2012-07-26

人間生活とエネルギー ―エネルギーは不足しているか―

『人間本位』に考えられ、消費されてきた「エネルギー」について
36年以上も前に書かれた
『エネルギーは不足しているか―新エネルギー源開発への期待と危惧―』
(岩波書店『世界』1976年6月号)
という文章がきっかけとなって纏められた本です
よく『エネルギー問題』という「コトバ」を耳にしますが、「何が問題」なのかをまず示しています。それは、『エネルギーそのもの(の問題のこと)ではなく、エネルギーを使う「速さ(パワー)」』にこそ問題があるわけで、そこを見ずして「エネルギー(資源)」のハナシをしても本当の『エネルギー問題』の解決とはならない。筆者でもあり太陽エネルギー利用の研究者でもある押田勇雄氏は、『(この問題を)できるだけ、一般の人の立場で取り扱う』というなかで特定のエネルギー資源の枠からも越えられないようなモノとしてではない『(一般の人々に)最も公平なエネルギー』の話として書かれています。

「エネルギーを使う速さ(パワー)」に関連して書かれた、いくつかの文.....。
◇◇◇◇◇
◆道具は、人間の活動の効率を高めることはできたが、人間の機械的パワーそのものを増大させることはできなかった。これに対して、火はあきらかに一種のパワー、すなわち熱パワーとして、人間にとって、欠くことのできない、かずかずの働きをしてきた。猛獣を追いはらい、寒い冬に暖をとり、食物を煮炊きし、灯火の代りをつとめるなど、原始人たちは、かなり大きな熱パワー、たぶん一人当り五〇〇ワット以上の熱パワーを消費していたと推定される。その原料は、いうまでもなく、木の枝や薪などの植物性のものであった。この植物性燃料の時代は、えんえんと一八八〇年代まで続くのである(「火と道具」より)。
◆発展途上国の人々は、平均して先進国の約10分の1のエネルギーで暮らしている。この格差は大きく、いわゆる「南北問題」が、この比率に要約されている気がする。社会主義国はエネルギーの面からいうと、いろいろな点で世界の平均に近いところにいる。さらに、エネルギー源に立ち入ってみると、薪・木炭・農業廃棄物などの非商用エネルギーは、先進国ではほとんど使われなくなったのに反して、発展途上国については、いまなお全エネルギーの平均三分の一、場所によってはほとんど全部を占める大切なエネルギーなのである。発展途上国の人口は、先進国の約三倍を占め、社会主義国も主義は別として、エネルギーの面から発展途上国に属する国が多いから、人類の多くに共通するエネルギーを無視するわけにはいかない(「植物性燃料の時代は終わったか」より)。
◆エネルギー源は多様化し、そして多様化したエネルギーのそれぞれの消費が、増加するばかりというのが、少なくともこれまでの明らかな傾向で、決してある種のエネルギーが他のものに「代わった」ことは一度もないことは、よく理解していただきたい(「エネルギーの歴史の流れから」より)。
◆世界的規模での森林の後退が問題になっている。その原因は、エネルギー源とするために森林を過伐するためだけではない。昔ながらの焼畑農業や、人口増加に見合う新たな農地を得るための開墾もある。気候の変化による土地の乾燥化・砂漠化、酸性雨や大気汚染によって樹木が傷害をうけることもある。ひんぱんにおこる山火事も無視できない。原因がいずれであれ、その影響は深刻で大きな問題であり、エネルギー源としては、とくに発展途上国に大きくかかわってくる(「森林の後退」より)。
◆たきぎの得られる林が、身のまわりからだんだん遠くなり、今では遠くまでたきぎを求めて、まる一日を費やさなければならなくなる。このような発展途上国の典型的なエネルギー問題を、先進国のの人々が肌で感じることは難しい。しかし、これはもはやエネルギー問題というよりも、むしろ「エネルギー危機」と呼ぶのが正しいであろう。世界の平均人を対象とするこの本(人間生活とエネルギー)では、もし架空の平均人でなく、現実の平均人を相手とするならその平均人は発展途上国人に近いものでなければならない(「発展途上国のエネルギー」より)。
◆自動車を持つことも、かなり制限されているようで、北京や上海などはともかく、僻地の交通の不便は思いやられる。北京・天津地区の暖房期間は、一一月一五日から翌年三月一五日と定められ、その前後は、寒さがかなりこたえるようであった。こういう状況の中で、中国政府は、家畜の排泄物、農業廃棄物や厨芥をメタン醗酵させ、発生したメタン類(バイオガス)を家庭の燃料として使うことを推進しており、相当に成功をおさめている。このやり方は、生物系廃棄物のうまい処理方法ともなっており、地域の衛生環境は良くなり、また、メタン醗酵の残りかすは、有機肥料として、土壌の改良に役立つ。まさに一石三鳥である。中国ではそのほか、太陽エネルギーの直接利用など、自然エネルギーの利用も奨励されており、私の見た北京の天文館にある太陽熱利用機器の常設展示場では、各種の太陽熱温水器や太陽熱料理器、太陽電池などが展示されていた。中国の西北部のように、日射量が多いが植物資源に乏しい所では、太陽熱料理器への関心も高いようである。かの周恩来も、「化石エネルギーは貴重であり、これを燃やしてしまうより、物質資源として大切に使い、必要なエネルギーは太陽エネルギーなどの自然エネルギーを使うのがよい」という意味のことを言っていたそうで、さすがに卓見といえよう(「中国のエネルギー」より)。
◆人口増の問題、資金力が少ないこと、カースト制など、普及をさまたげる原因がいくつかある。太陽熱料理器も試作され、商品化もされているが、インド民衆にとっては、高価すぎるのと、太陽熱料理器そのものの欠点、すなわち夜間や曇天に利用できないこと、台所でなく戸外で用いなければならない不便などがある。しかし、いずれにしても、この方向は正しい方向であり、そして、インドのエネルギー問題を解決する上の、ただ一つの方向であると思える(「インドのエネルギー」より)。
◆かつて、日本の森林は、建築などの用材と、薪・炭などのエネルギー源として、日本の国内の需要を一手に引き受けていた。一八八〇年ころ、日本人の一人当りのエネルギー消費は、約三〇〇キログラムcc/年(約二〇〇ワット)強と推定される。その内容は全部薪・木炭などの木質燃料であった。それ以前の江戸時代もエネルギーに関しては、大体この程度であったと考えてよい。さらに時代を遡った中世でも、森林国であるわが国のエネルギー事情は、これと大差がなかったであろう。そして、この状態は、石炭が木質燃料を追いこして、エネルギー源の第一位となる一九〇五年っころまで続くのである(「日本のエネルギー」より)。
◆日本で再生エネルギー利用率が高いのは、狭い国土に人口が多く、極力再生エネルギーを利用すべく、これまでの日本人が努力し工夫を重ねた結果ともいえるが、実はこの再生エネルギー利用率は、三〇年前にはもっと高かったのである。私が一九五三年を対象に、最初に日本の再生エネルギー利用率を計算したときは、一万分の一〇であった。この二七年のあいだに、その値は三割以上も減ってしまったのである。その主な原因は、日本の森林が急速に、エネルギー源であることを止めつつあるからである(「日本のバイオマス」より)。
◆サンシャイン計画に含まれる太陽エネルギーの利用は、太陽発電や太陽熱利用のいわゆる直接利用に限られている。太陽エネルギー(再生エネルギー)利用率が、この三〇年の間に三割低下したしたということは、サンシャイン計画の一〇年間に、一割低下したことになり、この失われたエネルギーを石炭に換算すると、一九八四年に三三〇万トン積算して一六〇〇万トンが、現実にわれわれの手から逃げて行ったことになる。私は太陽エネルギーの直接利用の研究を、役に立たないとも止めるべきだとも言っているのではない。これらについては、発展途上国からの、切実な要望もあり、鋭意進めなければならない。ただ、現在手持ちのエネルギーである森林や農業廃棄物などのバイオマスの利用を忘れていると、全体としてわれわれは一体何をしているかということになりかねない。そのことを訴えたいだけである。われわれの太陽はかげってはいないだろうか(「陽はかげっていないか」より)。
◆先進国が、こんなにパワーを消費するようになったのは、一九世紀も後半になって、石炭が大量に使われるようになってからである。わが日本についていえば、これより半世紀おくれて、今世紀(20世紀)のはじめぐらいから、エネルギー消費がめざましく伸びてきた。その主役は国産の石炭であった。しかし、第二次大戦前の伸びは、今から見ればゆっくりしたもので、一九四〇年でも一人当りのパワー消費は九三〇ワット、いまの約四分の一にすぎなかった。だから、パワー消費がめざましく伸びたのは、むしろ第二次大戦後であって、この間にそれは約四倍になったということである「時代を超えて」より)。
◆日本が輸入する原油は年に二億一七〇〇トン(一九八〇年)に達する。一〇万トンのタンカーで二一七〇隻分、毎日六隻ずつの大きなタンカーが日本のどこかの港に入ってくる勘定である。いや、実情はタンカーの列といった方がいいであろう。一説によると、あとのタンカーから、先をいくタンカーが望見できるという話さえある。私のような気の小さい者はあ、こんなによその国の石油を使っていて、いいのだろうかと心配になる(「オイルショックの教訓」より)。
◆石炭がなぜ石油と天然ガスにとって代わられたかについては、もちろん後者が流動する液体と気体で、使う上に便利であることのほかに、エネルギー密度が高いことを忘れてはならない。同じ目方で、石油は平均して石炭の約一倍半のエネルギーを含んでいる。ということはエネルギーの質がそれだけ高いと解釈してよい。エネルギーの質が高いということは、エネルギー源として使う場合に有利なことはもちろん、合成化学の原料としても、ざっと言って同じ有機物を合成するのに、石油から出発する方が楽だということである(「石油と石炭」より)。
◆昔は人は労働がきつくて、暇があれば少しでも身体を休めていた。閑暇と休息とは同義語であった。ある人はハイキングに出かける。電車に乗って郊外へ。しかし、元来、乗り物は人が歩かないで済むように発明したものではなかったか。「歩かないために造った物をを使って、歩きに行く」矛盾を、誰も不思議に思わないのはなぜだろうか(「エネルギー余って、運動不足」より)。
◆エネルギー問題にたずさわって、不便を感じることは、エネルギー消費についての統計はきわめて少なく、手に入り難いということである。核兵器を含め、すべての軍備はそれを造るのにエネルギーを必要とする。残念ながらこのエネルギーは、絶対に統計表の上に顔を出さない。ストックホルム国際平和研究所の推定によると、全世界で軍事用に消費されるエネルギーは、石炭に換算して年間1.6ないし1.7億トンにのぼるという。これは全インドの年間エネルギー消費(2.1億tce)に近い。人間のやることを見ると、人間が何に最も熱心かがわかる。「先進国よ、これでもエネルギーは足りないというのか。エネルギーはむしろあり余っているのではないか」というのが、とにかく私の結論である(「決して統計に出ない数字」より)。
◆力とエネルギーは異なる概念で、原子力は正しくは原子核エネルギーといわなければならない。エネルギー史上、原子核エネルギーの実用化は、きわめて近い過去に属する。化石燃料の時代はわずか三世代あまりであると述べたことからいうと、原子力利用の歴史はわずか一世代にも足らない(「核エネルギーの開放」より)。
◆原子核の中での核子の結合エネルギーは、分子の中の原子の結合エネルギーに比べると、ざっと六けた(一〇〇万倍)大きい。原子核から出る放射線についても、以前は自然界に存在する弱い放射線(自然放射能)だけが知られていたが、原子核が人工的に変わるとき、強弱さまざまの放射線が出ることも分かった。弱い放射線は医療などにも用いられるが、強い放射線は一般に人体に害を及ぼす。その害の及ぼし方も、これまである毒と非常に異なる点があり、生物の遺伝子に変化を及ぼし、またその変化は積分的、すなわち浴びた放射線の総量に比例して、子々孫々に累積する効果である。もちろん、非常に強い放射線は遺伝子の持ち主である生物個体自身に傷害や病変をもらたす(「原子力の登場」より)。
◆原子力発電システムは、いまだ完成したシステムとは認め難い点を残している。いくたびか事故というものもあったし、いくたびか改良が行われたが、万一大きな事故が起きると、災害が大きく、しかもこれまでと種類の異なる災害を招くため、絶対安全は不可能としても、非常に高度な安全性が要求されるのは、止むを得ない点である。一つの原子炉の大事故発生の確率が、一〇〇〇年に一回にしても、世界中に一〇〇〇ヶ所の原子力発電所ができた場合、毎年のようにどこかで大きな事故が起こるという計算では説得力が薄い。放射性廃棄物の処理法と、役目を終わった原子炉をどう始末するかは最も頭の痛いところである(「ひとつの資源エネルギーとして」より)。
◆その技術的完成までには(もし可能として)原理的・科学的困難に数倍、数十倍する多くの技術的・工学的困難が予想される。D-T反応に限っても、炉心の材料や、強力な磁場発生の技術、強い放射性をもつトリチウムの漏洩を防ぐ問題、経済性の問題など、すでにいくつもの大きな問題が予想されている。核分裂についてすでに指摘した、われわれの世界とのマッチング(適合性)も、核融合については、一層悪いかも知れないという可能性もある。たとえば、冷却に使う水の必要量だけでも、核分裂のときより格段大きくなり、水資源や温排水の問題も起こってくるのではないか(「核融合発電は絶望的か」より)。
◆もはや「研究産業」という一種の産業がそこにあると見た方がよいのではないか。そして、「核融合研究」などは、その規模からも、費用からも、まさに代表的な研究産業といえるのではなかろうか。もし、そうだとすると、他の産業なみに、きびしい成立の条件があるべきであろう。それとも、一研究者である私が、こんな発言をするのは、全研究者に対する裏切り行為であるのか。このような思いが私の心を去来していた。ある出版社の記念のパーティーで、私ははじめてAさんに会った。いささかアルコール分も入っていたこともあって、私は無遠慮に「Aさん。本当に核融合はできるのでしょういか」と聞いた。Aさんは、直接私の問いには答えず、ニヤリと笑ってこういった。「アメリカでも、みんなこれは a better way of wasting money(金をむだ使いするましな方法)だと言っていますよ」(「研究産業論」より)
◆イワシを取りにいくエネルギー、運ぶエネルギー、保存するエネルギーとおきかえてみると、われわれは、イワシそのものは海で泳いでいた時とほとんど変わっていないのに、それが口に入るまでにイワシに投入されたエネルギーに対して、対価を払っているとも考えられる。こういう考え方は、別にイワシでなくても成立つ。たとえば水道からでる水は、川を流れているときはただであったが、これを採取し、浄化し、各戸に配給するためにエネルギーが必要で、水道料金はその費用であると見ることもできる。もう一歩すすめて、ものはエネルギーであるという見方が、次第に確立されつつある(「イワシはただであるという説」より)。
◆電気冷蔵庫が九年使えるとすると、その九年間の使用エネルギーは四万二五〇〇メガジュール(約一万メガカロリー)となる。これは投入エネルギーの11・5倍である(「電気冷蔵庫の例」より)。
◆一九八〇年版の、『国民生活白書』(経済企画庁編)は、かなりのページを割いて家庭のエネルギー問題を論じている。その中で、一九五〇年の平均世帯が、衣・食・住などの生活に必要としたものの中に含まれていた間接エネルギーの総和は、光熱費として対価を支払った直接エネルギーの約2・3倍にのぼり、中でも、食品の間接エネルギー分は、全間接エネルギーの内、約三分の一を占めるという(『「食」のエネルギー』より)。
◆一九七〇年の一年間に、衣服の製造・使用に要したエネルギーは、一人当たり三二三〇メガジュール(七七〇メガカロリー)、一世帯当り一万二四八〇メガジュール(三〇〇〇メガカロリー)となる(『「衣」のエネルギー』より)。
◆衣・食・住のうち、住に必要なエネルギーは、格段に大きい。かりに延坪82・5平方メートルの木造一戸建てを想定すると、それに投入されるエネルギーは実に三一ギガジュール(ギガジュールは一〇の九乗ジュール、三一ギガジュールは七四〇〇万キロカロリーに当る)にものぼる。もちろん、個人の持物として、他より圧倒的に大きい(『「住」のエネルギー』より)。
◆電気製品以外の耐久消費材として、われわれの生活に最も関係が深いのは自動車であろう。科学技術庁資源調査所がまとめた資料によると、自動車一台を生産するのに必要な投入エネルギーは石油に換算して二トン強にもなるという。これはおよそそのクルマ自体の重量と匹敵する重さである(「耐久消費材のエネルギー」より)。
◆「構造別住宅の投入エネルギー」というなかの内訳に、「解体」の項があることに注目していただきたい。たしかに、建った家をこわすのには、エネルギーが要る。しかし、これを投入エネルギーの中に計上してあることに、疑問をもつ読者もあるであろう。しかし、これで正しいのである。建築以外の、衣・食・耐久消費材の各項についても、これに相当する「廃棄のエネルギー」を計上すべきであったのである(『大きな「つけ落ち」』より)。
◆日本のエネルギーは、ほとんど全部、われわれが使うという見方が必要だということである。エネルギーは常に上から来た。エネルギー政策は政府によって立てられ、実際のエネルギー供給は、電力会社や石油会社など、比較的大きい集りであるエネルギー産業によって行われてきた。エネルギーの世界でも、もっと消費側からの発想があってもよいのではないか。いや、なくてはならないのではないか(「下からの発想」より)。
◆われわれの所にやって来ているとは、どうしても思えないエネルギーが存在することを、注意しておきたい。たとえば、兵器をつくる産業では、造られた兵器は、われわれの目にふれないところで、戦争がない限りは、眠っている。軍事専門家でさえ、ある数以上の核弾頭の保有は無意味と言っている。使われないものならすべてが無意味である。万一使われたら世界全体が破滅するものは、いかなる意味でも「サービス」ではあり得ない(「第三次産業とエネルギー」より)。
◆世界のエネルギー供給の、実に97.5パーセントを占めるものは、石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料と、わずかの原子燃料で、これらは一度使ってしまえば、永久に回収できないエネルギーであり、資源エネルギーと呼ばれるものに属する。もちろん、一度建設したダムが永久に使えるわけではない。しかし、雨や雪はこれからも、永久と考えてよい長い年月、降り続けることはまちがいない。こういう種類のエネルギーは再生エネルギーと呼ばれ、自然界のエネルギーという意味で、自然エネルギーといわれることもある。(「資源エネルギーと再生エネルギー」より)。
◆「太陽エネルギーは人類を救えるか」。今でも救っている。何百万年も救ってくれた。これからも救ってくれることは、まちがいない。「太陽エネルギーは有望か」。有望も無望もない。資源エネルギーが尽きたとき、われわれは太陽エネルギーにもっぱら頼る以外に、どんな途があるというのか。「太陽エネルギーはエネルギー問題を解決できるか」。できることは確かで、ただそのできる「形」がどんな形になるだけかの問題だ。(現に、)地球表面の平均温度は、約一五度で、猛暑・酷寒の場所や季節はあるとはいえ、およそ天体の中で、これほど良い環境の星があるだろうか。太陽の明るさ(照度)は、昼夜、晴曇を平均してもなお約二万ルクスもあって、昼間の快適な明るさを確保し、すべての植物はこれによって育つ。いかに多くの電灯を並べても、とうてい太陽の代りはつとまらない。石油は偉大な太陽の働きのごく一部を、補っているに過ぎない。(「太陽エネルギーのまちがった見方」より)。
◆ひとつは、鏡やレンズを使って、太陽の光を集め、高い温度を得る方法で、一七四七年フランスの科学者ビュッフォンが、一五四枚の平面鏡を組み合わせて、七七メートル先の木片(ただし木炭と硫黄とともに置いて)を発火させるのに成功したというのが、文献に残っているたしかな初期の実験として伝えられている。もうひとつの流れは、いわゆる熱箱の原理を利用するものである。熱箱とは、太陽熱をためこむための、断熱材とガラスでできた箱のことをいう(「太陽熱利用の歴史」より)。
◆太陽から来るエネルギーは、もともとは光の形のエネルギーで、これを熱に変えて使うのが太陽熱利用であり、熱に変えないで、光のエネルギーを直接利用しようとするものが太陽光の利用である。太陽光の利用は、古くて新しい問題である。残念ながら、いまのところ、(酸化チタンに水中で光を照射することによる太陽光の科学的利用は)効率が低く、一パーセント以下ということで、このままでは実用性はない。しかし、とにかく、太陽光線で水が分解されるという人類の夢に、ひとつの展望が開けたことは、大きなできごとである。海水からの太陽光線の力で水素が得られれば、人類は無限の、しかもクリーンなエネルギーを手にする道が、開けはじめたのである「太陽光の利用」より)。
◆太陽エネルギーを、これらの資源エネルギー(石炭や石油など)と同程度の密度(強さ)にしたいならば、数百倍に濃縮しなけれればならない。しかし、もし太陽エネルギーの密度が、もともとそんなに大きいものであったら、われわれをはじめ、すべての生物は生きておれず、地上は焦熱地獄になることは決まっている。われわれの環境をあるがままに受け取り、その中でこれを活用していくのが、再生エネルギー利用の途ではないだろうか(「資源と環境」より)。
◆太陽エネルギーの範囲で考えても、太陽エネルギーの利用装置を仕上げるには、何かエネルギーが必要である。それがたとい太陽エネルギーであったとしても、投下したエネルギーの方が、装置の寿命が尽きるまでに回収できる太陽エネルギーよりも大きかったら、全くわれわれは何をしているのか分からなくなる。ただのものをつかまえるには、ほんとうはただの道具でするのが理想であろう。それが無理であるにしても、少なくともその方向をめざすべきではないだろうか。そういう意味で眺めてみると、多くの技術者の努力にもかかわらず、現在使われている太陽エネルギーの利用装置は、太陽熱温水器にしても、太陽電池にしても、立派すぎ、高価すぎるように私には思えてならない(「真の太陽エネルギー利用の道」より)。
◆どこに打開の道があるのか?それは「頭の切り替え」である。この一〇〇年の間に、われわれの頭に定着してしまった「エネルギーは資源から得るもの」という固定観念をなくすことである。人は環境エネルギーである太陽エネルギーに似たことをやらせてみて、「太陽発電はだめだ」などと軽々しくいうが、口悪くいえば一種の猿芝居をやらせていることではないだろうか。環境エネルギーを利用するには、資源エネルギーを使うのと、全く別の発想によらなければならない。これを忘れてしまったのが「資源ぼけ」である。一〇〇年以前までは、人間は主として環境エネルギー、すなわち太陽エネルギーに依存し、これを利用するのにふさわしい観点や哲学を持っていた。私を含めて、自然エネルギー利用の研究者が考えていることは、昔の生活に戻ることではない。この一〇〇年間に進歩した科学技術の成果をふまえて、再び自然エネルギーの利用にとりくむことである。この科学技術はこれからも進歩するであろうから、われわれの前途は明るい(「逆転の発想」より)。
◆太陽エネルギーは分散型のエネルギーであるから、分散した状態で使い、必要に応じて集中していく方式をとらざるを得ない。必然的に、小規模の施設を、多くの場所で実施するというのが、大尉用エネルギー利用の本来の形態である。このことをまず理解していただくと、このエネルギーは、個人単位、家庭単位、建物単位で使うべき、身近なエネルギーであるという、私の主張を理解していただけたことになる。太陽は万人に照る。したがって、特別な人だけしか利用できないような利用方法はまちがいであろう。たとえば金持ちしか住めないようなソーラー・ハウスなど......。資源エネルギーは、上から下へのエネルギーであり、大口の需要家をまず考えることになりやすいが、太陽エネルギーは、「草の根」エネルギーで、一般の庶民の利用から始まり、下から上へ及ぶのが順序であると私は考えている(「下から上へのエネルギー」より)。
◆「効率」、それは環境エネルギーの世界では、どの関所も通れる通用手形ではない。資源エネルギーの世界と違い、誰も世界一の効率の温水器を造ろうとは考えていない。もし考える人がいるとしたら、それは他の分野から、われわれの自然エネルギーの世界に入ってきたばかりの「素人」だけである(「いたずらに効率を追うな」より)。
◆われわれ人類は地表(陸と海)に達する太陽エネルギーを、平均では約五万分の一(0.002パーセント)しか使っていない。これからみると、一パーセントは、たいへん高い効率であり、もし地球上の一パーセントの面積の場所で、一パーセントの効率で太陽エネルギー利用できたら、一年間に石油に換算して六六億キロリットル分のエネルギーが手に入り、現在必要とされるエネルギーの前消費量をまかなうことができる。太陽エネルギーの利用に関しては、一パーセントの効率はかくも偉大な効率なのである。(「一パーセントを目標とせよ」より)。
◆質を考慮に入れたエネルギーであるということ。エネルギーを、その実力で比較するにはエクセルギーによるべきである。ある土地を新しく太陽エネルギー利用に使う場合、効率よりも必要度に応じ、植物系(バイオマス)のものまで含めて、総合的に判断することが大切である。単一の種類のエネルギーを獲得するよりも、いろいろな種類のエネルギーを得たほうが、全体としては有効である場合もある。さらに風力や水力も、太陽エネルギーの子供であるから、それらも併せて利用することも、立派な太陽エネルギー利用であるといわなければならない。日本海に面した地方などで、冬は曇天が多く、太陽エネルギー利用に向かないというのが定説であるが、なに、風も雪も所詮は太陽エネルギーであって、それらのエネルギー利用も可能であるから、いちがいにはそういい切れない(「総合的に考えよ」より)。
◆パッシブ・ソーラーハウスと並んで、よい方向に歩みだしているのが、農業における太陽エネルギー利用である。温室、ハウス農業は歴史の古いものであるが、立派な太陽エネルギーの利用である。太陽光の利用に関しては、太陽電池の価格が、製法の進歩と用途の拡大によって低下してきたことは、歓迎すべき傾向で、とくにアモルファス電池の発達は、将来への明るい希望を抱かせる。すでにシート状の太陽電池も試作されるようになった。やがては塗料化(塗料の層がそのまま太陽電池となるもの)もあながち夢とはいえない。そこまで来れば、各家庭にも入りこんでくるであろう。ここまでくると蓄電池を何とかしたいが、これも新型電池がいろいろと研究されているので、少なくとも今の鉛蓄電池をしのぐものが出てくる可能性はある(「太陽エネルギー利用の真の姿」より)。
◆エネルギーの供給、というよりパワーの使用は、両刃の剣であって、人間の快適な生活を助けると同時に、環境をも破壊していく。どちらの速度も、パワーの使用量が大きいほど大きい。いま生じている環境問題には、まだよく分かっていない部分があるにしても、これをエネルギーの使いすぎ(というよりパワーの使いすぎ)に対する天の警告と受け止めるべきではないだろうか(「環境破壊とエネルギー」より)。
◆一世帯に一個の電灯がともると、村人たちは喜び・感激ははかり知れない。しかし、一世帯に一個の電灯が、一個から二個、二個から三個とふえていくに従い、感激も薄れ、だんだんなんでもない日常茶飯事と化していく。ラジオやテレビでも一台目の価値と二台目の価値は、まるでちがう。こんなふうにして、エネルギーの価値は、つぎこんだエネルギーの量の指数関数の形で、次第に低下していく。こういう観点から、ごく大ざっぱに言うと、エネルギーの消費が現在の約半分であった一九六〇年ごろに比べて、今のエネルギーの効き目は半分になった。つまり同じ効果を得るのに二倍のエネルギーを消費しなければならなくなったということである(「エネルギーの価値は下がる」より)。
◆エネルギー問題は、読者の頭の上を通りすぎていく問題ではない。野菜や魚と違って、店頭で選ぶこともできず、何やら遠いところで決められたものをあてがわれているという感じは、まだ残っていられると思われるがエネルギーも、結局は読者自身の問題である。季節はずれの高価なハウス栽培の野菜を、買う人がいる限り、農家は多くのエネルギーを投入してでも、それを作り続けるであろう。エネルギー問題は「どうなる」という観点からは、私にはもうこれ以上書くことはない。エネルギー問題を「どうする」という立場に、読者が私とともに立って下さることを信じて、いまこの章を書き継いでいる(「何をなすべきか」より)。
◆「省エネルギー」は無駄なエネルギーを使わないことであって、必要なエネルギーを削ることではない。また、同じエネルギーに、より多くの働きをさせることである。だから私は「省エネルギー」でなく「生(しょう)エネルギー」と書けなどと半分冗談に言っている。先進国ではエネルギーが余り、発展途上国ではエネルギー不足にあえいでいる。同時代人として、これではいけない、何とかしなければならないという思いがする。(「横の倫理」より)。
◆昔の日本人は、子孫のために樹を植えた。当時、木材は物質資源であり、同時にエネルギー資源であった。「自分の子孫のために」は、ひとつのエゴイズムではあるかも知れない。しかし、自分が見ることもない後世の子々孫々のためを考えて行動することは、すでに「縦の倫理」に向かって一歩踏み出したことになる(「縦の倫理」より)。
◆エネルギーからいうと、すべての種類のエネルギーは等価値であるが、エクセルギーからは、そうではなく、熱エネルギーの価値は低い。とくに環境温度(気温)に近い低温の熱エクセルギーは、小さい。貴重な電気で低温の熱を造ることは、電気に機械的な仕事をさせる場合に比べて、エクセルギー効率がはなはだしく低く、もったいない行為である四五度などという低温の熱は、つとめて自然エネルギー(たとえば太陽エネルギー)から得るようにするべきであろう(「エクセルギーを指標として」より)。
◆エネルギーは無くては困る。しかし、あればあるほどよいというものではない。極端な例で恐縮だが、戦争はエネルギーが多いほど悲惨になる。平和の時代でも、先進国については、私の結論はもっとエネルギー消費を減らせということであった。一九六〇年にはエネルギーは足りていたのだろうか。いまの半分のエネルギーで、みなひどいエネルギー不足に苦しんでいただろうか。人間はその時代時代で生産可能な分のエネルギーを手に入れ、それをまたほとんどまるまる消費しつづけてきたということではなかったか。それでもエネルギー生産が低いうちは、人間がエネルギーを支配してきた。このことが最も重要だと私は思う。支配し切れないほど、大量の、しかも強力なエネルギーを持つことは、かえって人間の不幸ではないのか(「エネルギーに支配されるな」より)。
◆少くとも私たちのほんとうにしたいことは、エネルギーをたくさん使うことではないはずである。速い乗物に乗って、走りまわることも、愉快にちがいない。しかし、永続性のある、深い喜びであるとはいえないと思う。人間が生きていくために必要なエネルギー、そして、支配できる程度の量と強さのエネルギーといえば、先進国ではもう十分な量がそこにあるのではないか。発展途上国の為政者にとっては、エネルギー問題は、ひとつのおおきな「憂いの種」でることはまちがいない。しかし、今の日本で、エネルギーを憂えるとしたら、エネルギーの何を憂えるのか、これが問題である。これまで歴史上になかった大量のエネルギー、日本人一人当りでいえば、第二次大戦前(一九四〇年)の四倍、江戸時代の一五倍のエネルギーを消費しておりながら、まだ憂い顔というのはどういうわけであろうか。エネルギー問題というのは、どこまで行ってもすっきりしない気がする。矛盾にみちており、人間のみにくいエゴに満ちているような気がする「エネルギーを楽しむ会」より)。
◇◇◇◇◇


(目次)

序章 エネルギー問題とは何か

第一章 エネルギーとパワー
―問題はエネルギーではなく、パワーである―

第二章 エネルギーの原点
―バイオマス―

第三章 三代の栄華
―それでもエネルギーは足りないか―

第四章 核エネルギー登場
―原子力をどう位置づけるか―

第五章 消費側からの発想
―衣・食・住のエネルギー―

第六章 再生エネルギーの世界
―かつて辿りし道―

第七章 起回点に立って
―逆流ははじまる―

第八章 何をなすべきか
―エネルギーに使われるな―

あとがき


(参考)