「ムラ」とは、人が安心して生活していける共同体のありかであり
また、多様な生き方と選択肢のよりどころである
私たちは今、都市の中にこそ、「ムラ」を求める
村が都市に変わり、また再び都市がムラに転換しつつあり
都市以前の「村」、都市以後の「ムラ」は異なっていて
「ムラ」と「都市」の違いとは
表面的なデザインでも、物理的密度でもない
建築を建てる「動機」とその動機を支える「システム」こそに
「ムラ」と「都市」とを区分するものがありそうです
そして
20世紀は「村を失った時代」であり
それは「建築あるいは都市」といったものを拡大しようとする「人間の感情」が
『二つの強力なエンジン(「持ち家願望」と「空間の商品化」)』
の
チカラ(発明)によって「大量の建築物」がつくられた時代でもありました
21世紀はその
「スクラップ・アンド・ビルド」
につくられてきた消費する建築というものについて
私たちが日ごろ取り組むシゴトのなかで考え、実践していかなければならない
たいせつな点であると考えています
持ち家願望
太古の昔から人類に備わっていた自然な願望では、決してない。一九世紀までは、一部のきわめて限定された人々(王侯貴族)のみが、自ら家を建てることの楽しみを享受していた。その他大勢の人にとって、家とはすでにあるものであり―親から与えられるか、賃貸物件として存在するかの別はあったが―、自ら、持ち家を建てたり(戸建て)、買ったり(マンション)することなど、夢のまた夢であった。その意味で、村には「持ち家願望」などそもそも存在しなかった。この状況を変えたのは、二つの世界大戦である。戦争は多かれ少なかれ住宅の不足という後遺症を伴うが、二〇世紀が遭遇した世界規模の大戦は、かつてないほどに深刻な住宅難を生み出した。ただし戦争とはきっかけにすぎない。進行しつつある世界の構造転換が、戦争という形でこの時代に顕在化したのである。その転換の本質は、工業化の到来であり、商品、技術、人間の流動性の増大であった。世界大戦の結果として出現した住宅難に対して、大別して三つの解決策が存在した。一つ目はアメリカ型の解決策(都市の外縁を開発建設する戸建住宅)***二つ目は社会主義型解決(安い公営賃貸住宅への入居)***三つ目は村と都市の分離政策。(これらの)二〇世紀の住宅問題に対する三つの選択肢はすべて、村を破壊した。アメリカ型の「持ち家政策」は、原野を破壊して、緑の芝生の上に白いハコが点在する「ムラモドキ」を作り出した。人々はディズニーランドの砂糖菓子のようなフィクションに欲情するようにして、芝の上の白いハコという「ムラモドキ」のフィクションに欲情し、その「ムラモドキ」がアメリカの原風景となった。***社会主義型の集合住宅も、村とはほど遠い、無機質なハコであった。このハコを村化しようという試みがなかったわけではない。たとえば、二〇世紀を代表する建築家、ル・コルビュジエ(1887-1965)は、ユニテ・ダビタシオンと名づけた一連のユートピア型の集合住宅計画において、ハコの中に空中街路を作り、屋上庭園を作って、ハコを村に近づけようと苦闘したが、ハコはハコのままであって、空中街路が村の路地のような濃密でまったりとした空間となることは永遠になかった。ディズニーランドと同様に、ビジュアル的には村と似た何かではあったが、ムラモドキと村の間には、大きなギャップが横たわっていたのである。***このハコ(公共建築)は、完成後にも村から莫大なメンテナンスコストを食い続ける金食い虫でしかなく、建設労働は一時的には村の人間を豊かにしたかに見えたが、実際には、村から人を切り離し、現場から現場へと流れ続ける流浪の労働者を生み出しただけであった。村は、このようにして、何重にも破壊され、奪われ続けたのである。
空間の商品化
村はよみがえりつつあると、感じている。なぜなら村を破壊するシステムそれ自体が自壊を始めたからだ。村が破壊されるプロセスはさまざまであったが、破壊の大本にあるのは「空間の商品化」であった。かつての村において、空間はそこにあり続けるもので、売り買いするものではなかった。しかし、二〇世紀の人々は空間が私有の対象であり、ゆえに売り買いの対象であり、しかも高額な商品であるというフィクションを発明したのである。このフィクションは、住宅問題、すなわち「人口の爆発」を解決するために、そして建設産業という二〇世紀を支えた巨大産業を維持するために、格好の発明であった。この発明によって、二〇世紀の社会経済システムが、ぐるぐると回り始めたのであった。「空間の商品化」は莫大な利益を生み出した。経済効果はあ圧倒的であった。製造業の低い利益率に比べると、「空間」を製造することは桁違いの富をもたらした。よりよい投資先を求めて、だぶついた資金はこぞって空間という「商品」へと流れていった。***その結果、「空間という商品」に頼らない限りは、いかなる国といえどもその経済成長を維持できない、という異常な状況が到来した。空間という商品の周辺は、「素人が手を出せない」危険な場所、ヤバい場所となってしまったのである。二〇〇八年に起こったアメリカのリーマンショックが、サブプライムローンのシステム破綻をきっかけとしていたのは、すべての点で象徴的であった。空間の商品化は、村を破壊し、世界を都市で塗りつぶしていったが、今やそのシステム自体も崩壊しつつある。それが空間というヤバい商品の行きつく先であった。
建築家・隈研吾氏は3・11を経たいま
こうした「持ち家願望」とその場(空間)の「商品化」を改めて
再考する必要性のあることを
『夢もフィクションも捨て、場所を見つめ直すこと』
で
次のように書いています
夢もフィクションも捨て、場所を見つめ直すこと
二〇世紀初頭、弱者は「建築」によって救出可能であると人々は信じた。建築は神の代用品ですらあった。誰でも「持ち家」という建築で救われる。公共建築によって、その工事プロセスが生み出す雇用によって、弱者を救済することができる、と人々は信じた。しかし結局のところ、「空間の商品化」はだれも救うことは出来なかった。全員が傷つき、ヤケドをした。土地というもの、それと切り離しがたい建築というものを商品化したことのツケは大きかった。商品の本質は流動性にある。売買自由で空中を漂い続ける商品という存在へと化したことで、土地も建築も、人間から切り離されて、フラフラとあてどもなく漂い始め、それはもはや人々の手には負えない危険な浮遊物となってしまった。二〇一一年三月一一日、大地震と津波とが東日本を襲った。それから三週間後、まだ水の引かない石巻の町を歩き回った。確かに津波はすべてを流し去った。驚くべき破壊力を目の当たりにして、血の気が引く思いであった。しかし、それでもなお、いや何もないからこそなおさら、そこには何かが残っていることを感じた。場所というもの、そこに蓄積された時間と想いというものは、決して流し去ることのできるものではない。そこに何もないからこそ、よけいに場所というものが力強く立ち上がり、大声で叫ぶのである。商品化、流動化などという小賢しいたくらみにはビクともしない、場所というもののたくましさ、しぶとさに、圧倒された。この大地を切り売りして商品化することが何をもたらすのかを、その行きつく先を、その終末をすでにわれわれは見てしまった。持ち家をいくら建てても、公共建築をどれだけ建てても、場所は曇り、ぼやけていくばかりであった。二〇世紀の建築は、場所を曇らすために、人々を場所から切り離すために建てられた。僕たちはもう一度、場所を見つめることから始めなくてはいけない。大地震と津波とが、そんな僕らを場所へと連れ戻した。夢もフィクションも捨てて、場所から逃れず、場所に踏みとどまって、ムラを立ち上げるしか途はないのである。その場所と密着した暮らしがある場所をすべて「ムラ」と僕は呼ぶ。現代美術の領域では「サイト・スペシフィック(場所密着型)・アート」という言い方があるが、サイト・スペシフィックな暮らしがある場所はすべてムラである。だから一見、都市という外観であっても、そこにはムラは存在しているし、事実、すでにさまざな場所で人々はムラを築き始めつつある。
『自然(場)と呼応する』ことのできる「建築」をつくろうとおもいます
(目次)
都市以前の「村」、都市以後の「ムラ」は異なっていて
「ムラ」と「都市」の違いとは
表面的なデザインでも、物理的密度でもない
建築を建てる「動機」とその動機を支える「システム」こそに
「ムラ」と「都市」とを区分するものがありそうです
そして
20世紀は「村を失った時代」であり
それは「建築あるいは都市」といったものを拡大しようとする「人間の感情」が
『二つの強力なエンジン(「持ち家願望」と「空間の商品化」)』
の
チカラ(発明)によって「大量の建築物」がつくられた時代でもありました
21世紀はその
「スクラップ・アンド・ビルド」
につくられてきた消費する建築というものについて
私たちが日ごろ取り組むシゴトのなかで考え、実践していかなければならない
たいせつな点であると考えています
持ち家願望
太古の昔から人類に備わっていた自然な願望では、決してない。一九世紀までは、一部のきわめて限定された人々(王侯貴族)のみが、自ら家を建てることの楽しみを享受していた。その他大勢の人にとって、家とはすでにあるものであり―親から与えられるか、賃貸物件として存在するかの別はあったが―、自ら、持ち家を建てたり(戸建て)、買ったり(マンション)することなど、夢のまた夢であった。その意味で、村には「持ち家願望」などそもそも存在しなかった。この状況を変えたのは、二つの世界大戦である。戦争は多かれ少なかれ住宅の不足という後遺症を伴うが、二〇世紀が遭遇した世界規模の大戦は、かつてないほどに深刻な住宅難を生み出した。ただし戦争とはきっかけにすぎない。進行しつつある世界の構造転換が、戦争という形でこの時代に顕在化したのである。その転換の本質は、工業化の到来であり、商品、技術、人間の流動性の増大であった。世界大戦の結果として出現した住宅難に対して、大別して三つの解決策が存在した。一つ目はアメリカ型の解決策(都市の外縁を開発建設する戸建住宅)***二つ目は社会主義型解決(安い公営賃貸住宅への入居)***三つ目は村と都市の分離政策。(これらの)二〇世紀の住宅問題に対する三つの選択肢はすべて、村を破壊した。アメリカ型の「持ち家政策」は、原野を破壊して、緑の芝生の上に白いハコが点在する「ムラモドキ」を作り出した。人々はディズニーランドの砂糖菓子のようなフィクションに欲情するようにして、芝の上の白いハコという「ムラモドキ」のフィクションに欲情し、その「ムラモドキ」がアメリカの原風景となった。***社会主義型の集合住宅も、村とはほど遠い、無機質なハコであった。このハコを村化しようという試みがなかったわけではない。たとえば、二〇世紀を代表する建築家、ル・コルビュジエ(1887-1965)は、ユニテ・ダビタシオンと名づけた一連のユートピア型の集合住宅計画において、ハコの中に空中街路を作り、屋上庭園を作って、ハコを村に近づけようと苦闘したが、ハコはハコのままであって、空中街路が村の路地のような濃密でまったりとした空間となることは永遠になかった。ディズニーランドと同様に、ビジュアル的には村と似た何かではあったが、ムラモドキと村の間には、大きなギャップが横たわっていたのである。***このハコ(公共建築)は、完成後にも村から莫大なメンテナンスコストを食い続ける金食い虫でしかなく、建設労働は一時的には村の人間を豊かにしたかに見えたが、実際には、村から人を切り離し、現場から現場へと流れ続ける流浪の労働者を生み出しただけであった。村は、このようにして、何重にも破壊され、奪われ続けたのである。
空間の商品化
村はよみがえりつつあると、感じている。なぜなら村を破壊するシステムそれ自体が自壊を始めたからだ。村が破壊されるプロセスはさまざまであったが、破壊の大本にあるのは「空間の商品化」であった。かつての村において、空間はそこにあり続けるもので、売り買いするものではなかった。しかし、二〇世紀の人々は空間が私有の対象であり、ゆえに売り買いの対象であり、しかも高額な商品であるというフィクションを発明したのである。このフィクションは、住宅問題、すなわち「人口の爆発」を解決するために、そして建設産業という二〇世紀を支えた巨大産業を維持するために、格好の発明であった。この発明によって、二〇世紀の社会経済システムが、ぐるぐると回り始めたのであった。「空間の商品化」は莫大な利益を生み出した。経済効果はあ圧倒的であった。製造業の低い利益率に比べると、「空間」を製造することは桁違いの富をもたらした。よりよい投資先を求めて、だぶついた資金はこぞって空間という「商品」へと流れていった。***その結果、「空間という商品」に頼らない限りは、いかなる国といえどもその経済成長を維持できない、という異常な状況が到来した。空間という商品の周辺は、「素人が手を出せない」危険な場所、ヤバい場所となってしまったのである。二〇〇八年に起こったアメリカのリーマンショックが、サブプライムローンのシステム破綻をきっかけとしていたのは、すべての点で象徴的であった。空間の商品化は、村を破壊し、世界を都市で塗りつぶしていったが、今やそのシステム自体も崩壊しつつある。それが空間というヤバい商品の行きつく先であった。
建築家・隈研吾氏は3・11を経たいま
こうした「持ち家願望」とその場(空間)の「商品化」を改めて
再考する必要性のあることを
『夢もフィクションも捨て、場所を見つめ直すこと』
で
次のように書いています
夢もフィクションも捨て、場所を見つめ直すこと
二〇世紀初頭、弱者は「建築」によって救出可能であると人々は信じた。建築は神の代用品ですらあった。誰でも「持ち家」という建築で救われる。公共建築によって、その工事プロセスが生み出す雇用によって、弱者を救済することができる、と人々は信じた。しかし結局のところ、「空間の商品化」はだれも救うことは出来なかった。全員が傷つき、ヤケドをした。土地というもの、それと切り離しがたい建築というものを商品化したことのツケは大きかった。商品の本質は流動性にある。売買自由で空中を漂い続ける商品という存在へと化したことで、土地も建築も、人間から切り離されて、フラフラとあてどもなく漂い始め、それはもはや人々の手には負えない危険な浮遊物となってしまった。二〇一一年三月一一日、大地震と津波とが東日本を襲った。それから三週間後、まだ水の引かない石巻の町を歩き回った。確かに津波はすべてを流し去った。驚くべき破壊力を目の当たりにして、血の気が引く思いであった。しかし、それでもなお、いや何もないからこそなおさら、そこには何かが残っていることを感じた。場所というもの、そこに蓄積された時間と想いというものは、決して流し去ることのできるものではない。そこに何もないからこそ、よけいに場所というものが力強く立ち上がり、大声で叫ぶのである。商品化、流動化などという小賢しいたくらみにはビクともしない、場所というもののたくましさ、しぶとさに、圧倒された。この大地を切り売りして商品化することが何をもたらすのかを、その行きつく先を、その終末をすでにわれわれは見てしまった。持ち家をいくら建てても、公共建築をどれだけ建てても、場所は曇り、ぼやけていくばかりであった。二〇世紀の建築は、場所を曇らすために、人々を場所から切り離すために建てられた。僕たちはもう一度、場所を見つめることから始めなくてはいけない。大地震と津波とが、そんな僕らを場所へと連れ戻した。夢もフィクションも捨てて、場所から逃れず、場所に踏みとどまって、ムラを立ち上げるしか途はないのである。その場所と密着した暮らしがある場所をすべて「ムラ」と僕は呼ぶ。現代美術の領域では「サイト・スペシフィック(場所密着型)・アート」という言い方があるが、サイト・スペシフィックな暮らしがある場所はすべてムラである。だから一見、都市という外観であっても、そこにはムラは存在しているし、事実、すでにさまざな場所で人々はムラを築き始めつつある。
『自然(場)と呼応する』ことのできる「建築」をつくろうとおもいます
(目次)
「都市」が自壊し、「ムラ」がよみがえる
隈研吾
隈研吾
二〇世紀建築を支えた「動機」/アメリカ型、社会主義型、中国型/ムラモドキのディズニーランド/自壊する「空間の商品化」/夢もフィクションも捨て、場所を見つめ直すこと
第1回 「下北沢」
Introduction by 隈研吾
「ムラ」をめぐる闘いが始まる/「醗酵」か「青春」か、「連続」か「切断」か
Dialogue by 隈研吾×清野由美
「自由」を謳歌する路地裏に、戦後の巨大道路計画が忍び寄る/都市計画とは運動神経だ/上品な教会が根こそぎ、なくなってしまう!?/戦後の“亡霊”がシモキタに降りてきた/逆説的に洗練されていく市民/ファミレス、コンビニが誘導されるまちづくりは失敗作である/下北沢は、意に染まぬ結婚など必要ない/都市計画は、その辺のオバチャンが笑えるものでなければならない
第2回 「高円寺」
Introduction by 隈研吾
中央線ムラに今も作用する軍隊の磁力/暗い強制の見返りとして生まれる、ムラ的な抱擁
Dialogue by 隈研吾×清野由美
高円寺を「ムラ」たらしめているものとは/湯と石鹸の香り漂う商店街/今、隈研吾自身がけっこう「下流化」しています/日本の中心に空虚がある/都市の周縁に存在する“福祉機能”/西麻布を蹴散らす濃い店たち/元祖・教養古書店VS.新興・リサイクルショップ/「何でも人工的に整えて金に換えていこう」にNOを言う/ムラが与えてくれる温かな抱擁/高円寺の対抗軸は西麻布ではなく、陸軍だ/危機に追い込まれないと、デモクラシーは発動されない
第3回 「秋葉原」
Introduction by 隈研吾
人々が、ただすれ違うだけで救出される奇跡の場所/「ムラ」とは演劇的空間の別名である
Dialogue by 隈研吾×清野由美
アキバムラのヘンタイ性こそが日本の未来を拓く/ラジオ、家電、パソコン、萌え/隈研吾、メイドカフェへ行く/S、M、Lのサイズの違いは....../銀座のクラブが秋葉原で民主化された/「負ける男」が社会の表面に浮上してきた/ムラ人の欲望とずれまくる二〇世紀型大規模再開発/希望の星、それはアキバに勃興するヘンタイの様式美
第4回 「小布施」
Introduction by 隈研吾
「ムラの再発見」は二〇世紀の最重要事件だった/男であるとか、女であるとかで成立する社会はニセ物である/「ムラ」から「都市」へと“逆流”する流行/ムラに突きつけられる「経済」と「美学」の連立方程式
Dialogue by 隈研吾×清野由美
小布施という町の「都市性」/「町並み修景事業」という頭脳パズル/足元がデコボコ、ぐねぐねの公共スペース/「ゾーニング」への異議申し立てを行った「修景事業」/ハイレベルのシティボーイが町を「遊ぶ」と....../男の絆に女性が加わって、新たな展開が生まれる/「台風娘」、村の共同体をかき回す/まちづくりはK―1ファイトの場へ
あとがき
清野由美
清野由美
(参照)