日本のこれからを考えるために
帯には
「被災地の肉声、生き残った者の責務、国土、政治エネルギーの未来図」
であり
「旅する作家の機動力、物理の徒の知見
持てる力の全てを注ぎ込み
震災の現実を多面的にとらえる類書のない一冊」
と書評が書かれています
小説家であり詩人でもあり翻訳もされている
池澤夏樹さんが
東日本大震災直後、現地を訪れそのときに
目で見、鼻で嗅いだ、その生々しい「現実」を「らしい」文章で描かれています
また
写真家の鷲尾和彦さんのモノクロームな写真が「そのとき」を切り取ったように
池澤さんの文を際立たせています
ときに「戦慄」さえ感じさせる「春を恨んだりはしない」の文字の列
さわりではありますが以下に少々
紹介させていただきます
◇◇
これらをすべて忘れないこと。
今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。
震災以来ずっと頭の中で響いている詩がある。ヴィスワヴァ・シンボルスカの
「眺めとの別れ」。
その最初のところはこんな風だ
―またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない
・・・
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
魚は水を意識しない。
それと同じで普通の人は社会や環境というものをそんなに意識して暮らしていない。
何かあった時に改めて自分たちがどんなところで生きているかを考える。
魚で言えば水温や、匂い、流速、塩分濃度などが大きく変わった時だ。
被災地の静寂は何年かの後にまた賑わいを取り戻すだろう。
(ただし、ここでも福島第一原発だけは例外。放出された放射性物質は
始末のしようがない。最悪の事態はまだ先の方で待っているのかもれない。)
今回の震災を前にして、忘れる能力もまた大事だと思うようになった。
なぜならば、地震と津波には責任の問いようがないから。
助ける、ということの不条理を意識しなければならない。
人と人の仲は基本は対等。同じ高さにある。
そこに何かの理由で差が生じると、それを元の対等ないし平等に戻そうとする
力が働く。二つのガラス器をつなぐ通底管に似ている。
「ありがとう」と「いえいえ」くらいの応酬で済めばいいのに、
そこにまだ社会的な感情がまつわる。
ボランティアは予定の日が終われば自分の生活や仕事に戻ってゆくが、
被災地の人はそこに留まるしかない。
絶対に洩れてはいけない高温高圧の固体と流体を入れる容器と
延々と長い配管、無数のバルブとポンプ。
そういう構造物が地震で揺すぶられるというのは、
正直な設計者にとっては悪夢ではなかったか。
そこで彼らは
「大きい地震はないことにしよう」
とつぶやきはしなかったか。
地震の代わりにテロなどを持ってきても同じことだ。
政治を行うのは政府である。
政府の右側には(左側でもいいが)
その政権の支えとなる政党があり、反対側には政府の意を汲んで
動く(はずの)官僚機構がある。
こういう大きなシステムがどう動くか。
・・・
理想を実現しようと努力する誠実な側面も政治家たちにはあるのか。
冷笑で見てはいけないのか。
理想論と現実論が混じり合っている、というのはこういう意味だ。
今回、たくさんの人々が付き添いのないままに死んだ。
地震と津波はその余裕を与えなかった。
彼らが唐突に逝った時、自分たちはその場に居られなかった。
その悔恨の思いを生き残ったみなが共有している。
このどうしようもない思いを抱いて、我々は先に向かって
歩いていかなければならない
ぼくは
大量生産・大量消費・大量破棄の今のような
資本主義とその根底にある成長神話が変わることを期待している。
集中と高密度と効率追求ばかりを求めない
分散型の文明への一つの促しとなることを期待している。
◇◇
池澤さんはこの本のことを
「作家になって長いが、こんな風に本を書いたことはなかった」
といいます
そして、本書へのおもいとして
「ぼくは震災の全体像を描きたかった。
自然の脅威、社会の非力、
一人一人の被災者の悲嘆、
支援に奔走する人たちの努力などの
全部を書きたかった。」
と
そんな
「春を恨んだりはしない」
ぜひとも手にとってみていただきたいと
おもいます
(目次)
1 まえがき、あるいは死者たち
2 春を恨んだりはしない
3 あの日、あの後の日々
4 被災地の静寂
5 国土としての日本列島
6 避難所の前で
7 昔、原発というものがあった
8 政治に何ができるか
9 ヴォルテールの困惑
(参考)