ヒロシマ、ナガサキ、沖縄...... いま語りつぎ、子どもにつたえる
戦争の悲劇と平和への祈り
本書の著者「秋月辰一郎(あきづきたついちろう)」は
1916年(大正5)長崎に生まれました
京都帝国大学医学部卒業後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)
放射線科の永井隆博士のもとで、研究をおこないました
2005年10月20日に亡くなるまで
被爆者問題に取組み
数多くの
「被爆体験資料」の収集・発掘につとめました
この間
長崎の証言の会代表委員
原爆被爆者対策協議会
原爆資料保存会
原爆被災復元調査協議会
の
役員を歴任しました
その筆致には自らも被爆者となっている「生々しい記帳」表現がなされており
もう二度と核(兵器による)戦争は起こしてはならない
そして
この悲惨な歴史を後世に伝え生きなければならない
そういう思いに突き動かされる「一書」でありました
最後に
秋月辰一郎の文をいくつかをここに残し、原子爆弾・核の脅威の
一端を感じていただければとおもいます
(秋月氏が医師としてどう行動したのか、全編通読をお薦めします)
◇◇
この記録は、昭和二十八年八月九日、長崎原爆投下以来、一ヶ月の地獄のような悲惨
医学と人間の無力さを、同じその被爆地にいて書き綴ったものである
その意味で、これは被曝医師である私の一年間にわたる原爆白書といえると思う
なにか記録しておかなければ、書きしるしておかなければという気持が
日増しに強まっていった
それは
原爆の残酷さと悲惨さを訴えて、ふたたびこの惨禍のなからんことを
願うためばかりではない
また試練にたえて立ち直り、信仰を守りつづけた長崎の信徒を
讃えるためばかりでもない
私にこの記録を書かせたのは、治療も十分受けられないまま、
この世を去っていった人びとの地底からの
叫び
なのである
病院を目指して登ってきた亡者のような黒く焦げた人びとに
なんらなすことのできなかった私への怨念なのである
防空壕の中に、実はたくさんの負傷者がいたのである
浦上第一病院の庭で
倒木の下敷きになった山野さんも壕の中にいた
「頭がふらふらして起き上がれない。胸がむかむかして、口がにがい」
山野さんは息も絶えだえに訴える
「どこも怪我してないじゃないですか」私は力づけた
「でも先生、起き上がれなのです」
「防空壕に入っているからです。壕を出なさい。きれいな空気を吸えば治りますよ」
まだ、放射能や中性子の知識は私にはなかったのである
そう言えば、火傷の全然ない人の中に
「胸がむかつく、口内がただれる」
という患者が多かった
私は、それが、爆撃以来壕生活を続けているためだと考えた
彼らはやがて血液性の下痢便をするようになる
そして、口内炎は歯齦(しぎん)出血となり、皮下出血となった
口中が紫色になる
私は背中を診た
背中一面にガラス片が無数につき刺さっていた
一センチ長径、二センチ長径の三角、四角のガラスが五十個、六十個
数えることができない
突き刺さるということは、ガラス片の鋭角が皮膚を通し
筋肉を貫いて刺さっていることである
生命を拾った喜びと、これから生きぬく苦痛を同時に背に負っている
道路はようやく人の往来も忙しい
彼らは自分も負傷し、家族は傷ついているのだ
しかし近い親族が下の街で全滅していれば、その遺骨を探さなければならない
山上さんは兵器製作所の鉄筋コンクリート造りの中にいて
無傷であった
残りの四人の子供は一応元気になったが
小学生、中学生の愛らしい子供たちは二、三週間の間に
次々と原爆症が出て死んだ
小学校や中学校の低学年で発育盛りの人は原爆症にもろい
不思議なものである
私は他の被爆者たちと台風一過、秋風の中に立った
秋の陽に衣服を乾燥させながら
なにか気持ちがすがすがしかった
これはさきの九月二日の豪雨の後に経験したと同じものであった
いやそれ以上のさわやかさだった
「少し気持がいいぞ。蝿も死んだ、暑さも終った」
それだけでない、本当に、恐るべき灰が流れ去った
あるいは地中深く沈んだのであった
ガイガー測定器もない私は、地上の放射能を測定して
台風前後の放射能量を比較することはできなかった
この台風後にぞくぞくと訪れた研究陣は
地上の放射能は、西山に少し残っていると報告している
七十年間、人間は生息できないというのは嘘だ
原爆なんかうけても、ただちに人間は生活しうるのだ―こう考えている
しかし
それはこの二度の大雨台風の恩恵であった
もし日本が、ネバダ州やアリゾナ州のような砂漠・荒野で、雨量の少ない
ところであったなら、果たしてどうであったろうか
日本の台風がありがたい
「―復興はしました。復興はしたが、私らの復興はこの荒野に草が再生したのと
ちっとも変わりません。よい果樹も植えられました。花も咲きました。
しかし、雑草が、ところきらわずはびこっています。
私の心の中は雑草ぼうぼうたるものです」
「私の言うのは物質的な衣食住生活の汚れと低さだけではありません。
精神生活の汚れと低さです。
―戦災者だ、戦災者だと言っている間に取り残されてしまっている私らです。
あれからもう二年たちました。世界はぐっと進んでいます。
戦災で根こそぎやられた分を取り戻したうえ、その二年間の進歩に追いつかなきゃ
ならぬ私らです。それが二年前の戦災当時の状態に
いつまでも踏み止まっていてはたしてよいものでしょうか?」
◇◇
(目次)
第一章
八月九日の長崎
広島に新型爆弾投下/八月九日の長崎・時間のない日/地獄図絵/母は無事だった/苦悶と呻きのなかで
第二章
医療活動の開始
薬があった/診療開始/瓦礫にて/負傷者押し寄せる
第三章
紫黒色の死
本原救護病院開設/亜鉛華油とヨードチンキ/紫黒色の死/遅すぎた敗戦
第四章
死の同心円
原爆症あらわる/秋月式治療法/死体を焼く/医療の手だてなし/果てしなき犠牲/死の同心円
第五章
救いの雨
米軍医の診察/豪雨来る/流れ去った放射能/神風・枕崎台風
第六章
永井先生との再開
帰ってきた人/焼跡の槌音/ブルダン神父の決意/生命の箱/永井隆先生との再開/診療所完成
第七章
原子野にたたかう
クリスマス・イブ/瓦礫の無医地帯にて/二つの死亡診断書/アルカンタラ病棟/静かなる日
(付)
永井隆先生と私
ねずみ星を知らず ― 永井隆
(参考)