2012-03-11

河北新報のいちばん長い日。

それでも 新聞を つくり続けた
被災者に寄り添った社員たちの全記録

2011年3月11日
午後1時
河北新報本社六階の報道フロアでの
「やりとり」から
この「本」の記録は、はじまります

報道部デスクの昆野勝栄(こんのかつえい)氏は
翌日の「アタマ(紙面トップ記事)」候補となる記事が見いだせないまま
社会面用のストック原稿が入っている棚を探ります
株式会社河北新報社は
仙台に本社をおく地元(ブロック)紙であるため
社会面のトップ記事は、基本的に自社で取材したものを
使っていたのです
3月という月は「新聞記者の移動期」ということから
記事原稿の内容も「枯れ気味」であり
「昼夜を問わない過酷な取材活動」

強いられていたようです
報道部のすぐ真横にある整理部の「面担(各紙面記事に「見出し」をつけて整理する人)」
らが
その日の夕刊の「取り纏め作業」を終了して
一瞬の「静寂」に包まれた報道フロアで
とうとう明日の社会面への記事が見いだせないままいた
デスクの昆野氏は
大雪に見舞われた今期(2010年冬)スキー場への
「人出状況と経営者の話」

3月12日の「アタマ」を仕立てよう、と総支局宛の「手配書」を書き始めます

そのとき.....。
2011年3月11日(金) 14:46

強烈な震動により
「組版基本サーバー(紙面制作をするうえでの「組版端末」をつかさどるもの)」

転倒
紙面づくりの可能性を絶たれた河北新報報道部の面々
自らも被災しながら
新聞報道社としての
「使命」
を全うするため
どうこの難局を乗り越え、行動していったのか
その記録がすべて、ここに書かれています


「あとがき」に編集局長の太田巌氏が
本書を纏めるにあたって「考えたこと」とその「役割」ならびに
大震災としての「歴史」を記録を残し後世に伝えていかなければならない
「地方紙(ブロック紙)」
としての役割について述べられていますので抜粋して少し、ご紹介いたします




◇あとがき◇

この本は、震災取材の主力である報道部が、震災後一ヶ月を機に
記者全員から集めた取材記録が基になって刊行へと動き出した。
新聞には、
「何がおきたのか、何が起きているか」

記録し歴史として刻み、新しい時代に継いでいく役割がある。
未曾有の大災害となっている東日本大震災の報道を紙面で展開していく一方、
組織としては反省と痛みを伴う作業ではあるが、震災を歴史として刻み続けるため
新聞製作、輸送、配達の現場はどう動いたかを記録しておく必要があると
判断した。
(中略)
復興までの震災との闘いは、だれもが長期にわたる。
「再生へ 心ひとつに」。
河北新報の一面に掲げている読者への呼び掛け、ともに歩む私たちの意思表明を、
あらためて記しておく。

2011年9月11日  河北新報社編集局長 太田巌


(社員アンケートより)


避難所を取材するうちに、気力が薄れていくような空虚感を抱きました。
私も会社という避難所暮らしのため、苦しさの一端が分かります。
初日より、取材を重ねた後の日々の方が、つらさや痛みが募りました。
(略)
震災後は、ふとしたはずみで涙が出ることがたびたびあり
感情の制御がうまくできないと思う場面もありました。
(略)
心のどこかにぽっかり
穴があいたような、力がうまく入らない感じも時々しています。
少しずつ回復していくしかないと思います。

行く先々で「古くてもいいから河北は持っていないのか」
「今回ほど新聞のありがたさを感じたことはない」
「震災翌日の新聞を読んで涙が止まらなかった」
という感謝の言葉を何度も聞いた。
新聞ジャーナリズムの底力、高い信頼性を肌で再確認した。

(目次)

第1章
河北新報のいちばん長い日
激震のあとに待ち受けていたのは「明日の朝刊は制作不可能」の報せだった。
百年以上重ねてきた紙齢は絶えてしまうのか? 社員たちの闘いが始まった。

第2章
気仙沼から届いた手書きの原稿
一夜明けた被災地は、がれきの中に子どもの遺体が転がる凄惨な現場だった。
津波に呑まれて九死に一生を得た総局長は、かじかむ手でペンを握った。

第3章
死者と犠牲者のあいだ
県庁から飛び込んできた「死者一万人以上」の原稿にどのような
見出しをつけるか。・・・・・・本社整理部員たちは激しく懊悩した。

第4章
配達が大好きだったお父さんへ
かつてはこれほど新聞が読者に求められたことがあっただろうか?
販売店は、震災下でも困難をおして読者に新聞を届け続けた。

第5章
窮乏するロジスティクス
河北自身もまぎれもない被災者だった。食糧、ガソリン、用紙。物資の調達は
報道機関としての生命線だ。社員は工夫をこらして難局を乗り切った。

第6章
福島原発のトラウマ
放射能汚染から社員を守るため、河北新報は福島からの一時退避を決断した。
だが、共同頼みの誌面作りに、記者たちの焦燥感は募るばかりだった。

第7章
避難所からの発信
テーマを深く掘り下げた報道こそ、地元紙に求められているのではないか。
そんな思いが、「避難所いま」「ふんばる」という二つの連載企画に結実した。

第8章
被災者に寄り添う
現場の記者たちの不満を肌で感じた次長の鹿又は、報道部全員にアンケート
を実施することを提案した。記者たちが感じた怒り、苦痛、そして喜びとは?

第9章
地元紙とは、報道とは
震災から半年以上もたった今も、河北は被災者目線で検証報道を続けている。
だが、いったい地元紙として何をなしえたのか?武田の自問自答は続く。

あとがき


(参考)