2012-10-12

ポストモダン 建築巡礼。1975-95

70年代後半からバブル期を象徴する50の建築を、サブカル的ウンチクと“妄想イラスト”で味わい尽くす本。
この本にでてくる「建築(当時は、「現代建築」とかいっていた......。)」は、学生が読み漁りそうな「専門雑誌」には、ほとんどといって良い程掲載されていました。また、本書タイトルの「ポストモダン」というコトバもよく耳にして、テレビ番組で特集が組まれたり、ビデオ(VHS)などにもなって、企画・発売されていました。(下記)目次を見るとわかりますが、「毎年」といっていいほどにこれらの建築は続々と世に「完成」して、様々な「メディア」などに紹介されて、建築界はまさに「百花繚乱」の様相を呈していました。しかし近年、これらの(ポストモダン)建築がその「用途(あるいは機能)の陳腐化」や「老朽化」などを『理由』に次々とそのスガタを消し去り始めているのです。さて、その『理由』とはポストモダン建築の存在意義を見極めるうえで、果たして真義であるのでしょうか?建築ライターの磯達雄氏はその周辺のことについて次のように書いています(少し長いですが「引用」します)。
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「ポストモダン建築」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。派手な色使いの装飾的な外装?切妻やアーチを載せた屋根?過去の有名建築からの引用?いや、イメージではなく理念なんだよ、と語りだす人もいるだろう。人によってバラバラの意味が、その言葉には被さっている。しかし、肯定的か否定的かということで言えば、現在の建築界における「ポストモダン」は、否定的な意味を込めて使われることの方が多いようである。うわべだけの軽薄な建築、そんな非難をこの言葉が含んでしまっているのだ。例えばあなたが建築家だとして、自分の設計した建物を「素晴らしいポストモダン建築ですね」と言われても、素直には喜べないのではないか。しかしある時期の建築界において、ポストモダンは相当に大きな流れとなっていたことは確かだし、影響を受けた建築家も多かった。それを突飛な外観からゲテモノ扱いするだけでは、それこそ建築をうわべだけで見ていることになりはしないか。(ポストモダンという建築がつくられた)それはどういう時代だったか。高度経済成長が終わり、科学の進歩や技術の発展によるバラ色の未来という神話が砕け散った後の世界だった。よりよき社会へと人々を導く前衛がいなくなり、価値の相対化のなかで差異だけが肥大化する。そんなぐしゃぐしゃとした時代だった。バブルも崩壊(1990年~)し、ポストモダン的な建築デザインも廃れていった。プログラムから建築を語るモダン建築の機能主義的なアプローチが脚光を浴びるようになり、建築の形態もつるりとした直方体のシンプルな建築が増えていく。その時代の区切り(1995年)となる出来事がおこる。「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」。それは建築家にとって、それまでのデザインに対する強烈な反省を突きつけるものだった。既に弱ってはいたが、これによって建築界におけるポストモダンは、息の根を止められたのだ。そうして終わってしまったポストモダンという建築デザインを、この3年間(2008~2010)でもういちどたどり直してみたわけである。そしてその取材の旅を終えようとしたちょうどそのころに、東日本大震災という大きな災害が起こった。このことには不思議な符合を感じる。再び、建築デザインの流れがかわろうという瞬間に我々は立ち会っているのかもしれない。それがどんなものなのかは、いまだ見えてはいないけれども。
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ちょうどこの「ポストモダン建築」の勃興期に建築家として歩みを進めはじめた、隈研吾氏の対談が巻末に掲載されています。その語り言葉のなかに「ポストモダン」とは何だったのか?を理解するための「キーワード」がいくつか潜んでいます。これらを読み解くことによって、転換する「建築デザイン」の潮流をいま、もういちど整理し、展開するうえでの指標になるのではないかと考えています。

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ポストモダン(建築)には「二面性」があり、それがモダニズム(建築)に比べてその様式なども含めたところで分かり難くしている。それは、場所の固有性を再発見しようとする「場所性」と、その場所性を打ち消そうとする「パン・アメリカニズム(汎米主義)」がアメリカから入ってきたことです。これらあ「二つの顔」のどちらが強く出るかで作品にバラつきがあり、それが「わかりにくく」しているんだと思う。モダニズムからポストモダンへの転換は、丹下(健三)さんという先生と、磯崎さん、黒川(紀章)さんという弟子の間で起きた、大きな「父殺し」の事件だったわけですよね。その「殺人」をサポートしたのが白井(晟一)さんだったのではないか。磯崎さんは「知的道化性」というオブラートに包んでポストモダンを日本に紹介したけれど、モダニストたちはそこに潜む偽悪性や批評性を理解できず、自分の「正しさ」の上にあぐらをかいて退屈だった。でも、いつの時代も「正しい」ことから新しいものは生まれない。結局、丹下流の構造を見せるモダニズムの「箱」建築は、まわりの環境が複雑化し、与条件が厳しくなると途端に破綻してしまう。その方法論を確立したのは磯崎さんと黒川さん。この2人のおかげで、その後の日本は大手を振って公共建築を箱でつくれるようになったんです。商業を含めてどんなプログラムが入ろうが、建築としてそれなりに格好がつけられる技です。ヨーロッパの古典主義建築はその技を持っていたから、ギリシャ・ローマ時代から2000年以上も生き延びることができた。そういう大人の技を日本で初めて体得した建築家が、磯崎さんと黒川さんだと。僕は、周辺環境の粒子感や物質感に新たな建築がどう反応したかという、建築におけるアーバンデザインに興味がある。マルクスに「最初は悲劇として、2回目には道化として」という名文句があるけれど、僕は逆に、最初は道化として登場するしかない感じている。村野藤吾や吉田五十八みたいにあちら側の世界に行っちゃった人はともかく、こちら側にいる人が日本的なボキャブラリーを使うことはタブーだった。それを飛び越えるには道化のふりをするしかなかったのでしょう。マイケル・グレイブス(米国の建築家、1934年生まれ)は、つくばセンタービルを見て、「なぜ和の要素を使わないのか」と磯崎さんに質問状を出した。本質的なところで磯崎さんの限界を突いているよね。磯崎さんの「箱」的技の範囲では和を扱えなかったということ。でも、石井(和紘)さんは道化的な才能で見事に和を取り込んでいる。誰もが道化になれるわけではないですよ。(ポストモダンのなかでも)コスモロジー派の悲劇は、80年代の商業主義とあまりにも相性が良かったために、その思考が商品として扱われてしまったところにある。建築の中に宇宙とつながる要素を持ち込みたいという毛綱(毅曠)さんたちの試みは面白いと思ったけれど、実際の建築からは、コスモロジーを商品化した時代のいやらしさを感じてしまう。コスモロジーは、建築の規模が大きくなると、商業主義によって簡単に壊れてしまう。磯崎さんと黒川さんは優等生で、丹下流のモダニズムや構造主義をきちんと体得したうえで古典主義の栄養分を加味してデザインできる人達。一方、原(広司)さんはスケール感や素材感を根本に持っている人で、その民家的スケール感が、ヤマトインターナショナルでは巨大なスケールで展開している。細かい粒子感と大きな軸線が共存する建築です。場所性というのは「正しい」やり方で付き合える相手ではない。とても怖いものなんです。それを認識しないで場所で闘うと、底なしの泥沼に陥って身動きが取れなくなって、建築の表現としても経営的にもしんどいものを背負うことになる。場所性と対峙するには、例えばアートのような武器を使ってメタレベルへと1段上げる作業が必要です。アートには道化性や批評性が含まれるから、石井(和紘)さんのスタンスは可能性があったと言える。丹下さんや大高さんといったモダニストたちはアーティストの方法論は持たなかったから、場所性に太刀打ちできなかった。一方、ル・コルビュジェは建築家でありアーティストでもあったわけで、場所性と対峙できるメタレベルに自分を押し上げる術を持っていた。だから、チャンディーガルの一連のプロジェクトで「インド」という場所と向き合っても、彼の作品はベトッと重くならない。コルビュジェはモダニストの典型でありながらポストモダニストの典型でもあったんだね。それを可能にしたのは彼のアーティスト性です。建築というのは、それが社会とどういう関係を切り結んだかが表れる。小説もそういうところが面白いわけで、日本のポストモダンの20年間は、そんな文学的な楽しみ方ができる時代です。ヨーロッパでいえばコルビュジェやミース・ファン・デル・ローエが生きた戦争前後の時代もそうですね。ヴァレリーはそれを「精神の危機」の時代と呼んだ。社会に対して建築家がどう闘ったかというドキュメンタリーとして、ポストモダンの時代を見てほしい。建築をつくるという行為には、そういう側面が必ずあるわけで、この時代のサンプルは、若い人たちにとっても大いに参考になると思います。
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(目次)

はじめに
封印された20年のふたを開ける

設計者別索引
巡礼マップ

1 模索期(1975-1982)
01-1975
◇世界の終わりにたたずむ塔/白井晟一研究所)◇
02-1975
◇ただの背景にあらず/別子銅山記念館日建設計)◇
03-1975
◇単純にして豊潤/今帰仁中央公民館象設計集団)◇
04-1976
◇家に帰ろう/千葉県立美術館大高建築設計事務所)◇
05、06-1976
◇陸屋根には戻れない/筑波新都市記念館洞峰公園体育館大高建築設計事務所)◇
07-1977
◇なんとなくフラクタル/小牧市立図書館象設計集団)◇
08-1978
◇アナクロニズムの魔法/角館町伝承館大江宏建築事務所)◇
09-1978
◇ツルツルとザラザラ/金沢市立図書館谷口・五井設計共同体)◇
10-1980
◇渋谷のブラックホール/渋谷区松濤美術館白井晟一研究所)◇
11-1981
◇タコライスを味わいながら/名護市庁舎象設計集団)◇
12、13-1982
◇神秘からSFへ/弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館
釧路フィッシャーマンズワーフ MOO毛綱毅曠建築事務所)◇
14-1982
◇思わぬA級エンタメ建築/新宿NSビル日建設計)◇
15-1982
◇フェロモンをまく“蝶”高層/赤坂プリンスホテル新館丹下健三・都市・建築研究所)◇
16-1982
◇リアル姫路城を引用/兵庫県立歴史博物館丹下健三・都市・建築研究所)◇

2 興隆期(1983-1989)
17-1983
◇ノリツッコミの極意/つくばセンタービル磯崎新アトリエ)◇
18-1983
◇モザイク・ニッポン/直島町役場石井和紘建築研究所)◇
19-1984
◇偉大なるアマチュア/伊豆の長八美術館石山修武+ダムダン空間工作所)◇
20、21-1984
◇ミクロコスモスとしての建築/釧路市立博物館釧路市湿原展望台毛綱毅曠建築事務所)◇
22-1984
◇森に湧き出す巨大な泡/球泉洞森林館木島安史+YAS都市研究所)◇
23-1984
◇裏方までスッキリの超整理力/東京都葛西水族園谷口建築設計研究所)◇
24-1985
◇隠喩としての「健康」/世田谷美術館内井昭蔵建築設計事務所)◇
25-1985
◇カワイイ建築じゃダメかしら/盈進学園東野高等学校環境構造センター[C・アレグサンダー])◇
26-1986
◇役に立たない機械/織陣高松伸建築設計事務所)◇
27-1986
◇基壇の上の雲/ヤマトインターナショナル原広司+アトリエファイ建築研究所)◇
28-1986
◇モダニストの竜宮城/石垣市民会館ミド同人+前川國男建築設計事務所)◇
29-1987
◇蝶の中に広がる蝶天国/東京都多摩動物公園昆虫生態館日本設計)◇
30-1987
◇「混合」の切なさに萌える/龍神村民体育館渡辺豊和建築工房)◇
31-1987
◇意外と描きやすい複雑系/東京工業大学百年記念館篠原一男)◇
32-1987
◇湾岸なのになぜか淡水魚/フィッシュダンスフランク・O・ゲーリー)◇
33-1987
◇建築を自ら語る建築/兵庫県立こどもの館安藤忠雄建築研究所)◇
34-1989
◇炎のアイコン/アサヒビール吾妻橋ビル+吾妻橋ホール日建設計+フィリップ・スタルク)◇
35-1989
◇アルミに開いた穴・穴・穴/湘南台文化センター長谷川逸子・建築計画工房)◇

3 爛熟期(1990-1995)
36-1990
◇ガンダム渋谷に立つ/青山製図専門学校1号館渡辺誠/アーキテクツオフィス)◇
37-1990
◇「一発芸」と侮るなかれ/ジュールA鈴木エドワード建築設計事務所)◇
38-1991
◇増殖し巨大化するパターン/東京都庁舎丹下健三・都市・建築設計事務所)◇
39-1991
◇そしてみんな軽くなった/八代市立博物館 未来の森ミュージアム伊東豊雄建築設計事務所)◇
40-1991
◇メメント・モリ―死を思え/M2隈研吾建築都市設計事務所)◇
41-1991
◇泡に浮かぶ黄金の城/ホテル川久永田・北野建築研究所)◇
42-1991
◇日本を脱講いたしたく候/高知県立坂本龍馬記念館ワークステーション)◇
43-1991
◇ディス・イズ・アンドー!/姫路文学館安藤忠雄建築研究所)◇
44-1991
◇気分は宇宙飛行士/石川県能登島ガラス美術館毛綱毅曠建築事務所)◇
45-1992
◇二卵性双生児の20年後/アミューズメントコンプレックスH伊東豊雄建築設計事務所)◇
46-1993
◇進化する空中演出/梅田スカイビル原広司+アトリエ・ファイ建築研究所)◇
47-1994
◇誰にでもわかる現代建築/愛媛県総合科学博物館黒川紀章建築都市設計事務所)◇
48-1994
◇遍在する世界の中心/秋田市立体育館渡辺豊和建築工房)◇
49-1995
◇最先端のパッチワーク/西海パールシー・センター古市徹雄・都市建築研究所)◇
50-1995
◇ポストモダンの孤独/輝北天球館高崎正治都市建築設計事務所)◇

対談
隈研吾×磯達雄
「社会との格闘が生んだ緊張感。これほど面白い時代はない」

あとがき
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