2012-10-04

牧野富太郎の本。其ノ貮。

万葉集に詠まれている草花。
牧野富太郎自身、本書についてこのようにふれられています。
『もしも悪かりゃ売れんは当り前、また読んでくれんのも当前だ。が、しかしこの書の記事には相当に啓蒙的啓発的の事実を含めてあるので、幸に読んで下されし人々は、読後決して得る所は絶えて無かったとこぼしはしまいと信ずる。文章は多くは誰にも読み易く解り易く書いてあるが、しかしその文中の事実には、大きく言えば、前人未到の新説新考を含んでいると自賛している。ただし中にはそんなのでもない文章も交じっているから全編が皆有用の文字だとは私は決して言わない。つまり玉石の混淆した一書であると白状するのが自分の良心に恥じぬ所であろう。』

豊かな知識と日本の四季折々のなかで
ちからいっぱい生きている
「植物(クサバナ)」
のことについて「伸びやか」に語られた『自薦随筆集』なのです。

そして、これは「メモ」です。
◇◇◇◇◇
植物を研究する人のために
植物研究の第一歩は、その名称をしらべることである。
それがためにはまず盛に採集するがよい。
採集したものはなるべく立派な標本につくる。
こうして精細に形態上の観察を行いかつそれを記録するようにするがよい。
なお参考書等によって調査をする。
この頃は数多くの植物書が出来ているから、
熱心に懇切にしらべるならば名称をおぼえる位のことは余り困難ではない。
併しそれでもわからなかったら、
大学とか博物館とかを煩わしてしらべるがよい。
植物同好会のような実地の研究会にはなるべく数多く出席することを希望する。
こうして名称がわかったら、形態上の観察をなるべく綿密に行い、
それからなお進んではその用途につき
いろいろの方面にわたってしらべるがよい。
植物の学問は口舌や文字の学問ではなく、徹頭徹尾実地の学問である。
実地につき、実物について研究する処に植物学研究の真髄が存在する。
されどそのように実力を養成し、知識を豊富にすることは現在のままでは到底望まれない。
時に触れ、折を求めて実地の研究を進めると共に、良書を熟読する必要がある。
しかしこの頃のように図書が高価では個人で購読することはなかなか容易でない。
学校長は予算を善用して学校へ良書の購入を適当に行うがよく、
また父兄からも成るべく図書を学校へ献納して貰うようにするがよい。
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植物を採集するには植物に通ずる途の一つである。
これを廃すると植物分類の学者はすこぶる迂遠になることを免れ得ない。
植物採集、標品製作一の技術である。人により巧拙がある。
分類専門の学者でもその標本を作ることが拙劣なものが多く、
優秀な標品を製し得る人は割合に寡ない。
拙書『趣味の植物採集』は採集の方法を教えた書である。
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(目次)



万葉歌のツチハリ
万葉集スガノミの新考
万葉歌の山ヂサ新考
万葉集巻一の草木解釈
カキツバタ一家言
ブドウ(葡萄)
彼岸ザクラ
蓮の話・双頭蓮と蓮の曼荼羅
満州国皇室の御紋章と蘭
竹の花
荒川堤の桜の名所を如何にすべきか
ススキ談義
松竹梅
春の七草
スミレ講釈
ツバキ、サザンカ並にトウツバキ
年首用の植物
植物学訳語の二、三(上)
植物学訳語の二、三(下)
シリベシ山をなぜ後方羊蹄山と書いたか
紀州植物に触れて見る
染料植物について述べる
地耳
豊後に梅の野生地を訪う
茱萸(カワハジカミ)とはどんな者か
私と大学
珍説クソツバキ
二、三の春花品隲(しつ)
そうシミ(紙魚、一名衣魚)を悪く言うナイ
今の学者は大抵胚珠の訳語の適用を誤っている
桜をサクラと訓ますは非である
日本植物の誇り秋田ブキ
亡き妻を想う
科学の郷土を築く
正称アカメモチ、誤称カナメモチ
植物を研究する人のために
アマリリス

年譜


(参考)