2011-08-11

トウキョウ↔センダイ

夜景壁紙.comより
ことしの夏は「ボウキョウとベンキョウ」の「長く暑いとき」になりそうだ
フェイスブックにも書きましたが
今年の5月ころから
母の健康状態が優れません

ここで詳細を書く事は控えますが
こういう状態になって、改めて「母」のありがたさを感じています

最近、吉村昭さんの「冷い夏、熱い夏」を読みました
この本は
昭和59年7月に新潮社から単行本として発刊されていて
平成2年6月25日初版発行として
文庫化されています

ここでは吉村さんの実弟のことが描かれています
ひとことで「うまい表現」ができませんが
「文字が映像を浮かび上がらせる」
といった作品になっています

解説で小笠原賢二氏が本書の主題「冷い...」について書かれています

『「冷い夏、熱い夏」、という体感に属する対照的な形容詞を
含む題名が、何よりもそうした感覚のドラマを暗示しているのだろう
・・・
「弟」への「熱い」思いやりから「冷い一面」は出ていることになる
現に、苦悶する「弟」を正視できずに自分も交通事故で一思いに死にたいと
まで考える程なのだ
・・・
そうなると
・・・
喧嘩ごしの説得も、すべて思いやりに発していることがおのずと
了解されて来るのだ
・・・
さまざまな意味合いの「冷い」と「熱い」はこのようにして
ぎりぎりの次元まで拮抗し合った果てに、ありきたりの形容概念を
越えた象徴的高みにまで昇華されたのだ
したがってこれは通り一編の鎮魂などではない
・・・
かくして「私」の「冷さ」はまた、吉村昭の強靭な作家精神の謂(いい)でも
あった
作家としての怜悧な対象凝視の姿勢が、肉親に対して
どこまで可能なのか
この困難な局面で、傍観者と当事者という本来両立しがたい視点は
どのように折り合い得るのか
「冷い夏、熱い夏」は、こうした命題にあえて挑んだ
吉村文学の新たな展開への一つの実験場だった、と見なすことができる』

いまのぼくにとってまさに「冷い夏、熱い夏」なのです

夜景壁紙.comより
そしてところを仙台へ移して
「再生可能なエネルギー」をどう建築と融合させ、その解決策を見出すか?
という集中合宿へ参加して参ります

これはこれから、町の工務店の
「運命を決める勉強会」
となります

心して取り組んで参りたい、そう思っています

ということで
8月14日から8月25日までここ山口県から離脱しています
帰県後の町の工務店の取り組みにご期待ください

最後に「冷い夏、熱い夏」のエピローグで描写されている
一文を掲載しておきます

『前の車がとまり、私の乗った車もそれにならった
信号のある車道に警察官が二人立ち
両手を広げている
左側の道角から、紅白の綱をひく子供たちが
鉢巻をしめ祭の浴衣(ゆかた)を着た男たちに
ともなわれて出てきた
その動きは緩慢で、信号が青になり、さらに赤に変わっても
子供たちの列は続いている
物のはじけるような音がし
空に昼花火の白い煙が数個湧(わ)いた
山車が、ゆれながら現れた
私は、フロントガラスを通して、太鼓をうつ少年の
撥(ばち)の動きを見つめていた』