコンサルタントによって推進され、我々は住民代表の人々と同じく意見を求められる立場に過ぎません。何を言っても自由である代わりに、意見が採用される保証もありません。釜石市の場合には、行政の人々も住民や私たちの意見をくみ上げようと努力してくれているのは理解できるのですが、住民たちが説明を受けても、将来の自分たちの街のイメージが湧いてくるようなものではありません。具体的な絵が描かれてしまうと住民がそれぞれに主張し始めて収拾がつかなくなってしまうからでしょうが、まちづくりに意欲的な住民からすれば、何とも物足りない、ヴィジョンに欠けた計画に思われるに違いありません

現実の世界を超えるようなスケール感で建築を考えれば、もっと人間相互が共感し合えるはずだと思うからです。そのためには建築家という鎧を身に纏うのではなく、ただひとりの人間として建築を考えてみる必要があると思っていました。「みんなの家」を思いついたのはそんな動機からです。「みんなの家」、何と凡庸で何と閃きのない名前だと思われるかもしれません。でも被災地の高齢者と話すにはこのわかりやすさしかないと思いました。

10月の末ともなると東北はもう冬の始まりです。薪のストーブは炎が見えるし、一台で室内が暑すぎるくらいに暖まるので大好評でした。陽が暮れるのも早く、急激に辺りは暗くなり、「みんなの家」だけが暗がりのなかにぽっかりと浮かび上がってきました。住民の人たちのなかには家族を失った人もいて、置き畳の炬燵を囲んで話しているうち次第に感情を押さえ切れなくなって泣き出す女性もいました。私の手を握りしめ、「この明かりが暖かくて嬉しい」とか「小屋組みの木の香りが心を和らげてくれる」等といって心底感激してくれました。私が設計の仕事を始めてから、つくり手と住まう人がこれほど心をひとつにしたことはありません。近代合理主義のシステムに従えば、「つくること」と「住むこと」の一致は不可能だと言われてきましたし、自分でもその境界をなくすことはあり得ないと考えてきましたが、この日、つくることと住まうことの境界が溶融していくのを実感しました。

2012年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において、私は日本館のコミッショナーを務めることになりました。今回コミッショナーとして私が選んだテーマは、「ここに、建築は、可能か」でした。参加アーティストは写真家の畠山直哉氏と三人の若手建築家・乾久美子藤本壮介平田晃久の三氏です。2011年11月から五人を中心としたミーティングがスタートしました。皆で仙台市宮城野区の「みんなの家」を訪れたり、敷地を探すために陸前高田を訪ねたりしました。しかし三人の建築家たちも、何から考え始めたらいいのか戸惑うばかりでしたし、畠山さんもとてもカメラに向かう気持ちにはなれないようでした。私自身もそんな彼らと向かい合いながら、先行きの展望が得られず、不安が募るばかりでした。しかし、そんな不安が希望に変わったのは、陸前高田でひとりの女性、菅原みき子さんに出会った時からです。菅原さんの話を聞いてから、三人の建築家たちは「みんなの家」のイメージが共通に浮かんだようでした。例えば、山裾で津波の塩害によって立ち枯れした杉丸太を用いて家をつくるというアイデアです。枯れてしまってはいても、構造材としては十分使えるということで、およそ10メートルの高さの杉丸太が林立する「みんなの家」の構想が急速に固まっていったのです。

設計事務所も教育の場ではありますが、設計をまとめるためにはどうしても明日のことしか考える余裕がありません。だから教育の場では、もう少し冷静に建築のことを考えてみたい。これからの建築はどうあるべきかという考察をベースにした時に、どういう建築の理論が成り立つのか。これをわかりやすく整理し、学生と一緒に考えたり、伝えていったりしたいと思っています。建築のコンセプトのなかで使われる「社会」や「コミュニティ」といった概念は、現実の世の中と直結したものではありません。現実の社会を建築家によって扱いやすいように抽象化したのが「社会」という枠組みのなかで「コミュニティ」という、さらにまた抽象化された概念を弄んでいるわけです。私はこの問題は相当深刻だと思っています。このままでは、まともな社会性を持った若い建築家は育ちません。だから今回の震災では、若い人たちに、実際に被災地を訪れて、瓦礫のなかで、なんとかそこから立ち上がろうとしている人たちを、まず直視しなさいとくり返し言いました。裸になった人たちを前にして、自分が何かを提案できるとすれば、こちらも裸にならなければならない。これは私自身にとっても大事なことだと思っています。

日本における建築家の存在はアメリカとも違いますし、ヨーロッパとも違います。アメリカの場合は、日本以上にグローバルなマーケット経済の世界ですから、建築家はそのなかにいないと仕事をすることができません。それに対してヨーロッパの社会では、もう少し公共の施設を建築家の仕事の中心に据えてきました。その意見で、ヨーロッパでは近代以降、社会と建築家は相互の信頼関係をつくってきたのです。しかし、最近はヨーロッパもアメリカ型にかなり移行してしまいました。日本は戦後から1960年代ぐらいまではヨーロッパ型で、建築家が市民のための公共建築をデザインするという枠組みのなかで建築を考えていました。日本の建築家が社会のなかにうまく位置づけられない理由は、日本にはゼネコンの設計部や大組織型の設計事務所が存在していることも無関係ではありません。スタッフが1000人、2000人もいるような、れっきとした設計事務所で、自治体の要求に対しても忠実に従うし、アトリエ型の事務所よりも冒険をしない分、問題が起こらない。だから自治体には好まれます。こういう事情もあって、個人の名のもとに設計を行う、いわゆるアトリエ派の建築家は、社会にうまく組み込まれないし、喜ばれもしないという、不幸なかたちがずっと続いています。

ル・コルビュジエという建築家は今の私にとって憧れのモデルになっています。若い頃の彼は旺盛な批判精神で社会と戦いました。しかし後半生では、ロンシャン礼拝堂に見られるように、批評性を超える地点で豊かな建築をつくっています。そして南仏のカップ・マルタンに自ら手掛けたつましい小屋を仕事場にして、最後はまるで自然に還っていくように地中海に骨を埋めた。自然から生まれ、近代の革新性に満ちた作品をつくりながら、最後には再び自然に還っていく生涯だったのです。彼の豊かな晩年に比べると、多くの建築家の晩年はどうして貧しいのか。いつのまにか空虚な権威主義に陥ってしまっているのです。私も歳とともにもっと自然体で、豊かな建築をつくりたいという思いが強くあります。批評精神を豊かさに置き換えるような建築をつくりたいのです。

以前にパリでコニャック・ジェイというホスピスを設計した時のことです。なぜか遠い日本の私まで声をかけてくれたのです。その理由は私が熊本県八代市でつくったローコストの老人ホームの写真を雑誌で見て、病院のオーナーが気に入ってくれたからでした。日本ではまずあり得ないことです。六ヶ月間、毎月通いつめてようやく「わかった」と笑顔を見せてくれました。彼は決して意地悪をしていたわけではなく、自らとことん納得してからゴーサインを出したいと考えていたようです。その証拠に、その後周辺住民への説明会でガラス張りのファサードへの強い反対表明がなされた時にも、これ以上のファサードはないと、徹底して私たちの案を擁護してくれたのです。パリでは建築の許可を得るに際し、基準法に照らして法規に適っていても、なかなか承認してくれません。歴史や文化の面からも新聞等で賛成派、反対派双方の議論を十分に戦わせて、潮時だと思ったらようやくオーケーがでるのです。パリの市内に建築が実現することの重さを感じる経験でした。ヨーロッパでは、若い人たちが個人住宅でデビューするケースはそれほどありません。公共建築はすべてコンペティションで設計者を決めることになっていて、小さなプロジェクトでは若い人たちも参加できるようになっています。参加フィーだけでも、とりあえず最低限の生活はできるのです。こうして何度も挑戦するうちに、やっとチャンスが来て、初めて自分たちの建築が実現できる。どういう社会的な提案ができるかという能力を高めなくてはならないのです。そのステップを踏まないという問題が、日本の建築家にはあると思います。

現代の社会では、建築を動かしている資本の力が巨大になり過ぎて、ひとりの建築家でコントロール可能なレベルを超えてしまったとも言えます。合理性や経済効率ばかりを重視すれば、どの建物も似たり寄ったりになってしまうのです。しかしそれでは市場経済の競争原理の世界では生き残れません。そこで建築家が呼び出されて、人目を引くようにビルの表層のみを飾りたてているのです。いわば目に見えない資本を視覚化する役割を担うのが建築家であって、彼らはその資本の蓄積される場所を求めて移動をくり返す。それが現代建築なのです。そうでない建築家のあり方とは、どのようなものでしょうか。例えば宗教学者の中沢新一さんは、社会と資本主義が対立的な関係にあると考えています。「資本主義は市場の原理が、社会の全域に拡大されたシステムである。社会というものをなりたたせている原理は、市場を作動させている原理と、根本的な違いをもっている。それどころか市場の原理には、人間の結びつきでできた社会を、解体に導いていくような力が潜んでいる」と。

東日本大震災によって私たちは原発事故の恐ろしさを実感し、世論は原発再稼働反対に傾いているのもかかわらず、電力不足を理由に再稼働が始まりました。私は建築家として当然自然再生エネルギーの可能性を検討しています。しかし私にとって最も関心があるのは、新しい建物をつくる際にその建物のエネルギー消費量をどこまで節減できるかを考えることです。従来の半分程度のエネルギーで賄うことは、できないことではありません。現状維持か節電かという議論ではなく、テクノロジーの活用によって現状の生活を維持しつつエネルギーセーブをはかることを、もっと考えるべきではないでしょうか。その点から脱原発社会は十分に可能だと考えています。これからの時代にとって、新しいテクノロジーの活用は不可欠ですが、今日の大勢は近代主義思想の延長上で技術を展開しようとしている点に問題があります。私は、建築の内部環境を外部環境に近づけたほうが、最終的には消費エネルギーを減らすことができると考えます。つまり、温熱環境を外部から内部へとグラデーショナルに変化させるのです。内外の環境を一枚の壁で区切ってしまうではなく、複数の壁で段階的に区切っていくのです。かつての日本の木造家屋はこうした方法で自然と居住域を柔らかく隔てていました。

日本のように季節によって居住環境に大きな差のある地域では、夏のいちばん暑い日や冬のいちばん寒い火に照準を合わせて境界を定めるのはロスが大きいと言わざるを得ません。春秋の季節には外部に近い環境で過ごしたいし、一日をとっても朝晩と日中では温度が変化するのは言うまでもありません。かつての木造家屋の思想を現代テクノロジーを用いて性能アップしていくことによって、私たちは生活をもっと楽しむことができるはずです。震災後のさまざまな世論の動きを見ていると、津波や原発事故が起こした本質的な問題はうやむやにしたまま、とりあえずは今までと同じように科学技術に頼っていくという方向を私たちの社会は選びつつあるようです。けれども最大の問題は、これからの私たちが技術をどのように考え、どのように使いこなしていくべきか、という点にあるのではないでしょうか。これからの建築は単に建築家個人の表現の問題ではなくて、新しい建築の原理をつくり、その原理を実践することが求められます。だから多くの人と共有っしていけることが大事です。個人的な表現だけの建築は一過性で、できてしまえば終わりだし、次代には生き残れません。10年、20年たっても「この建築はいいね」と言われるためには、時代を突き抜ける、何か社会が共有しうる原理をもたないといけない。私はそのことをいつもいちばん気にしています。だから今回「みんなの家」で学んだことの意味は、すごく大きいと思います。自分が他者と何かを共有できるという確信、つまり仮設に住んでいる人たちに対して、お互いに共有できるものがあるという確信を得ることができました。建築家のエゴイズムをみんなで乗り越えられれば、きっとその先には、かなり特異な表現でも、個を超えた個に行き着けると思います。まだまだ試行錯誤は続くでしょうが、おそらくそれが次の時代の建築になっていくはずです。
◇◇◇◇◇
つまり私は、歌を通じてなら地域の人々とコミュニケーション可能なのに、建築を通じては必ずしもうまくコミュニケーションできていなかったのである。これは私だけではなく、私の周囲の建築家にもあてはまるだろう。果たしてこの事実を地域の人々の無理解、と片付けてしまってよいものか。それでは逆に、地域の人々に完全に理解される建築はあり得るのか。震災直後に始めた「みんなの家」というちいさなプロジェクトは、今考えてみれば、この問いに対する答えを探るとっかかりだったように思われる。地域の人々と一緒になって考え、一緒になってつくる。だからここには私たちがこれまで固執してきた「建築」の枠組みをいったんゼロに戻して問い直すことが不可欠なのである。私たちが仙台市宮城野区や釜石市につくった「みんなの家」は、決して都会的ではない。個としてのオリジナルな表現もほとんどない。その結果私たちは、地域の人々と心をひとつにしてつくることができた。だから道はあるのだ。ここから、これからの建築を考えることはきっとあり得るに違いない。新しい建築の第一歩がここから始まる予感は十分にある。「あの日の建築」が......。


(目次)
はじめに

第一章 あの日からの「建築」
地震発生当日のこと
被災地に見出した明るさ
建築家として何ができるのか?
復興に対する基本的なスタンスを決める
津波と原発事故という対照的な災害
建築と安全性
第二章 釜石復興プロジェクト
釜石との関わり
住民たちの生の声を聞く
昔の仲間と一緒に元の場所で暮らしたい
具体性の乏しい復興計画
地域に合った集合住宅のあり方を提案する
「合掌造り」のような集合住宅
商店街を蘇らせるために
防潮堤を利用したラグビースタジアム
第三章 心のよりどころとしての「みんなの家」
「みんなの家」というプリジェクト
仮設住宅で暮らす人たちの声を聞く
人々の心をつなぐ建築
「つくること」と「住むこと」の一致
「みんなの家」の広がりとこれから
ヴェネチア・ビエンナーレと陸前高田の「みんなの家」
第四章 「伊東豊雄建築塾」について
建築塾をはじめる
「ぐりんぐりん」での経験
建築塾では何を教えるのか
アカデミックな建築教育におけるコンセプトとは
現実の社会から遊離している建築教育
社会性を身につけることの大切さ
第五章 私の歩んできた道
学生時代のこと
師としての菊竹清訓
海外の現代建築に初めて触れる
大阪万博への懐疑
時代の閉塞感を反映した建築
社会性を持った建築への転換
バブル時代の東京から構想された「イメージとしての建築」
初めての公共建築
公共建築の持つ権威性を壊したい
せんだいメディアテーク
空間感覚の根底にあるもの
建築を自然に近づける
内と外の関係を考えなおす
建築の形式性を崩す
第六章 これからの建築を考える
日本社会のなかの建築家
社会的なプロジェクトから敬遠される建築家
批評性を乗り越えることの難しさ
建築家と社会の関係を変えるには何が必要か
日本のクライアントに望むこと
住宅建築でデビューする日本の若手
グローバル資本主義のなかで希望の孤島を探す
資本主義と建築
贈与としての建築
アートではない建築のあり方
建築は自然とどう向き合うべきか
科学技術との新しい関係
新しい建築の原理へ

おわりに


(参考)

(拙ブログ参考記事)