2012-09-05

ARCHITEKTUR DENKEN Peter Zumthor

Peter Zumuthorは、中世の石工が石を彫るように
身をけずり、魂をこめてつくりつづけている。光を求めて
安藤忠雄(建築家)
個人の抱くさまざまな風景。憧れ、人を喪った悲しみ、静けさ、歓喜、孤独、安心、醜さ、傲慢、誘惑などの心象や風景。私の記憶のなかでは、どれもがそれぞれに固有の光をおびている。そもそも光なくして事物を想像できるだろうか?谷崎潤一郎は陰翳を讃える。どの隅にも翳が身をひそめる伝統的日本家屋の深い暗がりに、蒔絵の金が燦めき、障子の細い桟に張られた半透明の紙がやわらかい光をひろげる。どこから来るのか判然としないまま、薄闇のなかで、日の光は物をとらえて美しく浮かびあがらせる。谷崎潤一郎は陰翳を讃える。そして陰翳は光を讃える。

これは『風景のなかの光』という章のなかのペーター・ツムトア自身の「文」の抜粋です。彫刻的に想像される空間に秘められたツムトアの祈りにも似た「表現」であるとおもいます。本書『建築を考える』は、ツムトア自身の母国語である「ドイツ語」から翻訳されています。『私の文章である』原書から翻訳された「文面」からは、わたしたち建築に携わるものへの「激励文」ととることができる、常に手元においておきたい「一書」です(以下、短文的・抜粋をしておきます)。

◇◇◇◇◇
幼年期に結びついている心象もある。あるドアの把手、スプーンの背のように滑らかな丸みをおびた一片の金属の感触(「失われた建築を求めて」より)。
建物そのもののなかに相応の形と意味のつながりができていなければならない。素材そのものが詩的であるわけではないからだ(「素材から造られる」より)。
構築(コンストラクション)とは、多くの細部からひとつの意味ある全体を形づくる術である。建造物は、具体的な物を組み合わせて造る(コンストルイーレン)という人間の能力を証し立てている。具体的な素材が接合され打ち建てられる、そのときはじめて、頭で考えた建築が現実世界の一部になるのだ(「労力は物のなかに」より)。
建築には建築の存在領域がある。そこで営まれる生を包む殻であり、背景である。床をすすむ歩みのリズムのため、仕事に集中するため、眠りの静けさのための、繊細な容器なのだ(「眠りの静けさのために」より)。
いまだ未来にある現実を指し示していくようなドローイングが、私の仕事では重要になる。一歩後ろに下がり、じっくり眺め、まだ存在しないがすでに生成しはじめているなにかをつかめるようになる(「現実化したいから描く」より)。
成功したディテールは、装飾ではない。床のこの日本の釘、すり減った敷居のわきの鋼板を留めているのはこれなのか。胸にわきあがるものがある。なにかが私たちの心を打つ(「封印した物体の隙間」より)。
変哲もない日常の、あたりまえの事物のなかに特別な力が宿る―エドワード・ホッパーの絵画はそう言っているように思える。それがわかるには、ただひたすらに眼を凝らさねばならない(「記号を超えて」より)。
なにか神秘的なものを宿しているように思われる建物がある。ごく自然に周囲に溶けこんでいて、あたかもこう言っているようだ―「きみが見ているとおりが私だよ。私はここの一部なのだ」(「完結した風景」より)。
施工図は詳細にして実用本位である。解剖図と似た性格を持っている。隠された要素や骨組みは、建物という身体が完成したとき、そこに内的な緊張や振動が生まれるように構成されるべきだと思う(「身体内部の緊張」より)。
求めている建築の本当の核のところにあるものは、情動と直感から生まれてくる、と私は思う。摩訶不思議な麻薬がいきなり効き出したような感覚。歓喜と情熱が湧きあがる。そして私のなかで、なにかが「この家を私は建てたい!」と言っているような気がするのだ(「欲望」より)。
建築家として空間に取り組むさい、私たちが扱うのは、地球を囲む無限の空間のほんの一部だということである。感銘を与える建物は、かならず強烈な空間の感覚を伝えてくる。建物は空間と名のつくこの謎めいた空虚を特別なしかたで包み、振動させるのだ(「空間に描く」より)。
足枷となった学問的な建築の知識からの開放を試みる。これは功を奏する。呼吸が楽になる。開拓者や創案者たちのなじみ深い息吹に触れる。そうして設計がふたたび創造となるのである(「実践的理性」より)。
すぐれた建物は人間の生の痕跡を吸収し、それによって独特の豊かさをおびることができる、と確信しているからだ建築は人の生に晒されている。感じやすい身体をした建築は、過ぎ去った人生のありようを証す質を持ちうるのである(「メランコリックな想い」より)。
統合された全体とは、細部の理解だけに尽きるものではない。全体を造るために必要だったモデルや言葉や比較は色薄れ、残された足跡のごとくになる。いま中心にあるのは、新しい、ひとつの自足した建物。建物の歴史が、いま始まる(「残された足跡」より)。
建築の言語とは、思うに、建築様式を云々することではない。単純な事実から導かれる問いに、能力の及ぶかぎり厳密に、批判的に、自分の建築で答えていくこと、私のしているのはその努力である(「抵抗」より)。
私が興味をおぼえ、想像力をかたむけたいと思うのは、物から乖離した理論としての現実ではなく、この〈住むこと〉にむけられた具体的な建築課題としての現実なのだ。建築の現実とは具体的なものであり、形や量塊や空間となったものであり、その身体である。物のなかにしか、観念は存在しないのだ(「美しさの硬い芯」より)。
私が大切にしているのは、建築についてじっくりと思いをめぐらせることである。日々の仕事から距離をとり、何歩か後ろにさがって、自分はなにをしているのか、なぜそうしているのかを見つめることである(「物への情熱」より)。
それぞれの場所、一日の流れ、私自身の行動や心身の状態にぴったりあった空間的状況をさりげなく、ごく自然に提供してくれる建物。空間を与え、そこに住まわせてくれ、人が必要とすることを察知して、大げさぶらずにかなえてくれる建築―そういう建物を考えようとすると、きまってこの山のホテルが浮かぶ。亡くなって久しいある画家が、自分と自分の客のために建てたものである(「観察・物への情熱」より)。
仕事においては、まずシンプルで実用的な物から思考をはじめること、そしてそれを大きく、良く、美しくすること、特殊な形にいたるにはあくまでも物を出発点とすること。職人技のなんたるかを知っている匠のごとくに(「観察・物への情熱」より)。
精密な形とぴしりとした接ぎ目を作ることで、心身に集中がもたらされた。完成した新しい家具は、私の身辺になにかしら凛としたものをつけ加えたのだった(「観察・物への情熱」より)。
建設を予定されている場所で、五年後、あるいは五十年後に建物が放つアウラのことを思い、なんらかのかたちで出会う人々にとっては建てられたものだけが肝心であることを思えば、発注者の要望に逆らうのはそれほど難しいことではない(「観察・物への情熱」より)。
(記憶に残っているぬくもり、安心感、軽やかさ、ひろがりの感情など)開かれたイメージについて考えるのがいかに好きか、そして求めるものを見つけるのにそれがいかに助けになっていることかと(「観察・物への情熱」より)。
フランク・ロイド・ライトが設計した小さな住宅を見学して、たいへんな感銘を受けました、とHが語る。部屋の天井が低く、こぢんまりとしたくつろげる雰囲気でした。お年を召された女主人がまだ存命で、そこにお住まいでした。その家を見る必要はないな、と私は思う。彼女が言いたいことが手に取るようにわかる。人の住む家というものの感触は、私にもなじみがある(「観察・建築の身体」より)。
田舎にある一軒の小さな赤い木造家屋の資料をじっくり検分する。納屋を住宅に改築したもので、建築家と住人が共同で増築をおこなった。設計の手法からすればどちらかといえば旧式の、職人的な取組みである。建築としての主張がおとなしすぎる。にもかかわらず、私がしばしば好感を持って思い出すのは、この小さな赤い家なのだ(「観察・建築の身体」より)。
ふと、いま住んでいる村にある古城のことが思い出される。幾世紀を経るうちに何度となく改築され、拡張されてきた城だ。人はいつも当然のごとく、まとまりある形姿を求めてきたから。漆喰をはがし、壁の接ぎ目を調査し、建物の内実を分析してみるときにはじめて、そうした古い建物が経た複雑な成立史が見えてくる(「観察・建築の身体」より)。
集められた(メレット・オッペンハイムの)作品は、テクニックの点からは驚くほどまちまちだ。一貫したスタイルは見当たらない。どのような観念も、有効となるためには形を持たなければならない、といった内容のことを彼女は言ったことがあるという(「観察・建築の身体」より)。
答えが最初からわかっている問いを出す教師はいないということ。建築をすることとは、おのれに向かって問うこと、教師の助けを借りながらも自分で答えに近づき、迫り、発見することである。その繰り返しである。(「建築を教える、建築を学ぶ」より)。
自問してみるといい。かつてある家、ある都市の、なにかが自分の気に入り、印象に残り、感動を与えたのだろう―そしてそれはなぜなのだろう?(「建築を教える、建築を学ぶ」より)。
感銘を受けた建築というものは、私たちのなかにその心象(イメージ)を残している。そうしたイメージを、私たちは脳裏にふたたび呼び起こし、吟味することができる。とはいえ、まだそこからあらたな設計、あらたな建築が生まれるわけではない。設計のさいにイメージで考えるとは、つねに全体として捉えるということである。(「建築を教える、建築を学ぶ」より)。
イメージのなか、つまり建築的・空間的・色彩的・感覚的なイメージのなかで、連想をはたらかせ、奔放に、自由に、秩序だて、体系的に思考すること―私がいちばん好きな設計の定義である。設計の方法としてイメージで思考するということ(「建築を教える、建築を学ぶ」より)。
時の流れが止まる。体験は結晶して、心象(イメージ)となる。深みを指し示すようなその美しさ。この感覚が続いているあいだ、私は事物のまことの本質、そのもっとも普遍的な、どんな思考の範疇にもあてはまらないであろう性質をおぼろげにつかんだ気がする(「美に形はあるか?」より)。
彼女は美しい靴を好む。職人技を、素材を、そしてなによりも形を、ラインを愛でる。彼女は靴を眺めるのが好きだ。足に履いた靴ではなく、ひとつの物として(「美に形はあるか?」より)。
小さな納屋の角を曲がって、彼女ははじめて新しい建物を見る。どきりとし、体に電気が走って、立ちつくす。新築の建物は、その場の既存の建物の大きさや素材とうまくバランスを取るように、非幾何学的な精確さのもとに配されている。「そして新しい建物の身体がこまかくふるえているかのようでした」と(「美に形はあるか?」より)。
美とは感受である。私の心を揺さぶるその姿がほんとうに美しいのかどうかは、形からはただしく判断できない。美は設計して作り出すことができるのだろうか?(「美に形はあるか?」より)。
インパクトがあったり重要であったりする建物や複合施設のなかにも、私を縮こまらせ、圧迫し、締め出し、撥ねつけるものがある。だが他方、大小を問わず、居心地がよく、私の見映えをよくし、尊厳と自由の感情を与えてくれるような、留まりたい、使いたいと思う建物や複合施設もある。私は後者のような作品に情熱をかたむける(「実在するものの魔術」より)。
内部と外部、人目に触れる部分と私的に秘められる部分との緊張を入念に演出するようにしている。敷居、移り目、境界に注意を払う(「実在するものの魔術」より)。
光ほど永遠を思わせるものはない、とポーランドの作家アンジェイ・スタシゥクの『デュクラの背後の世界』にある。出来事も事物もおのれ自身の重さゆえに止まるか、消えるか、滅びる。私がそれらを眺め、描写するのは、ひとえに、それらが光を遮るからであり、光に姿をあたえ、私たちが理解できるような形態にして見せてくれるからである(「月の光」より)。
遥かかなたから地球に射す光。無数の物体に、構造に、物質に、液体に、表面に、色に、形に射す。光を浴びてそれらは輝く。地球の外からやってくる光は、空気を私の眼に見せてくれる(「かなたより地球に射す光」より)。
『陰翳礼讃』の著者、谷崎潤一郎は、石山寺に月見に行くつもりでいたところ、月見客を愉しませるために「月光ソナタ」を流し、灯りや電飾をつけると聞いて、取りやめたという(「遥かな高みから見つめる」より)。
暗闇は地に住む。巨大な呼吸のように、地から立ちのぼり、また地に還る、とスタシゥクは書く。驚かされ、教えられ、私が考えだす建物を照らすのは太陽の光なのだ、と意識する。空間、物質、肌理、色、表面、形を、私は太陽光にかざす(「暗闇は地に住む」より)。
重視されているのは、明るさ、光、空気、眺望、風景のなかで暮らすという感情、願望。日が暮れ、家が外光に照らされなくなると、固有の情感を宿した光の場が内部につくられる。人間の光である(「陰翳なき近代」より)。
太陽の光とは較べるべくもない、ちらちらと明滅する、薄っぺらい影、あまりに脆弱で息切れしやすい光だ。日没と日出のあいだに、どんな灯りをともそう?家の、都市の、風景のなにを照らそう?どんなふうに、いつまで(「日没と日出のあいだ」より)?
風景を故郷として体験してきた。空、匂い、光のぐあい、色、形―子どもの頃の自然の風景は私の血肉になっている。風景を前にしたときのこうした、誰しも憶えがあるふかぶかとした感情は、いったいどこから来るのだろう?(「建築と風景」より)。
都市は私を刺激する、ないし興奮させる。対するに自然の風景は、私がそこに向かって心を開きさえすれば、自由とやすらぎを与えてくれる。なぜなら、自然には都市とは異なる時間感覚があるからだ(「建築と風景」より)。
イマヌエル・カントは「自然のなかでは神々しいものが私たちにじかに触れる」と言っている。登山家であった私の父はカントを読んだことはなかったが、まったくおなじことを言っていた(「建築と風景」より)。
風景をしっかりと見つめること。いたわること。適切な寸法、量、大きさ、形を見出そうとつとめること。共鳴や調和、ないし緊張はそのようにして生まれる(「建築と風景」より)。
風景の流れかた、河川や地形の構造にいとおしさを感じる。腐葉土の厚さ、草原の硬いこぶ、すばらしい感覚を伝えてくれるほかの万物を感じる。地形に変更を加えざるを得ない場合でも、あたかもそれが昔からそうであったかのように見えるようにしたい(「建築と風景」より)。
建築の素材が、歴史のなかで育まれてきた風土の実質(サブスタンス)に合ったものであることを重視する。建築の素材と風土の素材とが、共鳴しあっていなければならない(「建築と風景」より)。
これまで所を得た建物に何度も魅了されてきた。風景のなかに彫刻のごとくに建ち、まるでそこから生え出したかのように見える建物である(「建築と風景」より)。
風景のなかにあらたな集中の場所を造り出そうと思うなら、つまりあらたな上下、あらたな左右、あらたな前後をもたらす場所、あらたなランドマークを造ろうと思うなら、私たちのなかの風景を見つめる眼を大きく育てなければならない(「建築と風景」より)。
ライスの木の家は、窓を大きくとった。幅は内壁から内壁まで、高さは床から天井まで。風景が、窓を額縁として、大きな絵画のように家のなかに取りこまれるようになっている(「ライス・ハウス」より)。
光と風景にあふれる家ができた。開きも閉じもするゆったりした空間のレイアウトが可能になる。家のなかを動くと眺望も変化する。くつろげ、身体に親しい木の存在が、すみずみまでに感じ取れる。光を浴びた木材は、やわらかい絹のような光沢を放つ(「ライス・ハウス」より)。
◇◇◇◇◇


(目次)

物を見つめる
失われた建築をもとめて/素材から造られる/労力は物のなかに/眠りの静けさのために/現実化したいから描く/封印した物体の隙間/記号を超えて/完結した風景/身体内部の緊張/予期せぬ真実/欲望/空間に描く/実践的理性/メランコリックな想い/残された足跡/抵抗

美しさの硬い芯

物への情熱
場所/観察1/2/3/4/5/6/7

建築の身体
観察1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15

建築を教える、建築を学ぶ

美に形はあるか?
1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14

実在するものの魔術

風景のなかの光
月の光/かなたより地球に射す光/遥かな高みから見つめる/太陽の光/暗闇は地に住む/風景のなかの光/陰翳なき近代/夜のロサンジェルス/日没と日出のあいだ

建築と風景

ライス・ハウス


(参考)

みすず書房 ツムトア『建築を考える』

ペーター・ツムトア


自然の美は、人間を超えた偉大なものとして私たちの心を揺さぶる。
(「美に形はあるか?」より)

訪れている都市には、美しい一角がある。十九世紀から世紀末にかけての建物。石と煉瓦で建てられた、どっしりした量塊が街路や広場に沿って連なる。珍しいものはない。いかにも都市というたたずまい。公的空間である飲食店は、建物の一階にあり、通りの往来に向かって開かれている。一方、二階から始まる住居やオフィスは、ファサードを防護にして引きこもり、名高い顔、無名の顔の背後に、私的領域を隠している。ファサードの底辺を境に、公的空間ときっかり一線を画して。この地区には建築家の住居や事務所がたくさんあると聞いていた。そのことを、数日後、おなじ都市にある高名な建築家たちの設計による新市街を見学し、その市街地の構造には明らかに前と後ろがあること、そして綿密に分節された公的空間と、品よく控えめなファサードと、都市の身体にぴたり合っている建物の大きさを眼にして、思い出したのだった(「建築の身体」より)。