2011-11-11

住む。ということ

家 ― 住の洗練
一国の文化の価値
いかにたくさんの工業製品を作るかで決まるものではない
それは
Made in japan全盛の頃に、すでに日本が悟ったこと

富を所有するだけでは幸福になれない
手にしているものを適切に運用する
文化の質に関与する
知恵
あってはじめて人は充足し、幸せになれる

「量」から眺める産業ではなく
日本人がその深層に保持し続けてきた美意識を運用して
美の国としての「質」を運営していくことのできる
ヴィジョン

高度なテクノロジーも
結局は技術の上にいかに高度な
美意識や洗練を適用できるかによってその水準が決まってくる

日本のすまいは
民家・数寄屋など、履物を脱いで上がる畳敷きの座敷
襖で仕切る
「田の字」構造の民家
家具は少なめで、座敷を可変空間として用いた
関東大震災(1923(大正12)9/1 )以降
サラリーマンの増加によって
職と住の分離
加速された高度成長以降は
公団住宅や分譲マンションが日本の都市型のすまい
をひとつの典型とし
殺伐としたあきらめにも似た画一性の氾濫が起こるのである

家をつくる方法はだれも教えてくれない
「三十路も半ばを過ぎたら
こういう家を購入し
家具や調度はこのようにしつらえなさい」
と父から教わった記憶もないし祖父から諭された覚えもない
父が手を抜いたわけでも、祖父が冷たかったわけでもない
日本の暮らしはここ五十年で激変してしまった
父や祖父の次代の知恵の多くは僕らの世代には生かせない
家のかたち
家族のかたち
コミュニティのかたち
大きく変わってしまったし、今も刻々と変わりつつある

だから学校でも
家のつくり方
教えられない
せいぜい家庭科で雑巾の縫い方や調理の初歩を学習する程度
状況の不安定ななかでは
家づくりの指針などには触れられないのである

用と対価のバランスを合理的に考えるなら
長く使う構造体(スケルトン)と、可変性のある内装(インフィル)を分けて考え
良質なスケルトンを吟味し、インフィルを自分の暮らしに合わせればいいのである

さて
どうやって自分の生き方にぴったり合った「住まいのかたち」を獲得すればいいか
それはさして難しいことではない
目をつぶって「へそ」を指せばいい
自分にとって
一番大事な暮らしのへそを、家の真ん中に据えればいいのだ

風呂が好きなら、一番日当たりのいい場所に立派な風呂場

ピアノを弾きたい人なら、グランドピアノを部屋のど真ん中に据えて防音壁・遮音床

ジムのようなエクササイズのできる広い広い床を備え、マイペースでトレーニング

料理好きなら、台所に最大の予算を投じて、食を中心とした家をつくる

本が好きなら、壁という壁を本棚にして、書物の迷宮に住めばいい

外にいる時間が長く、寝るだけに戻る人はマットレスや布団を吟味した安らぎの家

など

それぞれの人々が
自分の暮らしの「へそ」を考えれば
家のかたちはおのずと多様性を帯びるはずだ
しかし
このような家はほとんど見たことがない
多くの人々は
似たような家
暮らしているのである
だからこそ、そこに手つかずの可能性が眠っている

住空間をきれいにするには、できるだけ空間から物をなくすこと
ものを所有することが豊かであると、僕らはいつの間にか考えるようになった
快適さとは
溢れかえるほどのものに囲まれていることではない
むしろ
ものを最小限に始末したほうが快適なのである
なにもない
という簡潔さこそ
高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床であると
日本人はその歴史を通して、達観したはずである

僕らはいつしか
もので溢れる日本というものを、度を超えて許容してしまったかもしれない
世界第2位であったGDPを
目に見えない誇りとして頭の中に装着してしまった結果か
あるいは
戦後の物資の乏しい時代に経験したものへの
渇望が
どこかで幸福の測る目盛りを狂わせてしまったのかもしれない

しかし
そろそろ僕らはものを捨てなくてはいけない
捨てることのみを「もったいない」と考えてはいけない
捨てられるものの風情に
感情移入
して「もったいない」と感じる気持ちにはもちろん共感できる

もし
そういう心情を働かせるなら、まず何かを大量に生産する時に感じた方がいい
さもなくば購入する時に考えた方がいい
もったいないのは
捨てることではなく、廃棄を運命づけられた不毛なる生産が意図され
次々と実行に移されることではないか

大量生産という状況についてもう少し批判的になった方がいい
大量生産・大量消費
加速させてきたのは、企業のエゴイスティックな成長意欲だけではない

所有の果てを想像できない
消費者のイマジネーションの脆弱さもそれに加担している
ものは売れてもいいが
それは世界を心地よくしていくことが前提であり
人はそのためにものを欲するのが自然である
さして必要でないものを溜め込むことは決して快適でないし心地よくもない

良質な旅館に泊まると
感受性の感度がワンランク上がったように感じる
それは空間への気配りが行き届いているために
安心して身も心も開放できる
からである
これは一般の住まいにも当てはまる

現在の住まいにあるものを最小限に絞って
不要なものを処分しきれば住空間は確実に快適になる
試しに物品のほとんどを取り除いてみればいい
おそらくは予想外に美しい空間が出現するはずだ

魅力的なものを生み出す
問題の本質はいかに魅力的なものを生み出すかではなく
それらを魅力的に味わう暮らしをいかに再興できるかである
(そういった魅力ある暮らしを)
味わい楽しむ暮らしの余白がどんどん失われているのである

現代のプロダクツも
同様
よりよく使い込む場所がないと、ものは成就しないし
ものに託された
暮らしの豊かさも成就しない
だから僕達は今、未来に向けて住まいのかたちを変えていかなくてはならない
育つものはかたちを変える。「家」も同様である

家がテクノロジーによって制御されるようになれば
その分野においても先頭に立てるはずだ
現在は東日本大震災によって苦境に立たされている日本であるが
これは潜在させてきたエネルギーや環境への技術を飛躍させていく契機と考えた方がいい

パソコンのOSや検索エンジンの開発などでは
米国に遅れを取った日本であるが
家をインテリジェント化していく領域
すなわち繊細な技術を日常空間化していく方向なら得意分野でもある
モーターショーならぬ
情報を満載した「家のエキジビジョン」が
豊富な具体事例を目の前に展開できるなら
希求水準の成熟したユーザーたちは旺盛にこれに反応してくれるはずだ

それを具体化できる建築やデザインの才能に日本は事欠かない

さらに
活発化してきたソーシャルメディアを
これらの動きに上手に寄り添わせ
欲しい情報が手早く手に入り
個人的な相談にも気軽に応じてもらえるような仕組みを整備していくならば
「住まい」という果実の収穫は、案外とうまく運ぶかもしれない

最近ではこんな話もきいた
URの住宅計画を見ると意外に面白い
「減築」と称して階層を低層化することで新たに
ルーフテラスを確保したり
垂直あるいは水平に壁や天井をくり抜いて広い間取りを考案したり
階段しかない住宅にエレベーターを設けたり

日本人は今日
自分たちの生き方にあった住まいのかたちを手にする気運
持ち始めている

同時に
靴を脱いで入る住環境は
身体と環境の新たな対話性を生み出そうとしている

また
巨大規模の都市構想の
ハードとソフトの両面で堅実なコンサルテーションができるのだ

アジアの生活文化を「家」を介してリードできる可能性がここにある

インドもまた
日本と同じように靴を脱いで家に上がる

これは案外知られていないが
アジアに本気で向き合うつもりなら知っておくべき事実かも
しれない


原研哉 「日本のデザイン-美意識がつくる未来」 (岩波新書)より



あすから、二日間
楽しみになってきました