2011-05-19

「オオキナクラシ」ハヒツヨウカ

最小限な「モノ」とはなんだろうか?と考える機会が増えてきました。

インターネット検索エンジンで「最小限住宅」と入力してみると
難波和彦さんWebSiteがかかり
その中にこのような記事がありました
それは、『生産・寸法・生活:難波和彦氏に聞く工業化・部品化の課題』というもの
難波和彦さんといえばあの「箱の家」が有名ですが
この文章には現在、いろいろと考えていたことに、うまく応えていただけているようなものが
書かれていたので少し長くはなりますが抜粋してのちの資料として
留めておきたいとおもいます。

人の問題 ◇
かつては近代的な技術を住宅産業に取り込めば
近代的なライフスタイルが実現される
技術と生活は平行して進むんだというイメージがあったのだと思います
しかし1970年代に消費社会になって、何も内装せずにインフィルを相手に任せたとき
設計者のビジョンを共有しない営業担当者や理解しないユーザーは
自分の生活の仕方や欲望などを
その中にすべて盛り込もうとして、収拾がつかなくなってしまった。
(中略)
ユーザーは、間仕切りや壁の色など、色々なことを求めてくるわけです
そこに開発者としての僕がいれば説得できるけど
営業担当者は、一室空間という「箱の家」のライフスタイルの根拠を十分に理解していないから
ユーザーを説得することができない
すると当初のコンセプトから段々、後退していくわけです。
要するに、工業化・部品化と商品化の決定的な違いは
モノや性能の違いというよりも、むしろ人間の問題なんです
それを売る人、買う人の理解の度合いによって、当初のコンセプトは単なる方便になり
何でもできる一つのバックグラウンドに過ぎなくなるのです。

   ライフスタイルを提案する ◇
池辺陽が立体最小限住宅を設計した頃は
核家族が一室空間で民主的な生活を展開していこうという気概がありました。
しかし現代は若い夫婦にとって家族のあり方が分からないから
結婚して子供ができたりすると、とりあえず一番単純な形に自分たちを置けば
家族らしきものができるんじゃないかと考える。
つまり家族を繋ぎとめる最後の砦として、一室空間の「箱の家」に来るケースが増えました。
ライフスタイルはそれから決めていくわけです。
初期の頃の「箱の家」は、それなりに確立した家族のためにつくっていたのですが
50番ぐらいから逆転してきました。
もちろんこれが普遍的な回答だとは考えていません。
一室空間はかなり過激なライフスタイルの提案ですから、一般化するわけがない。
ライフスタイル、生産方式、デザインを一体化させることは
ハウスメーカーはどこもやってないしできるわけがない。
だから逆に言えば、僕はハウスメーカーにはなれないんです。

   生産の仕組みをつくり直す ◇
素材自体をつくる現場はとても面白いのですが
結局は、ジョイント、取付方法、他の材との取り合い、そういったレベルで、
どう組み上げるかが勝負です。
僕が構法の単純化に拘る理由の一つは、大工の腕が信用できなくなったからで
現場で専門の職人でなくともできるようなシステムにどんどんシフトしています。
僕や伊東豊雄さん、山本理顕さんが関わっているアルミの住宅もそうです。
鳶職がいれば、アルミのフレームは簡単に組み立てられます。
現在アルミの住宅はSUSというアルミ建材を製造販売している会社が
不二サッシと共同で施工していますが、いずれサッシメーカーもフレームも含めて
独自に手がける可能性があります。
これは鉄骨屋でもなく工務店でもない職種が住宅をつくる試みです。
住宅生産の仕組みをつくり直すわけです。なかなか足を踏み込めない、しかし面白い領域です。

   モデュールの自由な世界 ◇
寸法システムを決めると設計が不自由になるとよく言われますが
それはまったくの嘘です。
たとえばル・コルビュジエが考案したモデュロール
フィボナッチ数列によって黄金比に近い等比級数の数列を人体寸法に結びつけた
寸法システムで
それが頭の中に入っていたから、ラ・トゥーレット修道院の波動式の窓割や
ロンシャン教会の窓の一見ランダムな配列ができたわけです。
寸法システムは文法みたいなもので
複雑な文法を持っていると、言葉が幾らでも展開できるわけです。
ただ、いちいち辞書を引くのではなく、頭に入っているからこそ、
言葉が自然に出てくるわけで、何度も反復して繰り返していれば、使いこなせるようになるし、
そこまで突き詰めれば自由が生まれるんです。
あるルールを決めて、それをとことん突きつめない限り、本当の自由は生まれないと思います。

全文はコチラから

(参考)