2012-11-04

軍艦島 全景。

「軍艦島」。
海上に浮かぶコンクリートの不沈艦は、
かつて日本の発展を根底から支えた黒ダイヤの島だった。
いまから約4年前に発行(2008/12/12初版)されている本です
手に入れた当時は「廃墟本」というような扱いがなされていてページを捲ることも
憚るような気持ちでしたが、現在、身近に起こり始めている「事象」をみるに
「これは、過去の遺構の話ではないのではないか」
と感じはじめ、エントリーすることにしました
以下、本書の文を掻い摘んでこの「廃墟の島」のことを
描いてみたいとおもいます

1974年(昭和49)の閉山から40年弱の時間が経過しようとしている「廃墟の島」
海上に浮かぶその佇まいが「戦艦」に酷似していることから呼ばれるようになった「軍艦島」
長崎県西南端、野母半島の海岸から約4kmの海上に浮かぶ
長尺480m、短尺160m、島周囲1.2km、島高47.5m
の半人工の「海上炭鉱遺構・端島(はしま)」
長崎県東シナ海側の海底にあった良質の石炭を産出する海底炭田が存在し
20世紀において多くの島々が「炭鉱」として栄えていました
端島はそのなかでもっとも南端に位置している島なのです
1820年石炭発見以来、細々と採炭が行われていましたが、1890年(明治23)
三菱社の買収によって、本格的な炭鉱施設へと変貌を遂げます
以降、閉山まで八幡製鉄所などの原料炭として栄華を極め
日本の近代化における基幹的役割を担っていました
しかし、国のエネルギー政策の転換によって
1974年(昭和49)1月に閉山、同年4月に島民一斉退去により
一瞬にして「無人島」となったのです
最盛期の昭和30年代の軍艦島には
「住居、学校、病院、映画館、商店、旅館、寺社」
などが整備されて、約5300人もの島民が生活していたということです
狭い土地と過密な人口対策として生まれた「コンクリート構造」の建造物が林立するなか
「海底水道」の敷設、「屋上庭園」による緑の補生など
その時代において最先端の技術が取り入れられてゆきました

現在、廃墟の島となってしまった「軍艦島」
最先端技術のいち早い導入と、それがもたらす豊かな生活。
その反面外界からの供給が途絶えることによって全機能が停止してしまうという脆弱さ
このような「相反する側面」を持っていた「軍艦島」は
その人口の多さとともに、現代の大都市の構造に類似した
「超近未来都市」
であったのです

2003年8月27日
「軍艦島」を世界遺産にする会がNPO法人として認定されました
そして
2003年秋、軍艦島クルーズ就航
2006年暮、九州・山口の近代産業遺産群のひとつという形で、文化庁へ提出
2008年9月、世界遺産暫定リストに入ることとなったのです

あとがきの一文にこころをひかれます
『現代に生きる我々は、もっと先人たちの声に耳を傾けるべきなのではないだろうか。軍艦島はあくまでひとつのシンボルだ。あなたの町の身近な場所にも、知られざる歴史を持つ場所が眠っているに違いない。本書がその扉を開く一助になれば幸いだ』と。
「軍艦島 全景」より


(目次)

はじめに
軍艦島概説
廃墟 軍艦島
軍艦島の未来

住宅棟アーカイブス
■大正時代■
30号棟/16~20号棟/8号棟/23号棟/12号棟
■昭和時代(戦前)■
50号棟/25号棟/1号棟/6号棟/11号棟/56・57号棟/66号棟/14号棟/65号棟
■昭和時代(戦後)■
24号棟/5号棟/2号棟/67号棟/7号棟/22号棟/59~61号棟/21号棟
■昭和時代(高度成長期)■
48号棟/31号棟/69号棟/68号棟/中ノ島/70号棟/3号棟/51号棟/39号棟/26号棟/13号棟/71号棟/ちどり荘
■昭和のタイムカプセル■
ダイヤルチャンネル式白黒足付きテレビ/襖/51号棟の台所 他
■軍艦島名所散策■
船着場1~3/南部プール/端島銀座/汚水浄化槽、めがね/地獄段、五十段/児童公園/潮降街、テニスコート/
学校グランド、温室/貯水タンク、肥前端島灯台
■鉱業所アーカイブス■
竪坑/捲座/選炭施設/貯炭場/換気施設/動力施設/ボタ/その他
■アンダーグラウンド■
59~61号棟地下、その他の住宅棟地下/人道トンネル、鉱業所地下施設
軍艦島ビューポイント
あとがき
軍艦島略年表
用語解説
軍艦島全島マップ


(参考)