2012-12-13

建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノミエ・レーモンド。

日本の住宅のあり方に一石を投じた建築家のこと。

以下、建築史家・鈴木博之氏の一文です。
『1914年にヨーロッパかあらニューヨークに向かう船中で知りあったアントニン・レーモンドとノミエ・ペルネッサンがその年12月に結婚し、1919年にライトとともに来日し、「帝国ホテル」の建築の仕事に従事したという経歴はよく知られている。だが、来日早々の1921年から22年にかけてレーモンド夫人となったノミエが旧制一中(現日比谷高校)の英語教師を務めており、彼女のクラスに若日の前川國男も出席していたということを知ったのは、つい最近のことだった。そこには、その後に形成される日本の建築界における知的な集団の萌芽が、巧まざるうちに存在していたように思われるのだ。なぜなら、レーモンドが日本の建築界に残したものは、わが国において大きな足跡と影響をもった外国人建築家の五指に充分入るからである。誰がその五指かというなら、1.まず考えられるのが御雇外国人の先駆けとして「銀座レンガ街」などを設計したウォートルス。2.そして日本に西洋建築を体系的に教授し、「鹿鳴館」などを設計したコンドル。3.そのつぎは「桂離宮」を評価して日本の美意識に多大な影響を与えたタウト。4.さらにはレーモンド来日の切っ掛けともなった「帝国ホテル」の設計者ライト。5.そしてこのレーモンド。となるからである。そのうち誰がもっとも重要で、それぞれの順位はどうなるかという問いには答えられない。どのような視点に立って位置づけるかによって、それぞれの建築家の意味は変わるからである。それでは、レーモンドの重要性は何であろうか。そこに関係するのが、冒頭に述べた日本の建築界における知的集団の形成である。レーモンドのもとには、実に数多くの若き建築家たちが集まった。1923年に日本に事務所を開設したレーモンドは、優れた建築家たちを集めることができた。内山隅三、高木健次、与谷寛、杉山雅則、中川軌太郎らが所員として集まり、後には吉村順三前川國男増沢洵、天野正治、石川恒雄、ジョージ・ナカシマなどが在籍したのである。吉村順三は、レーモンドが霊南坂に建てた自邸を雑誌で見て、その所在地を探し求めてついに見つけ出し、その門を叩いたのだった。レーモンドの「霊南坂の自邸」はコンクリートをそのまま仕上げに用いた住宅で、そこには歴史様式的な細部はいささかもない。その源泉には1922年にコンクリート打放しの仕上げで作られたオーギュスト・ペレの「ル・ランシーの教会」がある。レーモンドがペレの影響を示した作品には、「東京女子大」(1921-38)、東京築地の「聖路加国際病」(1924)、横浜の「ライジングサン石油」(1929)などがある。彼はフランスのル・コルビュジエの影響も受け、「東京ゴルフクラブ」(1931-32)などを生み出した。また、彼の軽井沢の「夏の家」(1933)は、直接的にル・コルビュジエの作品に言及する作品ではないかとの議論も生んだ。それ故にころル・コルビュジエのもとに学んで帰国した前川國男も、独立までの5年間レーモンドの事務所に勤めたのであったろう。彼はレーモンド事務所に、日本における「ヨーロッパ建築の香り」を感じ取ったのであろう。前川が旧制中学時代の英語教師の夫の事務所に勤めるという意識があったのか否かは知らない。しかしながらここに、わが国における近代建築の大きな影響源が生まれたのであった。レーモンドの建築の本質をどこに見るかという問題は、ひとによって答えの変わる設問である。日本において木造建築の近代的可能性を引き出した建築家がレーモンドであったと考えるひともいるであろうし、戦後のコンクリート・シェルを見事に構成した建築に魅力を感ずるひともいるであろう。その両面がともにレーモンドの本質だというひともいるであろう。その両面がともにレーモンドの本質だというひともいるであろうが、彼は作風を変じながら自己の軌跡を描いていったのだと見るひともいよう。ここで語りたい作品として九州の「安川電機本社ビル」がある。コンクリート打放しの表現によるいかにも戦後のアントニン・レーモンド設計らしい建物である。この建物は外壁を硬練りのコンクリートを用いて振動打ちしたものといわれる。当時のコンクリートは手作業で打設する柔らかいコンクリートが主流であったが、強度と耐久性から見て、この工法は先見性に富んだものであった。バイパス工事によって取り壊されるという危機があったが、一部を失ったものの健在であるという。わたくしはその直前に訪れただけなので現状を知らないが、訪れたときに見たコンクリートの表情は美しく、コンクリートを用いて形作られた形態はさらに美しいものであった。シェル構造を取り入れている入口の庇や、ホールの構造は軽快で華麗であるとさえ呼びたいものであった。ここには木造建築の繊細さに通じるコンクリートの表現があった。同時にここには、日本人建築家の手になる建築には決して感じられない種類の繊細さがあった。それが多くの日本人建築家を引きつけた理由ではないかとおもわれるほどに。こうした1950年代におけるハイテク表現は、日本人建築家たちには残念ながらなし得るところではなかった。それを示してくれたところに彼らの存在感があった。コンクリート建築によってそうした極限的な繊細さを表現する術を日本の建築はまだ手に入れていなかったのではないか。その繊細さは日本建築の繊細さに根ざすものなのであるかも知れない。日本建築から極限的繊細さの存在を覚知して、先端的技術によってそれを近代建築のなかに具現化することこそ、レーモンドが行ったことであり、同じようにミノル・ヤマサキが行ったことではなかったか。レーモンドが日本の木造建築の繊細な本質を知り、その弱点も知悉していたことが、第2次世界大戦時に米軍の焼夷弾攻撃策定に貢献したという話が伝えられている。ミノル・ヤマサキの極限的な繊細さを活かした建築である「ワールド・トレード・センター」が航空機の突入によって脆くも全壊していった9.11の悲劇も21世紀の歴史的事実である。こうした負の側面を秘めた建築理解のあり方全体が、その時代には極めて刺激的なものであったのだ。しかしながらそうしたすべての事柄を越えて指摘できる事実は、アントニン・レーモンドにとって、木造建築もコンクリート・シェルの建築も分裂した存在ではなかったということである。そしてその根底には、彼が日本の建築のなかから掴み取った何物かが存在していたのである。レーモンドのとっての建築の源泉は多様であった。ライトに憧れ、オーギュスト・ペレに影響を受け、ル・コルビュジエにも影響を受けた彼は、コスモポリタン建築家であったに違いないが、そうした彼にとって、日本の建築はやはり極めて根源的な源泉であったに違いないのである。そうした事実を直感的に理解したからこそ、彼のもとには数多くの才能ある日本の建築家が集まったのであり、彼らを通じてその影響はさらに広がっていったのである。』

アントニン・レーモンドとその弟子たちの軌跡、そして晩年のレーモンド夫妻のことなどをそれぞれ遺された「文」や「デッサン」などをもとに、以下メモしておきたいと思います。
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レーモンド夫妻が戦後に建てた住宅は、日本の大工の高い技術に助けられ、可変的な基本形をさまざまに組み合わせて配置し、荒廃した日本の都市の再建に貢献しようとするものだった。公的機関への採用はなかったが、それらのプランはこの時代に注文を受けたレーモンドの住宅すべての基礎を形成している。一連の住宅の成功要因は、当時入手できた単純な素材を遣い、効率的な計画を行い、オリジナルな家具や調度類をあつらえ、庭園空間を計画に組み入れたことであった。伝統的な日本の家屋と同様に、こうした住居は畳の寸法に基づく3×6尺のモジュールで設計されている。最も効率的な構造上の断面を実現するために、通常足場を組むために用いられる丸太や木材で、きわめて合理的な構造が建てられた。この方法は、当時の標準的な構造に比べて30%のコストダウンを可能にしたといわれる。木造とタイル床の住宅は、戦後日本の生活パターンの変化を反映している。1950年代と60年代の日本における現代デザイン史の中で、「単なるエキゾシティズムの表現ではなく、より深いレベルで日本と西洋の融合を試み」、その伝統的要素を取り込んだレーモンド夫妻の住宅デザインは同時代の批評家から注目された。

当時、彼ら三人(吉村順三、前川國男、ジョージ・ナカシマ)がレーモンドの下で共有し始めていたことが明快に読み取れる。それは、レーモンド自身が彼らに先立って追求してきたことでもあった。前川は、後年、幾度となく述懐しているように、コルビュジエに学んだことを日本において着実な形で実現するためには、建築を構成する部材や素材への知識が必要であり、それは、むしろ身近な木造文化の中で培われた職人の技術の中に発見できるっことを理解したに違いない。そして、レーモンドが、吉村と前川という協力者を得て自らの方法へ手がかりを得たのが、1933年に軽井沢に建てた「夏の家」だった。この別荘で、レーモンドは、コルビュジエの「エラズリス邸」のアイデアによりながらも、建設に必要な材料はすべて現地のものを用い、簡単な図面だけで大工と相談しながら建設プロセスに立会い、残った木材や綱、藁などで椅子やテーブルを制作する。それは、コルビジェの示した最前線の近代建築を手づくりの木造で追体験することでもあった。そして、レーモンドは、そこに、日本の伝統から学んだエッセンス、すなわち、構造体そのものが簡素な仕上げとなって空間を構成すること、全面開放できる開口部によって内外の空間が一体になること、を明快な形に結実させたのである。それは、同時に、レーモンドが、自然と調和し、日常生活を豊かにする簡素な建築をつくることが近代建築の目標であり、日本の気候風土に適した空間を追求することが日本の近代建築にとって大切なテーマであることを改めて確信した瞬間でもあった。

(前川の)晩年の代表作「熊本県立美術館」が竣工した1977年に前川が記した言葉が残されている。「建築を作り上げる素材及び構法は最も「平凡」なものが一番よいと考えます。そのような単純明快な素材及び構法によって「非凡な結果」を得ることこそが大切だと考えます。」ここからは、前川の到達点にあった思想を読み取ることができると思う。それは、明らかにレーモンドの求めたものと大きく重なっている。

彼(吉村)自身の別荘「森の中の家」(1962)は、吉村が他の誰よりも深く「夏の家」での経験を理解していたことが生んだ成果であり、戦争という時代を越えて、変ることなく持ち続けた建築観をよく表していると思う。後期の代表作のひとつ「愛知県立芸術大学」(1966-74)も、住宅を通して培われた考え方が結実した建築だといえる。その完成の翌年に行われたある対談で語られた次の言葉からもそのことが伝わってくる。「建築の一つの使命といいますか、そういうものは、人間が竪穴住宅をつくるころから、一番少ない労力で、一番少ないマテリアルで、いかに楽しいスペースをつくるか、という哲学があると思う」

(ナカシマの)晩年の著書を締めくくる次の言葉の中に、長い経験からたどり着いたナカシマの境地がうかがえる。それはこの教会(聖ポール教会)に込められた願いでもあったのだと思う。「孤独を愛し、家族と結び合い、一つ一つ石を積み上げ、木の一片一片との近親関係を求め、最後には空間の内的な秩序を作り出していく。こういうやり方以外に、木材を有用なものに、そして恐らく、自然がほほえみかけた時には美しいものに、形づくりながら、少しずつ少しずつ安らぎと喜びを、見付け出している。」

戦後のレーモンド事務所へ、「日本楽器ビル」(1951)の現場を経て入所したのが増沢洵である。1955年、彼は次のように記している。「使う人にとって必要なものは設計者の感覚でもなく、施工者の労力でもなく、当然の事ながら現在の使い方に適した科学的な計画と、近代技術の裏付によって実現される単純な空間である」この言葉からも読み取れるように、増沢には、吉村や前川のような伝統へのこだわりは少なかったに違いない。むしろ、彼は、フィリップ・ジョンソンの「グラス・ハウス」(1949)など、戦後の海外における最前線の動向に触発されながら、テクノロジーへの信頼をバネに、精緻を極めたディテールと構造的な工夫によって、レーモンド建築を理念的な極限まで洗練し、純化させていこうとしたのだと思う。

レーモンドの住まいには生涯、1920年に彼が描いた一枚の水彩画がかけられていた。それは、彼の来日のきっかけとなった「帝国ホテル」建設の現場で働く日本人の大工、労働者たちの姿を描いたデッサンである。そこには来日してまもなく、すでにしてレーモンドが日本で発見し、現代の世界に発信しようとしたメッセージが刻まれている。初心忘るべからず、という思いでレーモンドはこの絵を掲げ続けたのではないか。この絵を描いてから17年、レーモンドは、戦争の危機を予感するように日本を離れることとなる。だが、それまでの歳月、レーモンドという存在を介して、西洋と日本、現代と伝統は複雑に交錯しあうこととなった。1933年に軽井沢に建設された「夏の家」と呼ばれるレーモンドの別荘は、世界の現代建築の流れに呼応しながら、日本という地域に根ざした建築を行なうというこれらの努力が、世界に意味を持つことをはっきりと主張した建物として大きな意義を持つものである。展覧会(「建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノミエ・レーモンド」展)の冒頭に大きなパネルで飾られている「夏の家」の一枚の写真は、このレーモンドが到達した建築の理念を、ひとつの美しいイメージとして語っている。そこには夏のある日、幼い少年がこの軽井沢の家のテラスで水遊びする姿が写っている。
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(目次)
日本展主催者のあいさつ
レーモンドのもたらしたもの 鈴木博之
A・レーモンドのモダニズム:その設計作法 三沢浩

SECTION 1
日本との出逢い 1888-1923
SECTION 2
新たな機会 1923-31
SECTION 3
共通の基盤 1931-38
SECTION 4
ニューホープの実験 1938-49
SECTION 5
日本への帰還 1949-55
SECTION 6
綜合 1955-73
エピローグ
レーモンドと日本 松隈洋
交差する眼差し-戦前期のレーモンドについての断章 大田泰人
略歴・主要作品年譜
参考文献

(参考)