金はない。
だが住みたい家のヴィジョンははっきりある。
人生をローンに縛りつけようとするショートケーキ住宅なんて笑いのめせ。
そんなとびきりの依頼者のために建築家・石山修武は知恵をふりしぼる。
のっけから、かなりバイオレンスな文章となってしまいましたが(笑)、本書
「笑う住宅」
で現在、住宅づくりについて「催眠術(本書では「住宅病」と言っている)」
にかかっている一般人が、その眠りから目を覚ますよう促しているものなのです。
ただし、その催眠術が「心地よい」と感じていらっしゃる方は決して
『本書』も『本投稿』も
読まないでください(笑)。
本書「笑う住宅」は、1986年8月筑摩書房から刊行された単行本の「文庫版(1995年5月)」です。
◇◇◇◇◇
今、私の事務所には新しい小さな連絡ノートが何冊か置かれている。手紙や葉書がはさみこまれて分厚いものになっている。たくさんのまだ会ったことのない人たちの住所や電話番号が書きこまれ、その数が日ごとに増えてゆく。少し前に、晶文社から出した小さな本が引きおこしたちょっとした騒動の結果である。本の名前は『「秋葉原」感覚で住宅を考える』。
「住宅にもフリーマーケット感覚を!」
「安くて、丈夫で、美しい、そんな家がなぜ持てないのだろう?」
「日本の住宅の価格、どこかおかしいぞ」
と三つのコピーが表紙に打たれた、家にまつわる常識の幻想をゆっくりと見据えるためのマニュアルである。
◆
うさぎ小屋とまで呼び捨てられている私たちの日本の住宅というのは、その生産も流通も、非常識な基盤の上に建てられ続けている。すべてが砂上の楼閣であるといってよい。家という名の悪夢なのだ。そんな中で、なお敢然と家らしい家、その人間の生と共にある家を建てようとするには、それこそ常識という名の悪夢を振り切り、解体し、自分で調べ、自分で学び、自分で考えながら建ててゆくという方法だってとらなければならないのではないか。たとえ、それが非常識な、世間体の悪いものに見えたとしても。
◆
何十組めかのオバサン連中の押しかけを機に、こういう人たちはキッパリとお断りすることにした。オバサンたちには(『「秋葉原」感覚で.....』という)本の続編を書くことで許してもらおうと決めてしまったのだ。実を言えばそれが、すなわちこの本、『笑う住宅』だ。いくら何でも何百人もの家の病人たちに会い続けていれば、最初の何分かでその人物がどれほどの家への想いを抱いているのかくらいは読めるようになる。選びに選んで、ピカピカに輝くような答えをつくってみよう。バシュラールがつぶやく家の夢をみんなかすめ取って消費してしまうオバサンたちの群に、その家を投げ込んでやろう。
◆
自前の家というのがむずかしい。何故なら誰も何から何まで自分の手で自分の家を自分流に建てようとは考えないからだ。しかし、この考え、おそらく常識と考えられているこの決めつけは疑い出したらキリのないくらいに怪しく狂ったものかもしれない。むしろ銀行からお金なんかも借りずに、今ポケットにあるだけのものから始めて、すべてを自分の手で建てようという考え方の方が健全で合理的なものかもしれないのだ。
◆
商品化住宅メーカーの商品開発力がもうどうにもならなくなってきたな―最近、痛切にそう思う。いわゆるプレハブ住宅の創成期、各メーカーは生産技術の合理化、商品性能の均質化、素材開発といった技術開発を軸にその開発力を競った。それ等の住宅は技術開発主導型の、つまりは端的に考えて男性主導型のハード商品であった。それがいつの頃からか変わった。と言うよりも技術開発が水面下に沈み、イメージ開発というソフトの開発が正面に据えられるようになったからである。たかだか二十年程で住宅の様式がこれ程までに変わろうとは誰も考えてもみなかったことだろう。それ程に消費者の住宅イメージというのは、たよりなく、はかないものであったわけだ。結果的にこの住宅メーカーの宣伝物の総量が日本の住宅様式を変化させ始めている。これは驚くべき勢いである。
◆
最近、私は相談に来る方々に「家なんか建てない方がイイデスヨ」という回数が増えている。ハッキリした自分なりの家への想いが無いのに、自分だけの持家なぞという現代の奇跡を手中にする、そのお手伝いをするなんてことは、なにか世間に申し訳ないような気がしてならないからだ。
◆
私達は変転きわまりのない歴史性と地域性の流動そのもののダイナミックな現実をも生きているのだ。それが、いまだに不思議な情熱として生き残っている家づくりの原動力である。町こそが家を生産する母体なのだ。そんな風に考えた時、固定され秩序立った住居の形式とはかけ離れた、工業化時代の小屋づくりの方法が、町の地域性、歴史性を産み直してゆく力にもなってゆくのである。
◆
幻庵主エノモト氏を一言で言うならば、何もしないことの達人である、天才である、それと紙一重の気狂いなのかも知れない。そんな風に感じさせてしまう人物なのだ。何も出来ないのでは勿論ない、ここが大事なところなのだが何もしないでい続ける、それが誠に絵になり光り輝くようなヒマ風も吹かせるのである。
◆
「こんな家の話、ただの夢物語じゃない」とすぐに暗い目つきにさせてしまうのは何かということなのだ。それをとりあえず砂糖菓子(ショートケーキ)感覚であると指摘しておこう。昔は家は白蟻に喰われたが、今はこの病原菌にむしばまれている。第一に全体的に白っぽい印象を受ける。第二にどの家も殆ど大差はないのだが、絶対と言って良い程に何処かにわずかな違いが貼り付けられていること。第三に全体としてのショートケーキ振りに一片の和風が組み込まれていること。第四に老人の為の和室が抽象的なのとは反対に子供部屋がひどく具体的で、ある意味では高性能に装置化されている。最後にシステムキッチンの不可思議さがある。不可解なモノが最大級の不可解なモノ、土地の値段の上に建てられているのだ。砂上の楼閣を絵に描いたようなものだ。
◆
家を買うのではなくて建てるモノとして考えよう。そんなショートケーキの蟻地獄から脱け出すためにはどうすれば良いか。先ずあなたがお金持ちだったら、あるいは都内でも郊外にでもゆったりとした土地を持っているならば、あなたは何の問題もない。問題なのは土地も金も持たない、けれどもそれ程自分達が貧しいとも考えられない、大多数の人達なのだ。これは難問中の難問だ。世間体も金も、トナリトイッショの見栄だってある「家」の常識人、坪四十万円人間、つまりショートケーキ感覚の真只中のあなたなのだ。
◆
『彼ら(できるだけ若くて、野心のある建築家)は空間をつくるプロですから、そしてそれは、やっぱり、あなたより上手いかも知れませんから、それを任せてしまえば良いのです。部品とお金の体系が押えてあれば良いんですよ。それにこれから先、建設会社や職人さん達との仲に立ってあらゆる調整をしてくれるのも彼等です。形くらいは自由にさせてあげようじゃありませんか』この方法、先ず、あなたが百万円分の住宅部品をリストアップして購入し、そのリストを持って建築家に全体の設計、つまりあなたの部品を組み込んだ家を建てる代行を依頼する。この方法が、今の時代に一番家の値段をコスト・ダウンする方法だろう。
◆
何も無いのが一番さ。という考えは何も家の感じや、部屋の模様に関しての実感からくるばかりのものではない。シルクロードの砂漠やチベットの高原を旅していて、フーッとそんな想いにとらわれることがあった。が、そんなに大ゲサで思わせ振りなものだけでもない。家の関する暗い諦観では決してない。むしろ明るく、例えば家らしい家を持たずに如何に心地良い都市生活を送るかということに思いを巡らせることだろう。鴨長明の『方丈記』をそのままに今の都市に当てはめてみるのが一番だ。家らしい家なんていう悪夢を捨てて、何も持たずに暮らす法を考えること。図書館を使い、美術館を利用する。街のレストランや喫茶店を活用すること。ホテルや公園を上手く使うこと。そうして、出来るだけ家らしい家を持たないこと。それはなかなか至難なことで、家族と共にそんな風に生きることはマサに絶海の孤島のロビンソン・クルーソーの生活を想わせるかも知れない。都市という大森林を冒険することでもあるからだ。
◆
もうずいぶん前のことになるだろうか。秋風にゆれる一面のコスモスの花に浮かぶ川合健二の鉄の家と遭遇した。心を奪われた。爾来、その鉄パイプにこもり、時に建築を遠くに想い続けてきた。今度、津野海太郎によって機会を与えられ、何とかその鉄パイプの出口にまで自由に足を運べるようになった。小さな住宅ではあるけれども、私にとっては千載一遇とでも呼びたいほどのものであり、何とかなるかも知れないと初めて想えた建築である。数多くの例をあげるまでもなく、先にのべたように都市を離脱すればする程に家づくりは自由になる。しかし、いったん都市のまっただ中に棲みつこうと考えた途端にその自由は何処かに逃げてしまう。
◆
すでに都市には自由な空間はない。どんなに思いがけぬような所を探し当てても、「アッ、掘り出し物」と叫んでしまうような辺境はないのだ。辺境なんて気取ってみなくても、要するに変形な土地でも北側斜面でも、低地でも湿地でも自由な土地は一切ない。自由な土地というのは正当であると感じられ考えられる価格で入手出来るような土地で、そんなモノは何処を探したって見当たらない。つまり自由な空地というのは無い。だからこそ私達には都市の狭間に生き抜く技術(テクノロジー)が求められている。現代の都市に棲み暮らそうとすればその生活には技術(テクノロジー)が必要で、当然さらに住居を構えようとするならば幾重にも武装された家づくりの技術(テクノロジー)が住み手の側からも必須なものになっているのである。その技術(テクノロジー)は一見、八方破れで途方もないものに見えることがあるかも知れない。こんなこととんでもないことだと感じてしまうあなたであれば、あなたはすでに都市が仕掛けた消費の罠にはまっている。
◆
建設業界の実体は相も変わらずその前近代的な下請制にある。大きな建設会社においても、実際の建設現場の働きは、ほとんどこのような弱小工務店の傘下にある労働力に支えられている。それ故にその内部矛盾のほとんどを価格に吸収せざるを得ない。これが耐久消費財としての住宅の価格の高騰と、その下方硬直性をもたらす原因となる。住宅の工場生産化が進められていると考えられる商品化住宅メーカーの住宅の価格は、何故いっこうに下がらないのだろうか。在来の生産方法による、つまり町の工務店や大工さん達が建てる住宅の価格と拮抗したままなのだろうか。(そのわけは)第一に、工業化住宅といってもそれは名ばかりのもので、相変わらず住宅建設の現場は、大工さん職人さん達の技術で支えられていること。第二に、工業化住宅メーカーといっても、自社で生産加工しているものは極めて少ないこと。第三に、商品生産の合理化がある水準にまで達したときの価格の硬直性は次の二つの原因によることが多い。一つは生産の合理化、技術開発によるコストダウンの幅を消費者に還元することなしに、それを販売促進等の企業の自己拡大へと向けて、市場での占有率を拡大しようとする場合。次に、利潤の増加分を賃金上昇に振り向ける場合である。つまり、工業化住宅メーカーの市場占有への競争は価格引下げによってではなく、広告宣伝といったイメージ戦略的な操作によって行われていることを意味する。
◆
多くの場合、商品化住宅のイメージは膨大な都市の中間層の夢を均質化しながら一つの枠の中に固定してしまう。そして、さまざまな付属品によって大仰な微差が演出されている。この付属品の多くは、何ら住宅の、住生活の本質とはかかわりのないものだ。意味の無い装飾が意味の無い微差を叫び立てている。この付属品の無意味な性格が、最近では住宅全体の様式まで枠づけてしまっているのが現状なのだ。住宅を工業製品の集積であると考えることは、住宅がそれらの流通のブラックボックスとしても社会と関係しながら浮遊していることを見せてくれる。流通の結果としての住宅は錯綜とした迷路状の巨大な森でもある。そのことは流通それ自体求めている市場の開放性、競争性、つまり自由競争の原理がより良い商品を産み出すことができることを想いださせよう。そして、強くて大きな生産と流通の壁に閉じられている住宅を別の方法で解き放ってゆく、つまりブラックボックスとしての住宅を切開してゆくことの重要性にたどりつくのである。
◆
現代の建築家(設計家)、そして現代の大工・職人はどんな状況に置かれ、どんな展望を持っているのだろうか。冷徹に見据えるならば、建築家・職人共にその技術水準は低下している。むしろ風化しているとも言える位で、彼等はその相互の風化現象の中で自閉してしまっている。それは彼等が伝統の中に保有してきた高度な技術を新しい型のものへと育成してゆくことができずに、ただいたずらにその本来的な質を風化させていることと同じなのだ。このことは将来の日本の住宅づくりにとって極めて由々しい問題であるとしなければならない。
◆
技術的成果が一企業の利益の内に自閉していたのでは意味がないのである。少なくとも、私にとって何の価値もないのだ。この方式(D-D方式)は建築家が小住宅を建てる時にその効力を発揮するのである。そして、その本来的な意味もそこにあるのだった。
◆
目的に応じて集合したり、必要がなくなれば散っていく集まり、それが理想だ。私達(ダムダン)の集まりは生活共同体みたいなものだ。それが仕事喜びと結びつくのが理想だろうが、結びつかねば、別のことをすれば良いのだと、みんないつも思っている。だから、金にならなくたって、面白い!と思い込んだら、動く。今でも騒然と動くのだ。どんな形式でも構わない、何しろ集まりを作ること、この楽しみ、この喜びに勝るものは他にない。その為に必要であれば建築もしよう、何もしようと考えているだけなのである。
◇◇◇◇◇
(目次)
「笑う住宅」
で現在、住宅づくりについて「催眠術(本書では「住宅病」と言っている)」
にかかっている一般人が、その眠りから目を覚ますよう促しているものなのです。
ただし、その催眠術が「心地よい」と感じていらっしゃる方は決して
『本書』も『本投稿』も
読まないでください(笑)。
本書「笑う住宅」は、1986年8月筑摩書房から刊行された単行本の「文庫版(1995年5月)」です。
◇◇◇◇◇
今、私の事務所には新しい小さな連絡ノートが何冊か置かれている。手紙や葉書がはさみこまれて分厚いものになっている。たくさんのまだ会ったことのない人たちの住所や電話番号が書きこまれ、その数が日ごとに増えてゆく。少し前に、晶文社から出した小さな本が引きおこしたちょっとした騒動の結果である。本の名前は『「秋葉原」感覚で住宅を考える』。
「住宅にもフリーマーケット感覚を!」
「安くて、丈夫で、美しい、そんな家がなぜ持てないのだろう?」
「日本の住宅の価格、どこかおかしいぞ」
と三つのコピーが表紙に打たれた、家にまつわる常識の幻想をゆっくりと見据えるためのマニュアルである。
◆
うさぎ小屋とまで呼び捨てられている私たちの日本の住宅というのは、その生産も流通も、非常識な基盤の上に建てられ続けている。すべてが砂上の楼閣であるといってよい。家という名の悪夢なのだ。そんな中で、なお敢然と家らしい家、その人間の生と共にある家を建てようとするには、それこそ常識という名の悪夢を振り切り、解体し、自分で調べ、自分で学び、自分で考えながら建ててゆくという方法だってとらなければならないのではないか。たとえ、それが非常識な、世間体の悪いものに見えたとしても。
◆
何十組めかのオバサン連中の押しかけを機に、こういう人たちはキッパリとお断りすることにした。オバサンたちには(『「秋葉原」感覚で.....』という)本の続編を書くことで許してもらおうと決めてしまったのだ。実を言えばそれが、すなわちこの本、『笑う住宅』だ。いくら何でも何百人もの家の病人たちに会い続けていれば、最初の何分かでその人物がどれほどの家への想いを抱いているのかくらいは読めるようになる。選びに選んで、ピカピカに輝くような答えをつくってみよう。バシュラールがつぶやく家の夢をみんなかすめ取って消費してしまうオバサンたちの群に、その家を投げ込んでやろう。
◆
自前の家というのがむずかしい。何故なら誰も何から何まで自分の手で自分の家を自分流に建てようとは考えないからだ。しかし、この考え、おそらく常識と考えられているこの決めつけは疑い出したらキリのないくらいに怪しく狂ったものかもしれない。むしろ銀行からお金なんかも借りずに、今ポケットにあるだけのものから始めて、すべてを自分の手で建てようという考え方の方が健全で合理的なものかもしれないのだ。
◆
商品化住宅メーカーの商品開発力がもうどうにもならなくなってきたな―最近、痛切にそう思う。いわゆるプレハブ住宅の創成期、各メーカーは生産技術の合理化、商品性能の均質化、素材開発といった技術開発を軸にその開発力を競った。それ等の住宅は技術開発主導型の、つまりは端的に考えて男性主導型のハード商品であった。それがいつの頃からか変わった。と言うよりも技術開発が水面下に沈み、イメージ開発というソフトの開発が正面に据えられるようになったからである。たかだか二十年程で住宅の様式がこれ程までに変わろうとは誰も考えてもみなかったことだろう。それ程に消費者の住宅イメージというのは、たよりなく、はかないものであったわけだ。結果的にこの住宅メーカーの宣伝物の総量が日本の住宅様式を変化させ始めている。これは驚くべき勢いである。
◆
最近、私は相談に来る方々に「家なんか建てない方がイイデスヨ」という回数が増えている。ハッキリした自分なりの家への想いが無いのに、自分だけの持家なぞという現代の奇跡を手中にする、そのお手伝いをするなんてことは、なにか世間に申し訳ないような気がしてならないからだ。
◆
私達は変転きわまりのない歴史性と地域性の流動そのもののダイナミックな現実をも生きているのだ。それが、いまだに不思議な情熱として生き残っている家づくりの原動力である。町こそが家を生産する母体なのだ。そんな風に考えた時、固定され秩序立った住居の形式とはかけ離れた、工業化時代の小屋づくりの方法が、町の地域性、歴史性を産み直してゆく力にもなってゆくのである。
◆
幻庵主エノモト氏を一言で言うならば、何もしないことの達人である、天才である、それと紙一重の気狂いなのかも知れない。そんな風に感じさせてしまう人物なのだ。何も出来ないのでは勿論ない、ここが大事なところなのだが何もしないでい続ける、それが誠に絵になり光り輝くようなヒマ風も吹かせるのである。
◆
「こんな家の話、ただの夢物語じゃない」とすぐに暗い目つきにさせてしまうのは何かということなのだ。それをとりあえず砂糖菓子(ショートケーキ)感覚であると指摘しておこう。昔は家は白蟻に喰われたが、今はこの病原菌にむしばまれている。第一に全体的に白っぽい印象を受ける。第二にどの家も殆ど大差はないのだが、絶対と言って良い程に何処かにわずかな違いが貼り付けられていること。第三に全体としてのショートケーキ振りに一片の和風が組み込まれていること。第四に老人の為の和室が抽象的なのとは反対に子供部屋がひどく具体的で、ある意味では高性能に装置化されている。最後にシステムキッチンの不可思議さがある。不可解なモノが最大級の不可解なモノ、土地の値段の上に建てられているのだ。砂上の楼閣を絵に描いたようなものだ。
◆
家を買うのではなくて建てるモノとして考えよう。そんなショートケーキの蟻地獄から脱け出すためにはどうすれば良いか。先ずあなたがお金持ちだったら、あるいは都内でも郊外にでもゆったりとした土地を持っているならば、あなたは何の問題もない。問題なのは土地も金も持たない、けれどもそれ程自分達が貧しいとも考えられない、大多数の人達なのだ。これは難問中の難問だ。世間体も金も、トナリトイッショの見栄だってある「家」の常識人、坪四十万円人間、つまりショートケーキ感覚の真只中のあなたなのだ。
◆
『彼ら(できるだけ若くて、野心のある建築家)は空間をつくるプロですから、そしてそれは、やっぱり、あなたより上手いかも知れませんから、それを任せてしまえば良いのです。部品とお金の体系が押えてあれば良いんですよ。それにこれから先、建設会社や職人さん達との仲に立ってあらゆる調整をしてくれるのも彼等です。形くらいは自由にさせてあげようじゃありませんか』この方法、先ず、あなたが百万円分の住宅部品をリストアップして購入し、そのリストを持って建築家に全体の設計、つまりあなたの部品を組み込んだ家を建てる代行を依頼する。この方法が、今の時代に一番家の値段をコスト・ダウンする方法だろう。
◆
何も無いのが一番さ。という考えは何も家の感じや、部屋の模様に関しての実感からくるばかりのものではない。シルクロードの砂漠やチベットの高原を旅していて、フーッとそんな想いにとらわれることがあった。が、そんなに大ゲサで思わせ振りなものだけでもない。家の関する暗い諦観では決してない。むしろ明るく、例えば家らしい家を持たずに如何に心地良い都市生活を送るかということに思いを巡らせることだろう。鴨長明の『方丈記』をそのままに今の都市に当てはめてみるのが一番だ。家らしい家なんていう悪夢を捨てて、何も持たずに暮らす法を考えること。図書館を使い、美術館を利用する。街のレストランや喫茶店を活用すること。ホテルや公園を上手く使うこと。そうして、出来るだけ家らしい家を持たないこと。それはなかなか至難なことで、家族と共にそんな風に生きることはマサに絶海の孤島のロビンソン・クルーソーの生活を想わせるかも知れない。都市という大森林を冒険することでもあるからだ。
◆
もうずいぶん前のことになるだろうか。秋風にゆれる一面のコスモスの花に浮かぶ川合健二の鉄の家と遭遇した。心を奪われた。爾来、その鉄パイプにこもり、時に建築を遠くに想い続けてきた。今度、津野海太郎によって機会を与えられ、何とかその鉄パイプの出口にまで自由に足を運べるようになった。小さな住宅ではあるけれども、私にとっては千載一遇とでも呼びたいほどのものであり、何とかなるかも知れないと初めて想えた建築である。数多くの例をあげるまでもなく、先にのべたように都市を離脱すればする程に家づくりは自由になる。しかし、いったん都市のまっただ中に棲みつこうと考えた途端にその自由は何処かに逃げてしまう。
◆
すでに都市には自由な空間はない。どんなに思いがけぬような所を探し当てても、「アッ、掘り出し物」と叫んでしまうような辺境はないのだ。辺境なんて気取ってみなくても、要するに変形な土地でも北側斜面でも、低地でも湿地でも自由な土地は一切ない。自由な土地というのは正当であると感じられ考えられる価格で入手出来るような土地で、そんなモノは何処を探したって見当たらない。つまり自由な空地というのは無い。だからこそ私達には都市の狭間に生き抜く技術(テクノロジー)が求められている。現代の都市に棲み暮らそうとすればその生活には技術(テクノロジー)が必要で、当然さらに住居を構えようとするならば幾重にも武装された家づくりの技術(テクノロジー)が住み手の側からも必須なものになっているのである。その技術(テクノロジー)は一見、八方破れで途方もないものに見えることがあるかも知れない。こんなこととんでもないことだと感じてしまうあなたであれば、あなたはすでに都市が仕掛けた消費の罠にはまっている。
◆
建設業界の実体は相も変わらずその前近代的な下請制にある。大きな建設会社においても、実際の建設現場の働きは、ほとんどこのような弱小工務店の傘下にある労働力に支えられている。それ故にその内部矛盾のほとんどを価格に吸収せざるを得ない。これが耐久消費財としての住宅の価格の高騰と、その下方硬直性をもたらす原因となる。住宅の工場生産化が進められていると考えられる商品化住宅メーカーの住宅の価格は、何故いっこうに下がらないのだろうか。在来の生産方法による、つまり町の工務店や大工さん達が建てる住宅の価格と拮抗したままなのだろうか。(そのわけは)第一に、工業化住宅といってもそれは名ばかりのもので、相変わらず住宅建設の現場は、大工さん職人さん達の技術で支えられていること。第二に、工業化住宅メーカーといっても、自社で生産加工しているものは極めて少ないこと。第三に、商品生産の合理化がある水準にまで達したときの価格の硬直性は次の二つの原因によることが多い。一つは生産の合理化、技術開発によるコストダウンの幅を消費者に還元することなしに、それを販売促進等の企業の自己拡大へと向けて、市場での占有率を拡大しようとする場合。次に、利潤の増加分を賃金上昇に振り向ける場合である。つまり、工業化住宅メーカーの市場占有への競争は価格引下げによってではなく、広告宣伝といったイメージ戦略的な操作によって行われていることを意味する。
◆
多くの場合、商品化住宅のイメージは膨大な都市の中間層の夢を均質化しながら一つの枠の中に固定してしまう。そして、さまざまな付属品によって大仰な微差が演出されている。この付属品の多くは、何ら住宅の、住生活の本質とはかかわりのないものだ。意味の無い装飾が意味の無い微差を叫び立てている。この付属品の無意味な性格が、最近では住宅全体の様式まで枠づけてしまっているのが現状なのだ。住宅を工業製品の集積であると考えることは、住宅がそれらの流通のブラックボックスとしても社会と関係しながら浮遊していることを見せてくれる。流通の結果としての住宅は錯綜とした迷路状の巨大な森でもある。そのことは流通それ自体求めている市場の開放性、競争性、つまり自由競争の原理がより良い商品を産み出すことができることを想いださせよう。そして、強くて大きな生産と流通の壁に閉じられている住宅を別の方法で解き放ってゆく、つまりブラックボックスとしての住宅を切開してゆくことの重要性にたどりつくのである。
◆
現代の建築家(設計家)、そして現代の大工・職人はどんな状況に置かれ、どんな展望を持っているのだろうか。冷徹に見据えるならば、建築家・職人共にその技術水準は低下している。むしろ風化しているとも言える位で、彼等はその相互の風化現象の中で自閉してしまっている。それは彼等が伝統の中に保有してきた高度な技術を新しい型のものへと育成してゆくことができずに、ただいたずらにその本来的な質を風化させていることと同じなのだ。このことは将来の日本の住宅づくりにとって極めて由々しい問題であるとしなければならない。
◆
技術的成果が一企業の利益の内に自閉していたのでは意味がないのである。少なくとも、私にとって何の価値もないのだ。この方式(D-D方式)は建築家が小住宅を建てる時にその効力を発揮するのである。そして、その本来的な意味もそこにあるのだった。
◆
目的に応じて集合したり、必要がなくなれば散っていく集まり、それが理想だ。私達(ダムダン)の集まりは生活共同体みたいなものだ。それが仕事喜びと結びつくのが理想だろうが、結びつかねば、別のことをすれば良いのだと、みんないつも思っている。だから、金にならなくたって、面白い!と思い込んだら、動く。今でも騒然と動くのだ。どんな形式でも構わない、何しろ集まりを作ること、この楽しみ、この喜びに勝るものは他にない。その為に必要であれば建築もしよう、何もしようと考えているだけなのである。
◇◇◇◇◇
(目次)
Ⅰ 熱い住宅へ
~ポストモダンの小屋づくり~
狂気だけがよい住宅をつくる
とびきりの依頼者のために
ネオ・バラック
金属バットと「夢の家」
ポストモダンの小屋づくり
Ⅱ さらばショートケーキ住宅
Ⅱ さらばショートケーキ住宅
~住宅病(ホームシック)を治すには~
1 狂人たちの代表者として
2 エノモトさんと私
3 幻庵録
4 メリーランドのかたつむり
5 ラウンド・アンナプルナ
6 ショートケーキ感覚は病である
7 私は私に仕事を依頼するだろうか
Ⅲ ホームキラー待ちながら
~街に住みこむために~
望風楼
ミュージカルに家を建てる
街に住みこむために―waiting for HOME KILLER
八つ墓村のギャラリー/山の鞘堂、街のつっぱり住家/怪人ホームキラー、東京へ/街へ侵入するために
Ⅳ 私の住宅原論
私の住宅原論
住宅の価格を考える/住宅の価格は硬直している/住宅が安くならないのはなぜか/流通にはブラックボックスがある/海上コンテナの可能性/われらに必要な技術とはなにか/ロビン・フッドの戦略
D-D方式ご紹介
ともに食べることの楽しさ
ダムダンのこと、友人・知人のこと
あとがき
「笑う住宅1986」部材一覧表
解説 迷宮からの脱出なるか?
榎本基純
(参考)