街並みに「佇む」すまいの居住まいは
そこに棲む家族の「意思(暮らし方)」を表わす
「顔」
「顔」
となって存在し続け「場所」というものになります
建築家・隈研吾さんが
「日本の住文化という場所」について描かれた本です
人びとは「恥の概念(「すまい方」というかたち)」を完全に捨てて
とても「軽い気分」で自分なりの「場所」をつくろうとしており
その顔もさまざまです
その顔となる「場所」のつくりかたを「10種類」に分類して
以下のように記しています
「10宅論」は「住宅論」のパロディーであり、
「日本の住文化という場所」について描かれた本です
人びとは「恥の概念(「すまい方」というかたち)」を完全に捨てて
とても「軽い気分」で自分なりの「場所」をつくろうとしており
その顔もさまざまです
その顔となる「場所」のつくりかたを「10種類」に分類して
以下のように記しています
「10宅論」は「住宅論」のパロディーであり、
かつローマの建築家ウィトルウィウスによる「建築十書」のもじりである。
住宅に対する過度な思い入れ、住宅の神聖視、思わせぶり、建築家の自己宣伝―
そういったものをすべて排除して、
今日の日本人が実際にどういう住宅にどんな気持で住んでいるか
をできる限り正確に記述しようと思ったら、こんな体裁になった。
出来上がりは、
正確という意図に反してはなはだ誇張と偏見に満ちたものになった。
ただし
今日において正確に書くということと、誇張することとは同義である。
現実へのこだわりが、
このような誇張を生んだと思って免除してもらいたい。
(「はじめに」より)
以下
「10の場所」を
隈研吾さんの「言葉」でご紹介させていただこうとおもいます
◇◇◇◇◇
1.即物主義な。
日本家族のあり方の一つの典型として「ホテル型家族」というタイプが存在する(小比木啓吾)。家の構成要員各人は、寝るためだけに家に帰ってくるのであり、各人の個室はホテルの客室とまったくゝ機能のものだ(前出、同じ)。「ホテル型家族」で育った子供達が、独立してもなお、ホテルの客室のような住居を指向する。そして彼らは事実独立する。両親とは別に住むわけである。
(「Ⅰワンルームマンション派」より)
2.ロマンチシズムな。
ペンション派の住宅は、多くの場合、町の大工によって建設される。プロの設計者が、施主と大工の間に入ることはまずない。彼女ら(ペンション派)は、プロの設計者(建築家)の美的規準が、自分たちの美的規準と対立することを察知している。彼女達と町の大工という、水と油ほどに異質な二者が困難と誤解に満ちた共同作業を開始するのである。彼女らの大切に保存しているオウチの写真が、彼女らのイメージを伝達する資料として、大工のオヤジに手渡される。
(「Ⅱ清里ペンション派」より)
3.ナルシシズムな。
彼らはカフェバーの空間を楽しむのではなく、カフェバーの空間に浸っている自分自身の姿を見て楽しむのである。そのような空間の楽しみ方をする場合、その場所に自分自身が着ていく服装というのがまず問題になる。さらに女性を同伴するとしたら、その女性もそれ相応の容姿をしていて、それ相応のファッションを身にまとった女性でなければならない。すなわち、人はカフェバーに、一種の舞台装置のような性格を持った空間を期待している。
(「Ⅲカフェバー派」より)
4.合理主義な。
一戸建てにも住むし、マンションにも住む。東村山にも住めば代々木上原にも住む。住宅公団にも住めば、中古の建売りにもにも住む。ハビタ派は、臭いものにも蓋をしない。生活臭にも蓋をせず、それをゼロから考えようとする。
(「Ⅳハビタ派」より)
5.素人の美術好き(ディレッタンティズム)な。
建築家との知的交流に意味を求めている人達である。男性(夫)はそれでも社会的な付き合いを通じて、何とかそのチャンス(知的にソフィスティケートされた情報を生身の人間から得る機会)を得る可能性があるが、仕事を持たない女性(妻)はよほど自分から心がけない限り、そのようなチャンスにはめぐり合えない。その意味でアーキテクト派というグループの原動力となっているのは、妻の知的欲求不満と言ってもいい。
(「Ⅴアーキテクト派」より)
6.折衷主義な。
「ただし世の中には理屈でわりきれないものがある」―これが展示場派の人々の基本的な態度である。彼らはハビタ派と多くの部分を共有している。ハビタ派の合理主義を完全に理解している。しかし一方、合理主義ではわりきれないものの存在をも、彼らは認める。例えば「管理職にもなってアパート住まいはみっともない」という考えをもっともだと思い、「土地を持っているだけで得られる理屈のつけようのない安心感」をも否定しない。この両義性、折衷主義、現実主義が彼らの住宅のすべての部分に反映することになる。
(「Ⅵ住宅展示場派」より)
7.ロマンチックリアリズムな。
建売住宅派は住宅展示場派の親戚にあたる。両者は共に「持ち家信仰」に支えられ、さらにその「持ち家願望」を充足させるために、一種のレディーメイドの商品を選択したからである。ただし親戚というものは、多くの場合において、必ずしも似ているということを意味しない。建売住宅は「実物で見る」ということを前提にした商品(住宅)作りで、従来、住宅の価値基準とされてきた「住みやすさ」とか、「暮らしやすさ」ではもちろんなく、ましてや、住宅として良いか悪いかといった倫理的価値基準でもないということである。売れてはじめて住宅であって、売れる前は住宅でも何でもない代物だからである。(それは)販売のメディアが住宅という名の商品を規定する(ということである)。
(「Ⅶ建売住宅派」より)
8.社用主義(洋酒派)な。
クラブで求められるのが家庭の暖かさであり、家庭で求められるのがクラブの「有難さ」なのは、なぜだろう。家庭がクラブにコピーされ、それを再び家庭がコピーするという複雑なプロセスが、どうしてとられるのだろうか。理由は一つである。クラブ派が家庭というものそれ自体が持っている「有難み」をまったく理解できなくなってしまっているからである。あまりに日常的で、身近なものゆえに、家庭がどれだけ「有難い」かがわからなくなっているのである。その「有難み」を理解するために、家庭を一度クラブという鏡に写して見なければならなくなってしまったのである。ディズニーランドが鏡に写された「街」だったとすれば、クラブ派は鏡に写され、そして投げ返された「家」である。
(「Ⅷクラブ派」より)
9.社用主義(日本酒派)な。
自分たちの住宅がクラブ派の住宅よりはるかに「高級」であると考えていることである。料亭派によればそれは日本の伝統に即し、簡潔であり、清々として控え目であり、自然ととけあっている。しかし料亭派とは、それほど「高級」なスタイルだろうか。料亭派もクラブ派も、ともにあのディズニーランドの子孫であることに、少しも変わりはないのである。ただし唯一料亭派に分があるとしたら、それはその巧妙な「二枚舌構造」によってである。
(「Ⅸ料亭派」より)
10.非記号化な。
歴史的家屋派とは何世代にもわたって、同じ住宅に住む人のことを言う。そんな人が実際に日本に存在するかどうかはわからない。しかし、そういう少数派をここでわざわざとりあげたことの裏には、それなりの意味がある。すなわち、歴史的家屋派に対して、ある種の憧れを持つのだろうかということ。新しく建てるということは非常に後ろめたく、恥ずかしいことなのである。もちろん自分の家を新しく建てることである。それは自分の趣味を表現するということが、恥ずかしいこととされていたからであり、家を建てる時に、自分の趣味を表現しないで済ませるということは、事実上不可能だからである。それは自分がどんな「場所」にいるかが、よく見えなかったからである。(ここでいう「場所」とは)モノや空間といった記号のことで、地理的な「場所」なら一目瞭然だが、この「場所」はそう簡単には見えないかもしれない。この「場所」が見きわめられない場合、新しく住宅を建てるというのは恥ずかしい行為となる。そして一旦、自分の「場所」さえ定まれば、そこで極めて大胆に、そして繊細に象徴作用を駆使するのである。
(「Ⅹ歴史的家屋派」より)
◇◇◇◇◇
日本の家は
一様にだらけていて、しまりがないのである。
ただし階級に対する欲望だけは
あからさまに存在している。
そしてこの国においては階級という現実が
未熟なゆえに、それに対する欲望は
未熟な幼児に対する性愛のごとく、グロテスクなもの
とならざるをえない。多くの日本人は自分の中で肥大した、
この妄想に限りなく近い欲望の性質と
その巨大さに感じはじめている。
それは、階級的なフィクションでもあるのだ。
(目次)
以下
「10の場所」を
隈研吾さんの「言葉」でご紹介させていただこうとおもいます
◇◇◇◇◇
1.即物主義な。
日本家族のあり方の一つの典型として「ホテル型家族」というタイプが存在する(小比木啓吾)。家の構成要員各人は、寝るためだけに家に帰ってくるのであり、各人の個室はホテルの客室とまったくゝ機能のものだ(前出、同じ)。「ホテル型家族」で育った子供達が、独立してもなお、ホテルの客室のような住居を指向する。そして彼らは事実独立する。両親とは別に住むわけである。
(「Ⅰワンルームマンション派」より)
2.ロマンチシズムな。
ペンション派の住宅は、多くの場合、町の大工によって建設される。プロの設計者が、施主と大工の間に入ることはまずない。彼女ら(ペンション派)は、プロの設計者(建築家)の美的規準が、自分たちの美的規準と対立することを察知している。彼女達と町の大工という、水と油ほどに異質な二者が困難と誤解に満ちた共同作業を開始するのである。彼女らの大切に保存しているオウチの写真が、彼女らのイメージを伝達する資料として、大工のオヤジに手渡される。
(「Ⅱ清里ペンション派」より)
3.ナルシシズムな。
彼らはカフェバーの空間を楽しむのではなく、カフェバーの空間に浸っている自分自身の姿を見て楽しむのである。そのような空間の楽しみ方をする場合、その場所に自分自身が着ていく服装というのがまず問題になる。さらに女性を同伴するとしたら、その女性もそれ相応の容姿をしていて、それ相応のファッションを身にまとった女性でなければならない。すなわち、人はカフェバーに、一種の舞台装置のような性格を持った空間を期待している。
(「Ⅲカフェバー派」より)
4.合理主義な。
一戸建てにも住むし、マンションにも住む。東村山にも住めば代々木上原にも住む。住宅公団にも住めば、中古の建売りにもにも住む。ハビタ派は、臭いものにも蓋をしない。生活臭にも蓋をせず、それをゼロから考えようとする。
(「Ⅳハビタ派」より)
5.素人の美術好き(ディレッタンティズム)な。
建築家との知的交流に意味を求めている人達である。男性(夫)はそれでも社会的な付き合いを通じて、何とかそのチャンス(知的にソフィスティケートされた情報を生身の人間から得る機会)を得る可能性があるが、仕事を持たない女性(妻)はよほど自分から心がけない限り、そのようなチャンスにはめぐり合えない。その意味でアーキテクト派というグループの原動力となっているのは、妻の知的欲求不満と言ってもいい。
(「Ⅴアーキテクト派」より)
6.折衷主義な。
「ただし世の中には理屈でわりきれないものがある」―これが展示場派の人々の基本的な態度である。彼らはハビタ派と多くの部分を共有している。ハビタ派の合理主義を完全に理解している。しかし一方、合理主義ではわりきれないものの存在をも、彼らは認める。例えば「管理職にもなってアパート住まいはみっともない」という考えをもっともだと思い、「土地を持っているだけで得られる理屈のつけようのない安心感」をも否定しない。この両義性、折衷主義、現実主義が彼らの住宅のすべての部分に反映することになる。
(「Ⅵ住宅展示場派」より)
7.ロマンチックリアリズムな。
建売住宅派は住宅展示場派の親戚にあたる。両者は共に「持ち家信仰」に支えられ、さらにその「持ち家願望」を充足させるために、一種のレディーメイドの商品を選択したからである。ただし親戚というものは、多くの場合において、必ずしも似ているということを意味しない。建売住宅は「実物で見る」ということを前提にした商品(住宅)作りで、従来、住宅の価値基準とされてきた「住みやすさ」とか、「暮らしやすさ」ではもちろんなく、ましてや、住宅として良いか悪いかといった倫理的価値基準でもないということである。売れてはじめて住宅であって、売れる前は住宅でも何でもない代物だからである。(それは)販売のメディアが住宅という名の商品を規定する(ということである)。
(「Ⅶ建売住宅派」より)
8.社用主義(洋酒派)な。
クラブで求められるのが家庭の暖かさであり、家庭で求められるのがクラブの「有難さ」なのは、なぜだろう。家庭がクラブにコピーされ、それを再び家庭がコピーするという複雑なプロセスが、どうしてとられるのだろうか。理由は一つである。クラブ派が家庭というものそれ自体が持っている「有難み」をまったく理解できなくなってしまっているからである。あまりに日常的で、身近なものゆえに、家庭がどれだけ「有難い」かがわからなくなっているのである。その「有難み」を理解するために、家庭を一度クラブという鏡に写して見なければならなくなってしまったのである。ディズニーランドが鏡に写された「街」だったとすれば、クラブ派は鏡に写され、そして投げ返された「家」である。
(「Ⅷクラブ派」より)
9.社用主義(日本酒派)な。
自分たちの住宅がクラブ派の住宅よりはるかに「高級」であると考えていることである。料亭派によればそれは日本の伝統に即し、簡潔であり、清々として控え目であり、自然ととけあっている。しかし料亭派とは、それほど「高級」なスタイルだろうか。料亭派もクラブ派も、ともにあのディズニーランドの子孫であることに、少しも変わりはないのである。ただし唯一料亭派に分があるとしたら、それはその巧妙な「二枚舌構造」によってである。
(「Ⅸ料亭派」より)
10.非記号化な。
歴史的家屋派とは何世代にもわたって、同じ住宅に住む人のことを言う。そんな人が実際に日本に存在するかどうかはわからない。しかし、そういう少数派をここでわざわざとりあげたことの裏には、それなりの意味がある。すなわち、歴史的家屋派に対して、ある種の憧れを持つのだろうかということ。新しく建てるということは非常に後ろめたく、恥ずかしいことなのである。もちろん自分の家を新しく建てることである。それは自分の趣味を表現するということが、恥ずかしいこととされていたからであり、家を建てる時に、自分の趣味を表現しないで済ませるということは、事実上不可能だからである。それは自分がどんな「場所」にいるかが、よく見えなかったからである。(ここでいう「場所」とは)モノや空間といった記号のことで、地理的な「場所」なら一目瞭然だが、この「場所」はそう簡単には見えないかもしれない。この「場所」が見きわめられない場合、新しく住宅を建てるというのは恥ずかしい行為となる。そして一旦、自分の「場所」さえ定まれば、そこで極めて大胆に、そして繊細に象徴作用を駆使するのである。
(「Ⅹ歴史的家屋派」より)
◇◇◇◇◇
日本の家は
一様にだらけていて、しまりがないのである。
ただし階級に対する欲望だけは
あからさまに存在している。
そしてこの国においては階級という現実が
未熟なゆえに、それに対する欲望は
未熟な幼児に対する性愛のごとく、グロテスクなもの
とならざるをえない。多くの日本人は自分の中で肥大した、
この妄想に限りなく近い欲望の性質と
その巨大さに感じはじめている。
それは、階級的なフィクションでもあるのだ。
(目次)
はじめに
分類ゲームの前提
Ⅰ ワンルームマンション派
70年代の空間的モデル
ホテルが空間的モデル
旅と性のメタファー
ベッド・電話・テレビ
ラケットとスキー板
脱臭器としてのハイテック・ポストモダン
西武というよりは丸井
Ⅱ 清里ペンション派
西洋のオウチ
断片的コピー
家族の団結の象徴
自然への逃避
二重拘束の空間化
Ⅲ カフェバー派
共同体を排除した酒場
自分を眺めに来る酒場
カフェバーとは舞台装置
家庭を排除した住宅
仕草による自己検証
外観などどうでもいい
椅子への偏愛
北欧よりイタリア
過渡期の様式
Ⅳ ハビタ派
団塊の世代の住宅
ゼロから始める
モダニズムの普及版
臭いものにも蓋をしないプランニング
白いビニールクロスの内装
舶来品信仰と合理主義の統合
Ⅴ アーキテクト派
知の窓口としての建築家
利休的反転
現代のとまや
空間は抽象的であり、かつ主張する
Ⅵ 住宅展示場派
「住宅の人生化」を受け入れる折衷主義者
主流はコロニアルスタイル
西洋住文化の宝塚的移入
公的空間と私的空間の分離
Ⅶ 建売住宅派
持ち家信仰の物象化
「実物で見る」ことを前提にした商品
「品数で勝負する」販売戦略
「品数の多い」プランとインテリア
住宅とメディア
文学的メディアが規定する場所
Ⅷ クラブ派
敷居の高い空間
億ション風の外観
奥まらせる手法
クラブは家庭の理想化されたコピー
ディズニーランドの家庭版
Ⅸ 料亭派
クラブ派とは双子の兄弟
料亭和風スタイル
和風の抽象化
日本の近代化の二枚舌的構造
Ⅹ 歴史的家屋派
なぜ人は歴史的家屋派に憧れるのか
家を建てることは、恥ずかしい
近代とは「場所」が見えない時代
あとがき
文庫版あとがき
解説 山口昌男
(参考)