2012-12-10

沈黙の春。

未来を見る目を失い、
現実に先んずるすべを忘れた人間。
そのゆくつく先は、自然の破壊だ。
アルベルト・シュヴァイツァー

春になると、小鳥の囀りが聞こえ
チョウチョが舞い、美しい花々が咲き乱れます。
しかし、レイチェル・カーソンが描いた
「サイレント・スプリング」
ではそんな春の訪れは無いことを指摘しているのです。
それは、人間自らの「手」により招いた
「沈黙の春」
だったのです。

本書の扉にこんな「詩」が書かれています。

私は、人類にたいした希望を寄せていない。人間は、かしこすぎるあまりかえってみずから禍いをまねく。自然を相手にするときには、自然をねじふせて自分のいいなりにしようとする。私たちみんなの住んでいるこの惑星にもう少し愛情をもち、疑心暗鬼や暴君の心を捨て去れば、人類も生きながらえる希望があるのに。

E・B・ホワイトの箴言であります。

いまから、ちょど50年まえに描かれた「沈黙の春」に描かれた考察はいまもって、私たち人類が解決するための「有効な手段」を見いだせずにいます。レイチェル・カーソンが、示唆したその「言葉」は「自然をねじふせよう」としている人間への戒めとして、現在も生き続けているのです。

◇◇◇◇◇
(本書を編むにあたって)たくさんの人々のおかげをどれほどこうむったか、個人的には知らない人たちが大部分だが、こういう人たちがいるということにどれほど勇気づけられたことか。この世界を毒で意味なくよごすことに先頭をきって反対した人たちなのだ。人間だけの世界ではない。動物も植物もいっしょにすんでいるのだ。その声は大きくなくても、戦いはいたるところで行われ、やがていつかは勝利がかれらの上にかがやくだろう。そして、私たち人間が、この地上の世界とまた和解するとき、狂気から覚めた健全な精神が光り出すだであろう。アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いったいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。

ただ自然の秩序をかきみだすのではない。いままでにない新しい力-質の違う暴力で自然が破壊されていく。ここ二十五年の動きを見れば、そう言わざるをえない。たとえば、自然の汚染、空気、大地、河川、海洋、すべておそろしい、死そのものにつながる毒によごれている。そして、たいていもう二度ときれいにならない。食物、ねぐら、生活環境などの外の世界がよごれているばかりではない。禍いのもとは、すでに生物の細胞組織そのものにひそんでいく。もはやもとへもどせない。

いまのままでいいのか、このまま先に進んでいっていいのか。だが、正確な判断を下すには、事実を十分知らなければならない。ジャン・ロスタンは言う-《負担は耐えねばならぬとすれば、私たちには知る権利がある》。

自然資源のうち、いまでは水がいちばん貴重なものとなってきた。地表の半分以上が、水-海なのに、私たちはこのおびただしい水をまえに水不足になやんでいる。奇妙なパラドックスだ。というのも、海の水は、塩分が多く、農業、工業、飲料に使えない。こうして世界の人口の大半は、水飢饉にすでに苦しめられているか、あるいはいずれおびやかされようとしている。自分をはぐくんでくれた母親を忘れ、自分たちが生きていくのに何が大切であるかを忘れてしまったこの時代-、水も、そのほかの生命の源泉と同じように、私たちの無関心の犠牲になってしまった。

自然を征服するのだ、としゃにむに進んできた私たち人間、進んできたあとをふりかえってみれば、見るも無残な破壊のあとばかり。自分たちが住んでいるこの大地をこわしているだけではない。私たちの仲間-一緒に暮らしているほかの生命にも、破壊の鋒先(ほこさき)を向けてきた。過去二、三百年の歴史は、暗黒の数章そのもの。新しいやり口を考え出しては、大破壊、大虐殺の新しい章を歴史に書き加えていく。あたり一面殺虫剤をばらまいて鳥を殺す、哺乳類を殺す、魚を殺す。そして野生の生命という生命を殺している。

鳥がまた帰ってくると、ああ春がきたな、と思う。でも、朝早く起きても、鳥の鳴き声がしない。それでいて、春だけがやってくる-合衆国では、こんなことが珍しくなってきた。いままではいろんな鳥が鳴いていたのに、急に鳴き声が消え、目を楽しませた色とりどりの鳥も姿を消した。突然、知らぬ間に、そうなってしまった。こうした目にまだあっていない町や村の人たちは、まさかこんなことがあろうとは夢にも思わない。

大西洋の沖合の緑の淵から、海岸へと向かう道がいくつもある。魚が通う道だ。人の目にははっきり見えないが、陸から海にそそぎこむ川とつながっている。どこまでもたち切れること続いている淡水の流れは、サケだけにわかっていて、何千年ものむかしから、この道をたどっては、生まれ故郷の川床へと帰ってくる。カナダのニューブランズウィック州にミラミッチという名前の川がある。流れが急で水が冷たいところを選んで川底の小砂利の上に、その秋(1953)、サケは卵を産んだ。ツガやマツ、トウヒやバルサムの木のしげる針葉樹の森におおわれたここは、すばらしいサケの産卵場だった。

はじめは規模も小さく、畑や森に空から散布(スプレー)していたが、やがてだんだんとひろがっていき、その量も増えてきた。イギリスのある生態学者は地表にふる《驚くべき死の雨》と最近言ったほどだ。毒薬に対する私たちの態度も、微妙な変化をみせてきた。むかしは、毒薬には頭蓋骨と二本の骨を十字に組み合わせたしるしをつけ、滅多に使うこともなかった。やむをえず使うときには、目的物以外には絶対ふりかからないように注意に注意を重ねたものだ。ところが、第二次世界大戦後、新しい合成殺虫剤が出まわり、飛行機は生産過剰となり、かつての用心深さは地を払い、勝手気儘に何の見さかいもなく、空から、もっとおそろしい毒薬をまきちらしている。目指す昆虫や植物だけでなく、人間であろうと人間でなかろうと、化学薬品がふってくる範囲にあるものはみな、この毒の魔手にかかる。森も、畑も、村も、町も、都会も差別なくスプレーをあびる。

私たちの世界が汚染していくのは、殺虫剤のスプレーのためだけではない。私たち自身のからだが、明けても暮れても数かぎりない化学薬品にさらされていることを思えば、殺虫剤による汚染など色あせて感じられる。たえまなくおちる水滴がかたい石に穴をあけるように、生れおちてから死ぬまで、おそろしい化学薬品に少しずつでもたえずふれていれば、いつか悲惨な目にあわないともかぎらない。わずかずつでも、くりかえしくりかえしふれていれば、私たちのからだのなかに化学薬品が蓄積されていき、ついには中毒症状におちいるだろう。いまや、だれが身をよごさず無垢のままでいられようか。外界から隔絶した生活など考えられこそすれ、現実にはありえない。うまい商人の口ぐるまにのせられ、かげで糸を引く資本家にだまされていい気になっているが、ふつうの市民は、自分たち自身で自分のまわりを危険物でうずめているのだ。おそろしい死をまねくものを手にしているとは夢にも思わない。

工業が発達してくるにつれて新しい化学薬品の波がひたひたと押し寄せ、公衆衛生の分野も大きく変わった。天然痘、コレラ、ペストに人類がおびえていたのは、ついこのまえのことだ。たくさんの人間の命を奪う伝染病は、神のたたりと思われていたが、いまはそんなことに心をわずらわすものなどいない。生活は向上し、衛生設備は改善され、新しい薬品ができた。だが、私たちをおびやかすものがある。すきあらばおそいかかろうとべつの悪魔がそこかしこにひそんでいる。生活の近代化が進むにつれて、人間が自分の手でまねいた悪魔が......。

人類全体を考えたときに、個人の生命よりもはるかに大切な財産は、遺伝子であり、それによって私たちは過去と未来とにつながっている。長い長い年月をかけて進化してきた遺伝子のおかげで、私たちはいまこうした姿をしているばかりでなく、その微小な遺伝子には、よかれ悪しかれ私たちの未来がすべてひそんでいる。とはいえ、いまでは人工的に遺伝がゆがめられてしまう。まさに、現代の脅威といっていい。《私たちの文明をおびやかす最後にして最大の危険》なのだ。

癌-それと生物との戦いは、ふるい。いったいいつごろからはじまったのか、歴史をさかのぼっても、はっきりしない。だが、地上に生命が誕生して、太陽やあらしや地球の原始物質からでてくる力にいやでも直面するようになったとき、もう癌と生物との戦いは自然そのもののなかではじまっていたにちがいない。自然環境のうちあるものは、生命をおびやかし、それに適応できない生物は、滅びるよりほかなかった。太陽光線のなかには放射性紫外線があって危険このうえもなかった。またあ、岩によってはおそろしい放射線を出すのもあったし、土壌や岩石から砒素が洗い出されて、食物や水を汚染することもあった。生命が誕生するまえから危険な物質は環境にあった。だが、やがて生命が芽生え、かぎりなく数もふえてきた。でも、それは、破壊的な力に対する生命の適応の結果で、適応力のないものは滅び、抵抗力のあるものだけが生き残ってきた。それも、何百万年という長い時をかけて......。

自分たちの満足のいくように勝手気儘に自然を変えようと、いろいろあぶない橋を渡りながら、しかも身の破滅をまねくとすれば、これほど皮肉なことはない。でも、それはまさに私たち自身の姿なのだ。あまり口にされないが、真実はだれの目にも明らかである。自然は、人間が勝手に考えるほどたやすく改造できない。昆虫は昆虫で人間の化学薬品による攻撃を出し抜く方法をあみ出しているのだ。

いまなおダーウィンが生きていたら、自分がとなえた自然淘汰説があまりにも如実に昆虫たちの世界に実証されているのを見ておどろき、よろこぶだろう。これでもか、これでもかと化学薬品をまきちらしたために、昆虫個体群の弱者は、滅んでゆこうとしている。生き残ったのは、頑健でまた適応力のあるものだけで、かれらは私たちがいくら押さえつけようとしても執拗にたちむかってくる。

私たちは、いまや分れ道にいる。だが、ロバート・フロストの有名な詩とは違って、どちらの道を選ぶべきか、いまさら迷うまでもない。長いあいだ旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり破滅だ。もう一つの道は、あまり《人も行かない》が、この分れ道を行くときにこそ、私たちの住んでいるこの地球の安全を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。とにかく、どちらの道をとるか、きめなければならないのは私たちなのだ。長いあいだ我慢したあげく、とにかく《知る権利》が私たちにもあることを認めさせ、人類が意味のないおそるべき危険にのりだしていることがわかったからには、一刻もぐずぐずすべきではない。毒のある化学薬品をいたるところにまかなければならない、などという人たちの言葉に耳をかしてはいけない。目を見開き、どういうべつの道があるのか、をさがさなければならない。

人におくれをとるものかと、やたらに、毒薬をふりまいたあげく、現代人は根源的なものに思いをいたすことができなくなってしまった。こん棒をやたらふりまわした洞窟時代の人間にくらべて少しも進歩せず、近代人は化学薬品を雨あられと生命あるものにあびせかけた。精密でもろい生命も、また奇跡的に少しのことではへこたれず、もりかえしてきて、思いもよらぬ逆襲を試みる。生命にひそむ、この不思議な力など、化学薬品をふりまく人間はかんがえもみない。《高きに心を向けることなく自己満足におちいり》、巨大な自然の力にへりくだることなく、ただ自然をもてあそんでいる。《自然の征服》-これは、人間が得意になって考えだした勝手な文句にすぎない。生物学、哲学のいわゆるネアンデルタール時代にできた言葉だ。自然は、人間の生活に役立つために存在する、などと思いあがっていたのだ。応用昆虫学者のものの考え方ややり方を見ると、まるで科学の石器時代を思わせる。およそ学問とも呼べないような単純な科学の手中に最新の武器があるとは、何とおそろしい災難であろうか。おそろしい武器を考え出してはその鋒先を昆虫に向けていたが、それは、ほかならぬ私たち人間の住む地球そのものに向けられていたのだ。
◇◇◇◇◇

《ものみな死に絶えし春》

ようこそ
家畜や作物は、いずれも野生生物から進化した。
人間の利用目的にかなうように“改良”されたものである。
この改良という言葉自体、はなはだ人間本位の用法である。
化学農薬の開発は農民にとって未曾有の福音というべきだった。
病原菌の場合、薬品にたいする抵抗生の問題がでてきた。
ある種の病原体のほとんどは死滅するが、
ふしぎと一部の系統が生きのこり、ふたたび増殖をはじめる。
化学薬品によって大型の生物は死に絶え、
沈黙の春が到来したのであるが、病原体のたぐいは沈黙せず、
しぶとく活動を再開するのである。


(目次)

まえがき

一 明日のための寓話
二 負担は耐えねばならぬ
三 死の霊薬
四 地表の水、地底の海
五 土壌の世界
六 みどりの地表
七 何のための大破壊?
八 そして、鳥は鳴かず
九 死の川
十 空からの一斉爆撃
十一 ボルジア家の夢をこえて
十二 人間の代価
十三 狭き窓より
十四 四人にひとり
十五 自然は逆襲する
十六 迫り来る雪崩
十七 べつの道

解説 筑波常治


(参考)

沈黙の春 新潮社

レイチェル・カーソン Wikipedia

DDT Wikipedia

筑波常治 Wikipedia

クロールデン Wikipedia

ディルドリン Wikipedia

エンドリン Wikipedia

マラチオン(マラソン) Wikipedia

ロバート・フロスト Wikipedia

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