2012-12-23

にほんの建築家 伊東豊雄・観察記。

転機をつくり出す、建築家のこと。
伊東(豊雄)は、四十代の頃にある雑誌のインタビューで、同時代の建築家の中には「上がって」しまった人が多くなったと語ったことがある。これでよしと、自ら区切りをつけてしまった人々だ。だが伊東はまだ上がらない。ノンシャランと、挑戦を続けている。


この本は、フリーランスジャーナリスト・瀧口範子さんが、建築家・伊東豊雄さんのことをその生い立ちから、現在(東北地方における「みんなの家」の活動)までを「人間ウォッチング(観察)」し纏められているものだ。とてもアクティビティな伊東豊雄さんはいまも「現在進行形」で変化し続けています。

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最初の「みんなの家」は、仙台市宮城野区内の仮設住宅に隣接してつくられた。東日本大震災後から「建築家としてできることは一体何か」を考え続けてきた伊東は、方々に仮設住宅がつくられるようになった頃に、ひとつの考えに至った。内部は狭くて圧迫感がある上、外へ出てもゆっくりくつろげる場所が」ない。かつてのコミュニティーを失ってしまった被災住民同士が集いたいと思っても、外の冷たい砂利道の上で立ち話をする以外に方法がない。これを何とかできないか。そうしてつくられたのが、この「みんなの家」第一号だ。木造で暖かみがあり、尖った屋根は「家」の記憶を誘う。仮設住宅は屋根が平らで天井も低く、プレハブ素材で建てられ、そこはまるで檻に入れられたような均一性が支配している。

「みんなの家」の建設に必要な資金をどこから調達するか。そのために伊東があたったのが熊本県だった。熊本県へ訴える時、伊東は仮設住宅に住むという極限状態にありながらも、ミニ・コンサートを開いたりして、人びとが集おうとしていることに感動を覚えたと書いている。そこには最も原初的なコミュニティーがあり、建築家ならば、そうした場所を「もう少し人間的に、もう少し美しく、もう少し居心地良くすることができるはずです」と、熊本県民に理解を求めた。伊東は、建築家として活動してきた40数年の間、いくつもの転換を経てきた。そして今、建築をこれまでの延長線上ではない、「ゼロ」の地点にまで戻して、もう一度はじめ直そうとしている。それは、伊東が今まで関わってきた建築、仕事、人のすべてが与えてくれた機会でもあるのだ。

建築というのは、単純にスパっとかたちが決まらないものなんです。いろいろな機能や構造、設備の問題があって、いくつもミーティングをやっているうちに、そこで得たヒントからだんだんかたちが見えてくる。

伊東はでき上がった建物の中を歩いた時の雰囲気、そこに立った時に感じる自分の気持ちをシミュレーションするのに長けている。設計の条件、コストや時間の制限など、あらゆる締めつけの中にあっても、「自分の気分」を何より優先させる。というより伊東の「自分の気分」は、どんな厳しい状況の中にあってもへこまず健在であり続ける。

建築家は手が動いて設計できるだけでなく、ことばによって自分の建築の成り立ちを説明する能力が求められる。施主への説明、所員との話し合い、そして現場でのコミュニケーションなど、建築家という仕事にはその状況に合った伝達力が不可欠なのである。それは自分自身に対してへのコミュニケーションつまり、これからやろうとすること、最近やったことに対して自分なりの理論づけをするということ、についても役立つことであり、そうすることによって、建築家には次にめざすべきステップが見えるようである。

「機能は制度的な問題です」そしてこうつけ加える。「制度とは、ある会社のシステムを成立させるためのものであって、そこに一歩入った途端にがんじがらめになってしまう」制度とは、こまごまとした規制や法律である場合もあるが、人々が「こうあるべき」とかたくなに信じ込んでしまったものでもある。当たり前だと思っているものは身のまわりにたくさんあるが、どんなに自明に見えても、そのかたちややり方はある時代ある場所で都合がよかっただけのことかもしれない。伊東は、そうした制度と真っ向からぶつかり合った経験がある。2000年に竣工した「せんだいメディアテーク」の設計、建設のプロセスがまさにそれだった。

「建築家の仕事は少しでも緊張感をなくすと、あっという間に300メートル遅れをとってしまう」

「ぼくは自分のスタイルをつくりたくないんですね。スタイルをかたくなに守ることは、ぼくには無理だと思います。今でも自分のつくったものがいつも次第に嫌になってくるんですね。それを叩き台にして、別のものに変えていき、またそれを反面教師に別のものに置き換えていくというやり方をしてきたんです。道を究めたということは、いちばんやりたくないことです」

「うまくいく時といかない時がもちろんあるけれども、走り続けていれば必ず何が問題かが見えてくる。どこかで手を抜いたり、まわりを見渡さないで一休みしていたりすると......」すぐに建築家はダメになると言うのである。伊東の根幹をなすものは、実験性である。

「大学卒業直後はみんな無能力なものですが、伊東さんは優秀だと思いました。そして、新しい環境を考える相手として非常にタフでした(菊竹清訓)」

「戦争は文化のつぶし合い」と菊竹は言う。そして、建築家として「文化がつくれないのなら、仕事をやってはいけない」。菊竹は穏やかな表情の下に激しい熱意を隠し持った人物と窺われる。静かに下を向く表情が、驚くほど伊東に似ている。かつての所員を、「伊東さん」あるいは「伊東先生」と敬意を込めて呼ぶ礼儀正しさ、そして歴史と社会に対して大きな課題を自らに背負わせたさまは、まさに今はなくなってしまった「大建築家」の姿だった。事務所の壁には今でも、「か」「かた」「かたち」の文字を三角に結んだ図がかけられていた。

「世界はグローバルになったので、今や商品はどこに行っても同じです。だからこそ、ここでは歩くにつれて異なった空間体験ができるような、忘れ難い場所にしたい......ビジネスも文化もショックがないと、クリエイティブな新しい境地が開けない」

「僕は日本の建築家であることは意識していませんが、僕が日本語をしゃべっている時には、その中に独自の構造や間があって、それがデザインに現れているかもしれません。英語やイタリア語はあまりうまく話せませんが、日本語で話すのは自分がデザインしている時とよく似ています」

「デザインをするのは書くことと同じです。あいまいに動き続けるものを、どこかで止めて限定するんです」

「建築には人がいた方がおもしろくなるのと同じように、いろいろな家具があった方がいい」

「僕は、いつも建築よりも(内と外の区別がない)公園をつくりたいと思っているんです。建築はどうしても閉じられた空間をつくり出してしまう。そうすると不動の秩序ができてしまうんです。人々が自分好みの場所を選択できる自由をつくろうと。」

伊東は、建築の中にいったん壁を立ててしまうと、壁は増殖するとか、人間は動物的な本能にしたがって徘徊しながら、落ち着ける場所を探すとか、元来建築とは自然の中に最低限の秩序を持ち込むことによって人間が住める空間をつくろうとしていたのに、それがただちに人間や社会の権威を表現するものになってしまう。そうしたものを自分は排除したいにのだ、と。

所員が伊東のスケッチをこれだけ恐れる理由は、伊東が描く一見単純なスケッチにすべてが含まれているからである。「煎じ詰めるとこういうことになる、というものを出してくる」。スケッチ一枚で表現できる明快さがないと、建築は前に進めない。

スケッチ以外にも、伊東への見方には共通したポイントがいくつかある。その1。伊東は、状況や相手によって出方を変える。その2。伊東は、あまりマニアックじゃない。その3。伊東は、放任主義。その4。伊東は、アイデアの勝負どころをよく知っている。その5。伊東には、その都度何かを明確にしていこうとする側面がある。その6。伊東は、怒る。その7。伊東が怒る相手は決まっている。その8.伊東は、人との関係を大切にする。その9。伊東は、ギャルソンが好き。その10。伊東は、自分のやったことを歴史的に分析している。そして、伊東の所員観、事務所経営観。その1。所員を選ぶ基準は、建築以前の問題。その2。人間としての基礎的なエネルギーは重要。その3。本当に優秀だと思う所員は、3年にひとりくらいしかいない。その4。所員は、夜遅くまで働いてよくやってくれる。その5。設計事務所とはお互いに利用し合うところ。その6。事務所には、ある種の一体感はある。その7。僕は、打ち合わせ中に居眠りする。その8。「負けそうだ」と思う時がある。その9。僕は、お任せ型、防御型。その10。設計事務所の概念は、いずれ変わらなくてはいけない。いずれ研究所のように個人名で仕事をする人間の集まる「共同作業場」のようなところから、優れた建築を生みだすようになってゆくはず。

「現場が散らかっていると、間違いも多くなります。今回やってきて、部屋のでき具合や現場の散らかり方が気になりました。これから建物がどんどん完成に近づきます。私もできるだけ現場にやってくるようにしますから、みなさんもよろしくお願いします(パリ・コニャック・ジェイ病院の現場で。)」

「近代主義の建築は、明快でピュアで箱のように完結してしまっているんです。自然エネルギーを利用すると言っても、単にその箱に装置をくっつけるような方法でしかできなかった」

伊東は「ゴージャス」とか「品のある」とか「エレガントな」とか、建築家なら恥ずかしくて使わない表現を口走っている。色の塗り分けで空間を操作するような禁じ手を用いるのは、モダニズムとはまったく異なった考え方。だが、逆に新鮮さを感じる。

皮肉なことに、建築家の成功は建築家個人の体力的ピークとは無関係に、しかもたいていは遅れてやってくるものらしい。一般のサラリーマンならば定年を迎えるような歳になってから、重い身体をあちこちへと引きずって出かけていくのである。もちろん、建築家たちはあくまでも涼しい顔を装っているわけだが。

「若い頃は僧のようにストイックに仕事をしていたのですが、今は人と関わっているうちに、自分でもびっくりするようなものが出てくるんです。そこがおもしろい......」

頭と心では何かしたい気持ちでいっぱいなのに、どうにも手が出ない。被災地から仕事を頼まれることもない。これまで建築家という職業がどれほど受け身に構え、また「私」の表現だけに閉じこもってきたか。大震災は、建築家たちにこれでもかというほど、それを痛感させた。

これまで建築家は、施主に仕事を依頼されて建築をつくってきた。だが、「みんなの家」はただ待っているだけでは実現されなかった。建築家自ら働きかけ、住民と話し合い、場合によっては資金調達も行う。これまで受け身だった建築家が、自分からできごとを起こす。そうしなければ、本当の思いをかたちにすることはできない。

人々が集うこと、安心すること、生きる希望を持つこと。そんな場所をつくること。かたちに関わってきた建築家、伊東豊雄は今、かたちのないものに挑戦している。

建築だけでなく、音楽やアート、そしておそらくビジネスまで。これまで重んじられてきた「個」や「個性」がすっかり色あせて見えるような体験を、日本はしたのだ。「個」ではないのならば、何なのか。「個」でありながら、「個」をどうやって超えるのか。伊東自身、復興の仕事と通常の仕事の間にあるギャップを解決できないという。だが、その折り合いと、大きな問いを解くための手がかりを伊東が探していることは間違いない。
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もう、20年まえにもなるだろうか。東京で生活をしていた頃、職場の先輩を誘って「くまもとアートポリス」の施設見学ツアーに出かけたことがある。ボクが初めて伊東豊雄という建築家を見聞き、したのは、その時だった。細身でわりに小柄なその「体軀」からは、想像もつかない湧きいでる「エネルギー」に圧倒されたことを、昨日のように衝撃的に覚えている。瀧口範子さんが書かれたこの「にほんの建築家 伊東豊雄・観察記」を手にしてその感触がいままた、ふつふつと蘇ってきた。本文庫化にあたって、『単行本を小型にしてそのまま出版する』通常の「やりかた」と異なるもので、と書かれているが、それはそのまま、建築家・伊東豊雄さんが歩んでこられた建築家としての「いきざま」と重なるところが多いのではないか、と。そのようなことを考えながら、本書の「重み」を感じ、拝した「大著」の余韻にいまも浸っているところである。


(目次)
プロローグ
陸前高田1
東京1/コンペを闘う
東京2/文房具
東京3/アルミ
施主
東京4/ガーデン
東京5/議論
事務所はじめ
東京6/火葬場
松本へ
諏訪/上京/建築家になる
1970年代/若い建築家の頃
シンガポールへ
ヴェネツィア/ミラノ
パリ1/現場訪問
東京7/カーテン
八代
アンチ多数決
京都へ/学生
所員
パリ2/病室
バルセロナ/トレビエハ
福岡/伊東塾
東京8/年末
伊東スクール
チリ/サンチャゴ/マルベラ
東京9/フランス人/群馬へ
大地震
陸前高田2
あとがき
文庫版あとがき(エピローグに代えて)
参考文献

(参考)