2011-07-24

ジュウタクケンチク AUG.2011

「職人は馬鹿でできず、利口でできず、中途半端でなおできず」
住宅建築8月号は「田中文男の建築学」です

1932年茨城に生まれた田中文男氏は
14歳で宮大工棟梁に
弟子入りしました
その後
神社修復などの仕事を経て
早稲田大学工業高校建築科へと進学
1958年、26歳で「田中工務店」を設立しました
以来
民家調査、桂離宮の使用材料調査技術指導などを行いながら
「民家型構法による国産材を使用したモデルハウス」
をつくり
2010年に逝去するまで
卓越した技術と度量をもった「大工棟梁」として
従来の職人像を払拭するような
洗練された「建築理論」をもって建築に取り組まれ
その生き方は「建築という枠組み」を超え
ひとりの人間としてのメッセージを
いま現在も発信し続けています


「田中文男から学ぶ」


安藤邦廣氏の「災害応急仮設住宅を木造でつくれ 田中文男棟梁の遺言」
から
印象に残った記事を抜粋しておきます

『 東日本大震災で
東北地方の太平洋沿岸地域は壊滅的な被害を受けた。
都市部の神戸と違って
東北は森林地帯であり、木材生産地であり、大工の宝庫である。
その復興に森林資源と木造技術を使うことに異論があろう
はずがない。
木造で震災復興を図る時が来たのである。
それは
地域の木材関連業や中小の大工工務店による復旧すなわち、
地域の力による復興を意味する。
・・・
福島県は
12の事業者に4000戸の発注を決めた。
内訳は
木造が3500戸
(板倉構法200戸、ログハウス500戸、パネル構法220戸、在来構法3080戸)
鉄骨造が500戸
である。
・・・
2年後に予定される解体時に
そのまま再利用されるか、また木材として転用されるか、あるいは
廃棄されるのか、それらすべてがこれから検証される。
その結果によって木造の震災復興の可能性が問われよう。
田中棟梁は
木造建築を広い視野で捉えられる稀有の人であった。
森を見て木造建築をつくる大工であった。
その意味で伝統を重んじ、改革を怠らないのである。
震災復興の木造応急仮設住宅は、その人のやり残した
重要な仕事のひとつである。
その教えを受けたものたちは
今立ち上がって、全力で震災復興へ立ち向かわねばならない。
それは被災地東北のためだけでなく
日本の未来のためであると、田中棟梁はきっぱりというに違いない』


(目次)
■特集 田中文男の建築学■
田中文男を語る
大文バンザイ 磯崎新
現代の宮大工-伝統継承に闘う棟梁・田中文男 鈴木嘉吉
田中文男の民家建築研究 後藤治

民家から学ぶ
土肥本家主屋・土肥分家主屋
復原指導=宮澤智士、田中文男、一色史彦、今瀬文也
設計=緑の風景計画
田中文男さんと土肥家住宅 一色史彦
土肥本家主屋・土肥分家主屋の編年研究 宮澤智士
座談 大工と建築家で考えた合理的な木造
民家型構法 藤本昌也、増山敏夫 訊き手=植久哲男、三澤文子
対談 合理的な木造に戻れるか 渡邊隆×後藤治

社寺から学ぶ
インタビュー 掘立へのこだわり-オリジナルの鳥居を立てる
井上説子 聞き手=福濱嘉宏
型の建築作法と男の返事 福濱嘉宏

田中文男から学ぶ
災害応急仮設住宅を木造でつくれ
田中文男棟梁の遺言 安藤邦廣

住宅4題
神栖・本田邸
基本設計=アルセッド建築研究所、森川建築設計事務所
実施設計=大崎閲男、岩瀬繁
豊田の家 設計=松井郁夫建築設計事務所
掘りごたつを囲む家 改修設計=吉川の鯰/岸本耕
楓の家 設計=三澤文子/Ms建築設計事務所・MSD

■特別記事■
生き続ける愛知県立芸術大学-キャンパスとともに成長する環境
益子義弘・永田昌民
第1回吉阪隆正賞 田中泯
受賞理由「身体気象言語」から桃花村という場の生成へ
吉阪隆正の言葉 田中泯の言葉 樋口裕康
場踊り 田中泯 写真=山田脩二
■連載■
シリーズ 住まいの原点 第4回 篠原一男の住宅
海の階段 文=大松俊紀
言葉と思考 第4回 高台寺(開山堂・霊屋・臥龍廊)文・図 金澤良春
詳細図で住まいを読み解く 第2回 二宮邸 設計・施工=眞木建設 1979年



(参考)
バックナンバーがAmazonでも購入できるようになったようです