2012-11-01

9坪ハウス 小さな家で大きな暮らし。

最小限に「すまう力」。
いまからおよそ60年まえ(1951)に、建築家・増沢洵が若干26歳で
東京・東北沢に設計・建築した自邸です。
「3×3間(建築面積9坪)」正方の
ハコに「3坪」の吹抜空間をもつ住宅(のちに事務所兼用住宅)です。
増沢洵はこの住宅に「家族」4人(本人・妻・長男・長女)+事務所の機能を
もたせていました(13年間で3回の増改築を行なっている)。
増沢は当時、当選が困難であると言われていた
「住宅金融公庫」に応募し、当選したことから
この住宅建築の設計計画が始められたということです。
設計当時の様子が
増沢洵さんのご長男・幸尋(ゆきひろ)さん(現・増沢建築設計事務所代表)
によって次のように紹介されています

◇◇◇◇◇
「9坪ハウス」より。
最小限住居--自邸(1952)
 1951年、増沢洵(26才)の設計である。レーモンド建築設計事務所に勤め始めて半年、当時なかなか当選しない金融公庫の融資に当選したのがきっかけで自宅の設計を開始、設計期間2ヶ月、工事期間3ヶ月のスピードで1952年3月に竣工した。「新建築・1952年7月号」に「最小限住居の試作」の名称で掲載された。200坪の敷地の中にぽつんと建つ、建築面積が9坪、延べ15坪(49.58㎡)の住宅である。その当時は金融公庫の融資の上限が60㎡で、「最小限住居」の名称が付いてはいるが、比較的大きな住居であった。平家の住宅が多かった時代であるが、吹抜けのある2階建ての空間構成、12本の丸柱構造、鉄筋の筋交い、水洗便所、キッチンなどは最新設備、ワークスペースと家事コーナーがあった。タタミ室はないが「和の雰囲気のあるモダニズム建築」で、設計者の「最大限努力住居」と呼んでも良いだろう。2才半の私にとって13年間をこの家の変遷と共に接している。この「最小限住居」は3回の増改築を行っている。2年後に妹が誕生して家族が4人になり、吹抜け部分に床を張って増床、1956年に設計事務所開設に伴い玄関を作り、次の年に1階部分の南側に下屋増築、横に物置きを作った。障子の入った大きな開口部と吹抜けは、「整然とした大きな空間」という幼稚園生の記憶である。GLから1FLが363mm、2FLまでが2242mm、庭との一体感があり、母は手を延ばすと2階の床に荷物を乗せられた。小学校の低学年、1階の寝室の2段ベットの上段を使っていた。うっかりすると2階の根太に頭をぶつける高さ。階段は蹴上げが182mm、踏面が204mm、50度に近い勾配で梯子感覚。1階の腰窓の高さは757mm、窓から地面に飛び降りられた。横の物置きから下屋に乗り移り2階に入ることも可能で、あたかも忍者屋敷。3間(5454mm)の正方形プランは子供にとっても「スケール感」を楽しめる空間を作りだしていた(増沢建築設計事務所HPより)。

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この最小限住居。
家をかたちづくる「構造(梁や柱など)」がすべて見えています
余計な「化粧」は施さない「すっぴん」の空間
3坪の吹抜けを介して公と個を立体的に仕切っている「デザイン(設計)」
設えは「単純かつ必要最低限」とする中にも
日本人の持っている「和」の心を採り入れています

増沢洵というひとりの建築家が、この「最小限住居」で実現したかったこととはなにか?
当時、「個人住宅」は「一定の高所得者層の所有するもの」とされていたなかで
若い夫婦(家族)でも棲むことのできるようにと
「規格寸法にこだわりをもち、良質(居心地の良い)で飾りのない(素のまま)」
すまいをつくろうと考えていました
そんな、増沢洵の「最小限」にして「最大限努力」された小住宅は
リメイクデザインされて、「滋賀、千葉、群馬、神奈川、愛知」などで
現在、つくられ住まわれています


(目次)

はじめに

9坪ハウスってなに?
ルーツは建築家・増沢洵さんの自邸
増沢さん一家の暮らし
増改築を経て、解体移築へ
再現された軸組
増沢邸をリメイクする
「デザインされたプロダクト住宅」の発想
9坪ハウス誕生

9坪ハウスに暮らす
お花見にきませんか[桜並木が見える家]
おひさまに抱かれて[子どもが主役の家]
お気に入りは梁からの眺め[ニワと離れのある家]
デザイナー×施主対談 小泉誠×横山至・多恵夫妻
住まいを交換してみる[親子それぞれが使いこなす家]
「まって。ボクもいく!」[外とつながる家]
建築家×施主対談 阿部仁史×田村佳司・恵夫妻

9坪ハウスをつくる
仕切りのない家がほしい
体に安心な家がほしい
大勢で暮らせる家がほしい
ハル子さんの9坪ハウス日記

12組の建築家/デザイナーによる、13タイプの9坪ハウス

座談会 9坪ハウスを観察する

9坪ハウスのあゆみ

あとがき


(参考)