2012-12-15

バーボン・ストリート・ブルース

価値観を持って生きるという
「暮らし(美学)」について、考えさせられる本です。
三十年あまり、ギターをひっさげて日本中をフラついていた。コンサートツアーに出ていない日は早朝、井の頭公園に散歩に出ている。天気がいい時には楽器を持って、というのは口実で、楽器を弾いているのは一時間くらい、あとは飲んでいる。この五、六年で僕の友人たちが何人も死んでいった。彼らよりも僕のほうがこんなに飲んだくれ!で、いつ死んでもおかしくないのに。ならば今のうちに語り残しておこうかという気になった。これまで僕のことをいろいろとおもしろおかしく書いてくれる人がいたが、かなりマチガッテいる!記憶なんぞというものはあいまいなモノかもしれないが、自分のことであれば本人のほうが確かだと思うのです。ということで、何十年ぶりかに、ふるさとの岐阜・北方町に立ち寄った。あんなに大きな町だったのに、もっと広い通りだったのに......と予想を越える変化にとまどった。幼いころの目線であればなーと思い、僕は町を去った。もう、ふるさとは、なくなっていた。「バーボン・ストリート・ブルース」という本書のタイトルは昔、出したLPからとりました。バーボン・ストリートはアメリカ南部、ニューオリンズにある歓楽街の通りの名で、「バーボン・ストリート・パレード」というジョージ・ルイス(デキシーランド・ミュージックの王様)の名曲がある。かつては華やかなりしころのアメリカ南部の象徴的な街であったという、そこには人々の生き様が映されていたという(もしかすると、僕がいた深川に似ていたかも......)。

◇◇◇◇◇
そんななかで武蔵野タンポポ団が志向したのは「ジャグ・バンド」と呼ばれる古いスタイルの音楽だった。ジャグ・バンドは、のちのデキシーランド・ジャズの原形になったともいわれている形態の音楽である。黒人が楽器の代わりに身近な生活用具を用いて演奏したのがはじまりで、そのひとつに口の狭いジャグ・ビンというものが使われていたことから名がついた。そのほか金属製の洗濯板や金ダライなども使われたという。もちろんこうした道具は、ギターやバンジョー、ハーモニカなどの楽器といっしょに用いられて演奏されたのであるが。

僕が音楽活動を始めた当時、最も人気のあるフォークシンガーといえば高石友也と岡林信康のふたりであった。学生運動の最盛期-日大闘争および東大闘争、ベトナム反戦運動、七〇年安保闘争などが繰り広げられるなか、メッセージ色の強いプロテストソングを引っさげたふたりは、一躍、時代の寵児となった。高石友也と岡林信康が受け入れられたのは、彼らのプロテストソングが当時の空気にぴったりとあったからだと思う。また、時代がそういうものを要求していたこともたしかだった。

僕はそのフォークゲリラの人たちに対し、そしてそれを報道するマスコミに対し、「あなたたち、利用されていますよ」という歌をつくった。『自衛隊に入ろう』のB面に収められていた『東京フォーク・ゲリラの諸君達を語る』という歌である。そもそも僕は集団のなかに入ってなにかするというのがあまり好きではない。たとえばデモに行くのだったら、自分一人でゼッケンを引っ掛けて行くのが本来の姿だろうと思うのだ。印刷したゼッケンをみんなでぶら下げていくようなものは、デモでもなんでもない。それはただの残業である。

僕はほんとうの詩というものは「最後に出さざるを得ない、厳選された一句」だと思う。便秘も困るが、ユル便じゃないのだからダラダラ出せばいいというものでもない。やはり自分のなかからようやく出てくるものだと思う。悩み悩んだ末に余計なものがすべてなくなってフッと出てくるもの、それが詩の本質ではないのだろうか。

今という時代を見ていると、『ソイレント・グリーン』に描かれた未来に近いところまで来ているような気がしてならない。もちろんそんな社会にはなってほしくないが、このままいけばいずれ手痛いしっぺ返しが来るのではないだろうか。いや、もう来ているかもしれない。二十一世紀という新しい時代は、人間が二十世紀にやってきたことを反省する時代にしなければいけないと思っている。戦争をはじめとする愚かな行為の数々、それらを二度と繰り返してはならない。そんなことを言うと「時代に逆行する」と言い出す人が必ずいるのだが、逆行しないことにはどうにもならないところまで来ていると思う。もういい加減、むやみに突き進んでいくのはやめにしたらどうだろうか。

「僕は街の人間だ」と前述したが、国内外をあちこち旅していると、改めてそのことを痛感する。今は“田舎暮らし”がブームになっているようだが、僕は田舎では暮らせない。八歳のときに岐阜から東京に出てきて、十七、十八歳から歌を歌い始め、今日まで三十年近く全国を回りながら歌を歌い続けてきた。とりあえず家に荷物だけは置いてあるけれど、ほとんど放浪を続けてきたようなものである。自分が「そこ」という場所に一度も座ったことがないのだ。いい条件で「ここにいなさい」と言われても、たぶん落ち着かない。これはもう死ぬまで変わらないと思う。だから田舎に定住することなど絶対に考えられない。どんなに自然が美しい場所であっても、「どうぞ」と言われたらやっぱり一歩退いてしまう。

僕にとって旅というのはもしかしたら飲んでいる場所をただ変えるだけのことなのかもしれない。いつもとは違った場所で飲み、そこに集う人々を見る。実は自分のことも見つめている。おそらく、きっと、それが僕の旅なのだと思う。

十代の後半ごろになって、ようやく詩や文学作品を読むようになった。とりわけ現代詩には夢中になった。ほかでも触れたが、そのころはまだ酒を飲んでいなかったので、暇があれば山之口貘、金子光晴、谷川俊太郎、草野心平、吉野弘、黒田三郎らの詩集をパラパラめくっていた。そんな詩人たちのなかで異色だったのが永山則夫だ。周知のとおり、永山則夫は1968(昭和43)年に起こった連続射殺魔事件の犯人であり、1997(平成9)年に死刑が執行されてこの世を去った。永山は1971(昭和46)年に『無知の涙』というタイトルの獄中日記を出版しているが、これを読んだときに僕は素直に「ああ、すごいな」と思った。殺人を犯してしまったことはそれとして、彼の書いた詩がとても素朴でよかったのだ。僕はそのなかのひとつに曲をつけた。『ミミズのうた』という曲である。

歌を歌うようになってから、僕は写真に興味を持ち始めた。京都にいたとき、兄から払い下げてもらった6×6という大きなカメラを持って、京都の街のスナップを写して歩いた。写真は誰に教えられたというわけではない。失敗を重ねながら覚えていった。当時のカメラは今のような全自動ではもちろんない。露出を合わせるにしても、自分の両手に光を当ててみて、その明るさでだいたいの見当をつけていた。僕がカメラに魅かれたのは、一本のギターから奏でられる音楽が弾く人によって異なるように、一台のカメラで写された写真も、写す人によってすべて違ったものになるからだった。きわめて現代的な道具なのに、その人の性格が必ず出るのだ。さmざまな無機質なものが浸透しているなかで、人間が人間らしさを表せる数少ない道具のひとつだと言ってもいい。だからおもしろいともいえる。

凮月堂によく通ったのは、1960年代半ばごろの話である。店に行ってなにをするというわけでもない。行けば必ず知った顔があったから、二言三言雑談を交わし、あとはクラシックを聞きながらコーヒーをチビチビ飲んでは時間を潰していた。とにかく凮月堂には得体の知れないさまざまなジャンルの人々が集まってきていた。僕が通っていたころには、詩人、俳優、文学者、劇作家や、いわゆる芸術家を志す不良みたいのがたくさんたむろしていた。音楽家や画家、前衛芸術家、舞踏家など、一癖も二癖もありそうな人たちも足繁く通っていた。僕が京都に行っていたときには、新左翼の活動家や学生、ヒッピーやバックパッカー、ベトナムからの脱走兵らが出入りするようになり、雰囲気もガラッと変わったようだ。

いまだ(高田渡さんの)奥さんにはよく言われる。「あなたには“家”という意識が欠如している」と。それはおそらく子供のころからの家庭環境がまともではなかったからだと思う。物心ついたときから母親は不在で、父と男兄弟だけの暮らしが長かったうえ、あちこち転々としていたわけだ。家というものに馴染めないのも致し方ないのかもしれない。だから父が亡くなって佐賀の親戚に預けられたときも長続きしなかった。しかし、かといって家に帰りたくないわけではない。これでも犬並みに帰巣本能はちゃんと持ち合わせているつもりだ。家にいること自体も好きだし、決して嫌いではない。だけれど、なんとなくお尻がむず痒いようなところがある。おまけに自分の目の前に「時間」というものがドカンとあったりすると、もうどうしていいかわからなくなってしまう。そういうときは、飲み屋に直行する典型的な飲み屋逃避症候群である。そのくせ、ひとりでぽつんといるときに、人一倍寂しさを感じたりすることがある。とてつもなく寂しいなあと思うことがある。それをごまかすために、また酒を飲むのである。いい気なもんである。奥さんはほんとうによくやってくれていると思う。寝たきり老人の介護のほうがずっと楽かもしれない。彼らは寝たきりで動けないけど、こっちは元気がいいとなまじ徘徊するものだからよけい始末におえない。
◇◇◇◇◇

さいごに、絵本作家のスズキコージさんが高田渡さん宛に手紙(解説「自転車に乗って天国へ帰って行っちゃった」)を書かれています。そのなかに高田さんと生前やりとりされた様子が描かれています。ちょっとその部分をご紹介しておきます...ね。

僕がせっせと黒インクで誇大妄想狂的ギターマンの絵を描いていると、渡ちゃんがやって来て、「スズキさん、失礼な事を言わせてもらいますが、これでは音がなりません」と、ギターに穴が二つある絵を指して忠告してくれたりもした。渡ちゃんの幼い頃の話をやはり焼酎をやりながら聞いた事がある。岐阜の広い庭のある屋敷に、父親と兄弟四人(母親は渡ちゃんが幼い頃亡くなっていて、ほとんど記憶が無いそうで、この事が渡ちゃんの女性願望?に、影響していると思う)で住んでいて、父親は共産党まっ赤っ赤の詩人で、ある日、その屋敷全部を近所の保育園に寄付してしまって、全員で上京し、敗戦直後の上野公園のカマボコハウスで、ドラムカンの配給炊き出し飯を食べていた事。それから、長屋住いをしている小学生の頃、父親が「君が代」だけは口がさけても歌うなと、子供達に言っていた事。ある日、父親が今日は小学校を早引きして来るようにと言うので、帰ると、父親はリヤカーに少ない家財道具をつんで子供達を連れて歩き出した。渡ちゃんいわく、「これは今考えると夜逃げであった」。これはもう、歌になるしかないようなドキュメンタリーで、深い井戸をのぞき込む感がおし寄せ、僕等は、渡ちゃんのあたりさわりのある生活の柄を聞き、笑い涙する。何故か、渡ちゃんは、寿司とラッキョウがダメで、茶碗蒸しが好物、女優ではジーナ・ロロブリジーダ(かなり肉感的な)が好みと聞いた時、茶碗蒸しのようなグラマーな美女にあこがれていたのか?(ちなみに深沢七郎は、ブリジット・バルドーが好物)とも思うけれど。僕のチンドン小屋に遊びに来て、飲みながら、昼寝をしたり、色鉛筆で絵を描いたり、夕方になると、ちゃんとウチのヤツ(渡ちゃんは刑事コロンボのように言っていた)に電話して、自転車に乗って家に帰って行ったが、今度は自転車に乗って天国へ帰って行っちゃった。



(目次)
序 章
自衛隊に入ろう
フォークソングとの出会い
ピート・シーガーに会いたい
第一章
貧乏なんて怖くない
共産党員だった父
東京での極貧生活
かわいげのない子供?
文選工とアメリカの歌
山之口貘への傾倒
第二章
初めてのレコードからかれこれ三十年
レコードデビューのころ
コーヒーブルース
武蔵野タンポポ団と中津川フォーク・ジャンボリー
旅から旅へ、ドサ回りの日々
「ねこのねごと」
死ぬまで歌い続ける
第三章
普通の人々の生活を歌に
僕が自分で詩を書かなくなった訳
ガンコのすすめ
第四章
旅のおもしろはなんといっても人と街
さびれた街の誘い
ある夜、僕の布団にママさんが
暴走族主催のコンサート
全国美味いものあれこれ
曲と曲の合い間に
異国でもやっぱり飲み屋
第五章
文化鯖が大好き
僕の映画ベスト3
深澤七郎さんのこと
第六章
「街の記録写真家」

第七章
今日も僕は「いせや」で焼酎を飲む
恒例行事の肝臓病
新宿凮月堂
吉祥寺ぐゎらん堂と金子光晴
「いせや」という焼鳥屋
パタンと死ねたら最高!

あとがき
(……というよりか、追加)
解説
スズキコージ
高田渡 ディスコグラフィ・年譜