住居の考現学、全60話のはじまりです
本文中に、本書を「一望」できる文があります
その部分を植田実氏ご自身の「コトバ」をお借りして、ご紹介しておきます
◇◇◇◇◇
住まいについての本はたくさんある。住宅と呼ばれる建築についての基本的な知識をきちんとまとめた本、住まいや街に関する法律や住まいを手に入れるノウハウの本、戸建て住宅とマンションを比較する本もあればどこの街が住みやすいのかデータ分析(した)本もある。部屋別の、住宅機器の、また家具や小物の解説書がある。何をどのように上手に買いそろえていくか、あるいは買わないですませるかの案内にも事欠かない。国や地域別の住宅史もそろっているし、そのガイドマップもある。建築家が設計した住宅作品集も多いし、そこでの生活ぶりをリポートした本もある。生活者の視点から住まいを語るエッセイ集がある。災害に備えるための心得を説く本がある。専門書があり一般向けの啓蒙書がある。こうした住まい関係の本のガイドブックさえある。この本はといえば、月刊「みすず」に連載タイトル「住まいの手帖」と一ページの場をつくってもらい、二〇〇五年三月から二〇一〇年の終わりまでの六十回分をまとめたものだが、上記のような住まいの本の森のなかには入らないかもしれない。前もってのテーマもなく、話の順序も考えずに、じつのところは気まぐれに近い記憶を追いながら、ただ自分なりにたしかと思える住まいというものの感触だけを探ってきたつもりだが、それが住まいの本と認められるのかどうか。これこそ、住まいの本、とこっそり主張したいのでもあるが。これまでにみすず書房から出していただいた『集合住宅物語』や『都市住宅クロニクル』と比べてもまるで小さい本である。小さいぶんだけ主張しているようなところがある。なかでは建築家の設計した住宅やその人の考え方などにふれているところがあるが、建築家の名前を挙げていない。これは書きはじめてまもなく思いついた。個々の作品や設計思想の輪郭をあえて消すことで、住まいの多角的な全体像を示したかったのである。同時に、これで好きな住宅について心おきなく書くことができた。だから、読んでいくなかで、あ、これは自分の設計した家のことじゃないかと思いあたる建築家の方がいるはずである。どうかお許しいただきたい。連載時の順序とほぼ同じだが、多少の入れ替えをし、大幅に書き直した項目がいくつかある。とはいえ、もともとが思いつくまま山を見ずして書いているので、どこから読まれてもかまわない。本文を読み返すと、子どものときの住まい、空襲で消失したわが家とその隣近所について書いていることが思った以上に多い。それはたんなる追憶というよりは昭和初期における東京の郊外住宅地の成り立ちと環境の構造をあらわすことになった、と自分では思っている。細部を定着させようとするほど、それは失われた住まいになっていったのではあるが。
本文中に、本書を「一望」できる文があります
その部分を植田実氏ご自身の「コトバ」をお借りして、ご紹介しておきます
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住まいについての本はたくさんある。住宅と呼ばれる建築についての基本的な知識をきちんとまとめた本、住まいや街に関する法律や住まいを手に入れるノウハウの本、戸建て住宅とマンションを比較する本もあればどこの街が住みやすいのかデータ分析(した)本もある。部屋別の、住宅機器の、また家具や小物の解説書がある。何をどのように上手に買いそろえていくか、あるいは買わないですませるかの案内にも事欠かない。国や地域別の住宅史もそろっているし、そのガイドマップもある。建築家が設計した住宅作品集も多いし、そこでの生活ぶりをリポートした本もある。生活者の視点から住まいを語るエッセイ集がある。災害に備えるための心得を説く本がある。専門書があり一般向けの啓蒙書がある。こうした住まい関係の本のガイドブックさえある。この本はといえば、月刊「みすず」に連載タイトル「住まいの手帖」と一ページの場をつくってもらい、二〇〇五年三月から二〇一〇年の終わりまでの六十回分をまとめたものだが、上記のような住まいの本の森のなかには入らないかもしれない。前もってのテーマもなく、話の順序も考えずに、じつのところは気まぐれに近い記憶を追いながら、ただ自分なりにたしかと思える住まいというものの感触だけを探ってきたつもりだが、それが住まいの本と認められるのかどうか。これこそ、住まいの本、とこっそり主張したいのでもあるが。これまでにみすず書房から出していただいた『集合住宅物語』や『都市住宅クロニクル』と比べてもまるで小さい本である。小さいぶんだけ主張しているようなところがある。なかでは建築家の設計した住宅やその人の考え方などにふれているところがあるが、建築家の名前を挙げていない。これは書きはじめてまもなく思いついた。個々の作品や設計思想の輪郭をあえて消すことで、住まいの多角的な全体像を示したかったのである。同時に、これで好きな住宅について心おきなく書くことができた。だから、読んでいくなかで、あ、これは自分の設計した家のことじゃないかと思いあたる建築家の方がいるはずである。どうかお許しいただきたい。連載時の順序とほぼ同じだが、多少の入れ替えをし、大幅に書き直した項目がいくつかある。とはいえ、もともとが思いつくまま山を見ずして書いているので、どこから読まれてもかまわない。本文を読み返すと、子どものときの住まい、空襲で消失したわが家とその隣近所について書いていることが思った以上に多い。それはたんなる追憶というよりは昭和初期における東京の郊外住宅地の成り立ちと環境の構造をあらわすことになった、と自分では思っている。細部を定着させようとするほど、それは失われた住まいになっていったのではあるが。
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その「多角的な全体像」のなかから現在の住宅について
すまい手・つくり手・街のこと
など
感じた部分をメモしておきたいとおもいます
◇◇◇◇◇
仮名の家
身に着けるものにも、同様な事態が起こっている。ブルゾンをジャンパーといえば若者たちには笑われるし、スーパーで肌着売り場を探すとインナー売り場に変わっているのは、流通上の戦略の結果だろう。
ピロティ
どこか釈然としないのは、頭では地面が開放されたと思いながら、床の下をくぐる気分に近いことと関係があるようだ。空の下でなければ、そこは開かれない。ピロティが現代のスタイルであるのは、地面の開放というより、その場所から離れてどこにでも歩いていける脚の表現によるのだろう。
ロッカーの部屋
公営公団住宅で椅子とテーブルをとりいれたダイニングキッチンが登場したころに、この家(ロッカーの部屋のある家)はできた。一般家庭の居間にソファが入ってくるのは、さらに後のことである。それがただユカ座からイス座への形式的な移行にすぎなかったことは、現在でもユカとイスのあいだにとりとめなく身体を移ろわせている自分を考えればよくわかる。
路地の椅子
東京の、やはり真夏の下町で、路地に面して勝手口が開いた家があり、奥さんがもつ煮をどっさりつくっていた。勝手口わきにカウンター状の板がとりつけられ、路地の椅子に腰掛ければ、だれでも食べられる。四、五人で満席。酒は販売できないから、客が自分で近くの酒屋に行って買ってくる仕組み。それを教えられた瞬間、あ、この町は一軒の家のなかと同じだ、と思った。置き忘れた夏帽子の記憶が戻ってきた。
水まわり
幼いころに地下への道をみつけて入っていった先に洞穴のような部屋があり、ひとりの男が便器に腰かけて動かない。眠るときもその姿勢で、ほかに家具ひとつない。便器の底にはさらに深い穴が続く。グレアム・グリーンの短篇「庭の下」だが、この幻想は何に由来しているのだろう。
本の居場所
本は眠る機能を含む個室と一体となったとき、突然変異する。家のあちこちに出入りするよりは集結して、開かれた図書館とはちがう、本自体の家を勝手につくりはじめる。いいかえれば本を通して個室というものが、そのとき見えた。
書棚拝見
専門の翻訳・研究以外の関心も幅広く、それがそのまま書棚にあらわれているが、自分が生涯に読める本はおおよそこの書棚の量、と決め、新しく増えていくぶんだけ不要の本をあえて選んで処分する。本と住んでいくうえでの知恵をそんなふうに話すのを聞くと、資料が際限なく増えることに甘んじない、彼女らしい研究現場の判断力に応えての書棚の形がぴったりだった。
書庫通い
ほとんど無窓の、あくまでも書庫である。自分の部屋からベランダを伝ってそこに行くだけの距離があり、そのわずかな遠さが私を職業的もの書きの気分から開放してくれる。そして所蔵する本の全体をはじめて見渡すことで、場あたり的な収集欲とは反対の感情が少しは目覚めてきた。
応接室
当時の応接室は応接の機能に応えぬことで、それまでの日本の住まいになかった消費財の流入装置としての役割をはたしたのである。新しさの享受は、どの家庭にも特権的な気分を与えると同時に、それが「十の八九を占」めていたとなれば、消費における均一性の壮大さを思わずにいられない。それは郊外から電車で向かう都会の映画館街や野球場、遊園地や百貨店の空間の広がりに続いていたのである。
デッキチェア
客にたいしてはソファに座って話をしても、家族または家族同様の間柄ともなればソファからずり落ち、ソファの座を背として床に尻をつけて話し合い飲みはじめる。イス坐からユカ坐へのずるずるべったり的移行は、多くの生活行動調査で観察されている。そもそも、家のなかでも欧米風に靴のまま、が流行った時代など日本の庶民にはついぞなかったのだ。
家族の空間
後年、姉が話してくれたことだが、集団疎開と戦後に続く同居生活のあいだに、私の神経症というか病いの徴候が著しく、母の心痛の種だったという。家族だけの生活になってからぴたりと治った、と。それを知らされたとき、あのときの粗末な壁紙の明るさにはじめて納得がいったのだった。
集合住宅ビフォーアフター
頑丈な構造体(ストラクチュア)と増改築可能な住戸(インフィル)とをはっきり分けて将来に備える集合住宅構想もこれまでさまざまな方式で検討されてきているが、「求道学舎」変奏曲は保守即新生の希望を見せてくれた。同潤会アパートメント群は、その機会をもてずにあわただしく消えていった。
電線のゆくえ
アメリカの建築家が著した住宅の本では、それぞれの部屋をどう快適に設計し、全体をどう合理的に構成するかという以上に、その住宅に何がどういう経路で入り込み、また出ていくかをとくに強調していた。家族や客を迎え入れるより迷惑な人間を阻む手段を、友の手紙や贈りものを受けとるよりゴミややっかいものを締め出す方策を、装置によってではなく建築的に解決せよと、説いている。学生の住宅設計課題を見ると、個室あり、家族団欒の部屋もしあわせそう、ご近所との交流の場も用意していいことづくめだが、じっさいの自分の住まい観察となれば、電線のゆくえを追い、孔に注目する。
ガラスと壁
日本の住宅にガラスの開口部が入ってきて以来、引き戸主流のなかでのさまざまな工夫は決定的な形には到達していない。前にふれたスクリーン化の試みとは別に、壁にうがかれた窓の魅力を新しい手法で引き出すような設計も、最近はめだってきている。だが窓をつくるためには、まず壁をつくらなければならない。日本の住まいには、まだ壁もない。
全面引き戸
完全に開けられた開口部が外の庭と一体になるには、たたまれた建具が端に残っているのは目障りと思うのは当然で、すべてを壁のなかに収めてしまう工夫が必要になる。子どもが手伝える戸袋の収納どころではない。複雑な格納庫みたいになることもある。そのような家では、住まい手のご主人が「ほら、ぼくでもこんなに楽にしまうことができますよ」と逐一実演してくれたりする。引き戸は、用のないときの収納が設計の要点でもある。
「ぼくたちはここに住めません」
街の規模なのだが、まるごと住む場所である。そこから出かけ、そこに帰ってくる街であり、通り抜ける場所ではない。通り抜けようとすると背の荷物が重くなってくる。それまでにない環境をつくりだすための試行が長い年月をかけてようやく成熟してきた美しい風景のなかに、よそ者を迎え入れられない寂寥がどの団地にも滲んでいる。
畳に靴
かつては(少なくとも戦前、あるいは私―植田実―の知るかぎり)日本の家ではスリッパなしがあたりまえで、靴下のまま、いや素足のままで過ごしていた。寒ければ足袋。便所だけにはそれ用の履き物があり、玄関わきに洋風応接室をもつ家は、そのドアの前にスリッパをそろえていたかもしれない。汎用のスリッパはなかったのである。日本の住まいにいまも全国的に共通する基本的特性は、上下足の区別、とよくいわれる。じっさい、屋内では下足は排除され、上足はもともとない。スリッパは靴の簡略化ではなく、素足の補完である。
四面カウンター
現代の台所がどれほど大きなガラスの開口部に面していようと、また食堂と一体的に開かれていようと、キッチンカウンターや設備機器はエンジンのように完結し閉じている。ガスや電気や水道という確実で安全な火と水を手にしてしまった以上、調理することに関わる想像力のレパートリーのいくつかが消え失せるのは不可避である。屋外デッキにミニキッチンを据えたり、庭にバーベキューの炉をつくったりしても、消えたものは回復できない。戦後初期に設計された日本の住宅には、煉炭や薪、井戸しかないために半屋外の、しかし合理性を追求した台所の例がある。いまの人にはその新しさを見分けられないだろうが、それでもこの南フランスの家より半世紀以上は新しい。
食べる光景
台所と食卓の距離がなくなってはっきりしたのは、むしろ食べる光景の退化である。電車のなかなど何かを口に押し込んでいる人を見ると、すでに台所も食卓も、食器さえないわけで、それだけ食事が手軽になったと思う以上に、その目つきが百年も前の人みたいでもある。家のなかにもその百年前がもちこまれているかもしれない。
サービス動線
店内全体に広がるコの字形のカウンターで、内側にいつも人が調理やおでんの鍋や酒の燗に関わっているばあいはなぜか魔の空白時間帯(店の人の行き来がとだえ、向かいの客を意識してしまう)がない。そんなことも考えているうちに、例の後ろから肩ごしのサービスは、それだけ見るともともとは正餐に通じる王道であることに、いま思いいたった。
帰りつく寝室
外音の遮蔽、自然通気の確保、くわえて光、気温、湿度のコントロールもできるかぎり建築的解決をはかる。それは眠りという行為のさなかでは室内気候を操作する手がないことを前提とした解決でなければならず、ホテルの個室にみられるような単純強引な機械的解決をも同時回避しなければならない。(そして)寝室のよい事例に出会うことは少ない。
DENの役割
主婦は家にいても華やかに着飾り、挑発して、夫が他の女性に惹かれないように腐心する。スリーピング・クォーターといっても夫婦の交わりが中心であることは歴然としていて、夫人が生理のあいだは、夫は寝室から追い出される。その行く先がDENのなのだという。だから、何よりもまずベッドがこの小部屋には不可欠で、それが男のひとり遊びの隠れ部屋に使われるとしても付加的要素にすぎない。こんな寝室論を語った建築家は私の知るかぎりでは彼ひとりである。そもそもあの特異な時代に、アメリカ人の住生活に正面衝突するような体験をした建築家はほかにいないかもしれない。そのときに彼なりに把握した住宅の基本から少しずつ逸れて、その後の日本の住宅設計が展開していくのを、彼は黙ってずっと見ていた。
「五一C」
五十年以上も前に、日本人の新生活のモデルとして、それぞれ六畳足らずの寝室を南北に配して壁で分断した。その狭さ、しかも当時の空調設備の貧しさを考えれば非現実的とも異様ともいえる提案である。しかし、夫婦を核として構成するアメリカの住宅の基本形を考えれば、もっとも正統的なモデルともいえるのだ。
ハンモック
アマゾンのハンモックのことは、この連載をお願いしたひとりから教えてもらったので、現状はどうなっているかわからない。屋内に間仕切りができ、床にベッド、かもしれない。そんな変容もまた調査の対象になりうるが、私たち日本人は、そもそも住まいに欠かせぬ構成要素としてのハンモックに縁がない。寝室という抽象的平準的な部屋を用意すれば事足りる。東京には枕の専門店だってあるにちがいない。
ウォークイン・クロゼット
自分のスタイルを意識することは、モノを買う衝動が和らげられる時間をつくりだし、それは何世代にもわたる時間に引き継がれる。白い鉄骨造の家にあったのは、モノの強さとそれに連動する収納の明確さである。モノとの決着は、捨てる決断が肝要とよくいわれる。しかし捨てる意識があるかぎり、モノを気ままに買うことを許してもいる。
収納階
ふつうは収納充実させるほどに大きく厚い壁や間仕切りとなって、部屋部屋を分断しかねない。地下室や屋根裏に集中させれば、モノはいかにもしまわれた存在になってしまう。このお宅では収納に思いきった面積をとり、機能的な動線上に置いたことでうまくいったというより、モノを人並みに扱うことでモノのあり方を変えている。モノの立居振舞が見えるようで。
雨漏り
日本の戦後から現在にいたる住宅設計は、家族をどう平面形に反映させるかがメインテーマだったが、モノだけが人間から離れて住む家には、平面計画以上にモノとしての建築の潜在能力(自然素材や自然換気からはじまって)が参照されるべきだろう。モノだって放置されれば死ぬ。
薪ストーブ
掃除のためにブラシを先端にとりつけて煙突のなかに押しこむ鉄のケーブルがいまのところ見つからないので、ブラシにつないだ針金を煙突の先のほうから入れて引っ張り、煤を手元に出して受けるという逆のやり方でしのいでいる。ともあれ、煙突は回復した。これも彼につくってもらった木の下地にブリキ張りの台を部屋のまんなかに置き、さらにその上に平瓦を敷いてストーブを据え、煙突につなげた。あとは日々薪を割ればいい。舵を振るう自分は少し依怙地な絵になっているのかもしれない。
住むことの病い
家は新しくなったが、室内に受け継がれている生活の慣習と階層性が変わらない。それは労働者の帰る場がなくなり、住むことの病いだけがある姿でもあった。
バルコニーなしの間取り図
標準設計。というと、かつての日本住宅公団の住戸設計にすぐ結びつけて考えてしまう。寸法や構成部材の統一は、押入れの棚を支える棧の数や位置までも指定していたらしいが、つくってもつくっても目標に追いつかない当時の住宅不足のなかでは、全国にわたる設計の規格化すなわち効率化は欠かせなかっただろう。だいいち、標準設計とは住居の水準を守る手だてでもあった。
戦後初期から、日本では新しい時代の住宅の提唱がめだった。建築家の設計する実例は、その具体的イメージのよりどころとなる。たとえば最小限に切りつめた住宅である。当の設計者が「最小限」、と堂々と「作品名」をつけた例も少なくない。ならば最小限の住宅は社会への告知を自負していた。日本では、と先に書いたが、戦後初期住宅史に残るこうした建築家の仕事は東京、いやほとんど二十三区内、さらにいえば三、四区での出来事である。時代を告知する建築なのだから、これで問題はない。しかし気になるのは、関西圏にはこうした住宅設計の流れがメディアから見えにくいことである。最小限住宅登場、といったあらわれもない。だからきっと現実の住まいが隠されたままの住宅史なのである。
ちいさいおうち
最近の「小さな」の特集のいくつかを見るかぎりでは、隠れ家の快適さといった程度の穏やかな事例の紹介であり論であるが、それをおしすすめれば既存の住宅の分解や変形にいたる。定住や階層が解体され、貧困、抑圧、逃避があ住むことに直結される。戦時戦後では、都市のふつうは考えもつかない隙間に潜む生態までが見えていた。部屋をいくつも加算しただけならば、大邸宅を独自の建築類型として定義できない。標準的な住宅とちがう点があるとしたら、街の一画としてのまとまりのある佇まいである。かつては都内の屋敷街でも、塀と庭と家の美しさが造形されていた。その幻影を海外や阪神間、東京圏の高級住宅地にあらためて探したのだったが、現在、住宅設計とは対象が小さいほど素敵、というごく狭い領域に意識が向いている。
蚊帳ハウス
幼いころの娘が近所の女の子たちとこの広間で遊ぶときなどに蚊帳などを吊った。子どもは暑いからと文句は言わないが、虫に刺されるのはいやがる。いっぷう変わった自分たちだけの場所を楽しむのは季節に関係ない。(蚊帳のことを「即席ルーム」と表現したことに)ルームと書いたけれど、蚊帳には屋根があるから、ハウスというべきかもしれない。家のなかの家。落ち着くはずだ。日本の生活空間のなかでは仮説的なものほど異世界を現出できる。蚊帳という就寝前の、また起床後の一瞬の異世界を介して、子どもは家族とともにいた。その時代は去った。すでに使わなくなっていた蚊帳をもらい集めたのは、数十年も前のことである。
炬燵住宅
私には、炬燵に足を入れたまま眠れるように整えられた寝具ははじめての体験だった。興奮と深い眠りを誘い込んだ炬燵の大きさといったら、後にも先にもない。
江戸の衣食住
住まいが「衣」や「食」と同じ臨場感を帯びるのは、外からの脅威につねにあらわになっている家、あるいは逆に物語の主体が攻撃する対象としての家であるときで、そこでは建築的構造が精彩を放ち、立体化してくる。これは『鬼平犯科帳』よりも登場人物のシチュエーションからして『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』に顕著で、また明暗に読者を誘う。
幕末の絵日記
忍藩の城下は、現埼玉県行田市である。石城の居宅から一〇〇メートルそこらぐらいの範囲に友人宅や寺があり、いちばん遠くでも一キロ先の町外れに位置する寺を訪ねる程度だから(堀や二之丸、三ノ丸を構えた肝心の城はもっと近い!)、全員が家族のような距離のなかにいるといっていい。しかも訪ね合うときは玄関ではなく、庭を通り、座敷の濡れ縁から勝手に入る、みたいな間柄だ。だから濡れ縁に腰掛けたまま酒宴に加わる者もいるし、柱に寄りかかって話し合ったり、おたがいに寝ころんで本を読んでいたり、みんなの見ている前で素裸になって風呂場に行く和尚の姿があったり。犬や猫まで一緒に座敷にいる。
部屋着
買いものかごを下げて小走りに門内に入ってくる姿を、中学生のときだったか人から借りたカメラで撮ったことがある。その写真を見た母は小さく叫んだ。「わたしって毎日こんな格好で、こんな顔でいるんだ!」
回転式
住宅は基本的に、どこかに動くものをつくらないと住宅にならない。玄関ドアを開けなければ家に入れない。閉めなければ物騒だ。窓も開け閉めできないと息が詰まるし、私的領域が守れない。道具や家具にも、動きや方向転換が必要とされるものが多くある。可動性は、本来は不動である住宅を補完する機能だが、それを強調し、住宅の姿を一変させようとする考えもある。かつてのデ・スティル派の建築家の試みでそこに近づいている事例がある。それをさらに劇的におこなおうとするときに回転が使われるのかもしれない。
隠し部屋
隠す工夫とそれを発見する知恵の攻防は、「盗まれた手紙」をはじめポオの作品にすべて収まる枠のなかでの出来事かもしれない。探偵デュパンの明察ぶりはわかっているが、この短篇を読み返してあらためて驚いたのはパリ警察総監が目的物をむなしく探す、その執拗な描写である。あらゆる本を開き、あらゆる家具の継ぎ目を顕微鏡で調べ、夜具や絨毯を残らず長い針で突き刺してまわる.......建築は別なものに変容する。
門構え
住宅地がごく自然に統一された美しさを生み出していたのは、だれもクルマを持っていなかった時代までである。玄関のドアに人の気配があると、ばあいによっては「裏にまわってください」と勝手口を教える言い方があったが、いまはその裏がない家ばかり。御用聞きの声も絶えた。裏口とは言うが、表口とはあまり言わない。裏窓にたいする表窓、裏町にたいする表町はない。表通りは裏通りの陰影に負ける。格式性より生活感のほうに言葉だけは潤沢に流れている。であれば、これは皮肉なんかではなく本気で思うのだが、むしろ裏返しの家並みを徹底して積極的に計画すれば、おもいがけない魅力のある街ができるのではないか。
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その「多角的な全体像」のなかから現在の住宅について
すまい手・つくり手・街のこと
など
感じた部分をメモしておきたいとおもいます
◇◇◇◇◇
仮名の家
身に着けるものにも、同様な事態が起こっている。ブルゾンをジャンパーといえば若者たちには笑われるし、スーパーで肌着売り場を探すとインナー売り場に変わっているのは、流通上の戦略の結果だろう。
ピロティ
どこか釈然としないのは、頭では地面が開放されたと思いながら、床の下をくぐる気分に近いことと関係があるようだ。空の下でなければ、そこは開かれない。ピロティが現代のスタイルであるのは、地面の開放というより、その場所から離れてどこにでも歩いていける脚の表現によるのだろう。
ロッカーの部屋
公営公団住宅で椅子とテーブルをとりいれたダイニングキッチンが登場したころに、この家(ロッカーの部屋のある家)はできた。一般家庭の居間にソファが入ってくるのは、さらに後のことである。それがただユカ座からイス座への形式的な移行にすぎなかったことは、現在でもユカとイスのあいだにとりとめなく身体を移ろわせている自分を考えればよくわかる。
路地の椅子
東京の、やはり真夏の下町で、路地に面して勝手口が開いた家があり、奥さんがもつ煮をどっさりつくっていた。勝手口わきにカウンター状の板がとりつけられ、路地の椅子に腰掛ければ、だれでも食べられる。四、五人で満席。酒は販売できないから、客が自分で近くの酒屋に行って買ってくる仕組み。それを教えられた瞬間、あ、この町は一軒の家のなかと同じだ、と思った。置き忘れた夏帽子の記憶が戻ってきた。
水まわり
幼いころに地下への道をみつけて入っていった先に洞穴のような部屋があり、ひとりの男が便器に腰かけて動かない。眠るときもその姿勢で、ほかに家具ひとつない。便器の底にはさらに深い穴が続く。グレアム・グリーンの短篇「庭の下」だが、この幻想は何に由来しているのだろう。
本の居場所
本は眠る機能を含む個室と一体となったとき、突然変異する。家のあちこちに出入りするよりは集結して、開かれた図書館とはちがう、本自体の家を勝手につくりはじめる。いいかえれば本を通して個室というものが、そのとき見えた。
書棚拝見
専門の翻訳・研究以外の関心も幅広く、それがそのまま書棚にあらわれているが、自分が生涯に読める本はおおよそこの書棚の量、と決め、新しく増えていくぶんだけ不要の本をあえて選んで処分する。本と住んでいくうえでの知恵をそんなふうに話すのを聞くと、資料が際限なく増えることに甘んじない、彼女らしい研究現場の判断力に応えての書棚の形がぴったりだった。
書庫通い
ほとんど無窓の、あくまでも書庫である。自分の部屋からベランダを伝ってそこに行くだけの距離があり、そのわずかな遠さが私を職業的もの書きの気分から開放してくれる。そして所蔵する本の全体をはじめて見渡すことで、場あたり的な収集欲とは反対の感情が少しは目覚めてきた。
応接室
当時の応接室は応接の機能に応えぬことで、それまでの日本の住まいになかった消費財の流入装置としての役割をはたしたのである。新しさの享受は、どの家庭にも特権的な気分を与えると同時に、それが「十の八九を占」めていたとなれば、消費における均一性の壮大さを思わずにいられない。それは郊外から電車で向かう都会の映画館街や野球場、遊園地や百貨店の空間の広がりに続いていたのである。
デッキチェア
客にたいしてはソファに座って話をしても、家族または家族同様の間柄ともなればソファからずり落ち、ソファの座を背として床に尻をつけて話し合い飲みはじめる。イス坐からユカ坐へのずるずるべったり的移行は、多くの生活行動調査で観察されている。そもそも、家のなかでも欧米風に靴のまま、が流行った時代など日本の庶民にはついぞなかったのだ。
家族の空間
後年、姉が話してくれたことだが、集団疎開と戦後に続く同居生活のあいだに、私の神経症というか病いの徴候が著しく、母の心痛の種だったという。家族だけの生活になってからぴたりと治った、と。それを知らされたとき、あのときの粗末な壁紙の明るさにはじめて納得がいったのだった。
集合住宅ビフォーアフター
頑丈な構造体(ストラクチュア)と増改築可能な住戸(インフィル)とをはっきり分けて将来に備える集合住宅構想もこれまでさまざまな方式で検討されてきているが、「求道学舎」変奏曲は保守即新生の希望を見せてくれた。同潤会アパートメント群は、その機会をもてずにあわただしく消えていった。
電線のゆくえ
アメリカの建築家が著した住宅の本では、それぞれの部屋をどう快適に設計し、全体をどう合理的に構成するかという以上に、その住宅に何がどういう経路で入り込み、また出ていくかをとくに強調していた。家族や客を迎え入れるより迷惑な人間を阻む手段を、友の手紙や贈りものを受けとるよりゴミややっかいものを締め出す方策を、装置によってではなく建築的に解決せよと、説いている。学生の住宅設計課題を見ると、個室あり、家族団欒の部屋もしあわせそう、ご近所との交流の場も用意していいことづくめだが、じっさいの自分の住まい観察となれば、電線のゆくえを追い、孔に注目する。
ガラスと壁
日本の住宅にガラスの開口部が入ってきて以来、引き戸主流のなかでのさまざまな工夫は決定的な形には到達していない。前にふれたスクリーン化の試みとは別に、壁にうがかれた窓の魅力を新しい手法で引き出すような設計も、最近はめだってきている。だが窓をつくるためには、まず壁をつくらなければならない。日本の住まいには、まだ壁もない。
全面引き戸
完全に開けられた開口部が外の庭と一体になるには、たたまれた建具が端に残っているのは目障りと思うのは当然で、すべてを壁のなかに収めてしまう工夫が必要になる。子どもが手伝える戸袋の収納どころではない。複雑な格納庫みたいになることもある。そのような家では、住まい手のご主人が「ほら、ぼくでもこんなに楽にしまうことができますよ」と逐一実演してくれたりする。引き戸は、用のないときの収納が設計の要点でもある。
「ぼくたちはここに住めません」
街の規模なのだが、まるごと住む場所である。そこから出かけ、そこに帰ってくる街であり、通り抜ける場所ではない。通り抜けようとすると背の荷物が重くなってくる。それまでにない環境をつくりだすための試行が長い年月をかけてようやく成熟してきた美しい風景のなかに、よそ者を迎え入れられない寂寥がどの団地にも滲んでいる。
畳に靴
かつては(少なくとも戦前、あるいは私―植田実―の知るかぎり)日本の家ではスリッパなしがあたりまえで、靴下のまま、いや素足のままで過ごしていた。寒ければ足袋。便所だけにはそれ用の履き物があり、玄関わきに洋風応接室をもつ家は、そのドアの前にスリッパをそろえていたかもしれない。汎用のスリッパはなかったのである。日本の住まいにいまも全国的に共通する基本的特性は、上下足の区別、とよくいわれる。じっさい、屋内では下足は排除され、上足はもともとない。スリッパは靴の簡略化ではなく、素足の補完である。
四面カウンター
現代の台所がどれほど大きなガラスの開口部に面していようと、また食堂と一体的に開かれていようと、キッチンカウンターや設備機器はエンジンのように完結し閉じている。ガスや電気や水道という確実で安全な火と水を手にしてしまった以上、調理することに関わる想像力のレパートリーのいくつかが消え失せるのは不可避である。屋外デッキにミニキッチンを据えたり、庭にバーベキューの炉をつくったりしても、消えたものは回復できない。戦後初期に設計された日本の住宅には、煉炭や薪、井戸しかないために半屋外の、しかし合理性を追求した台所の例がある。いまの人にはその新しさを見分けられないだろうが、それでもこの南フランスの家より半世紀以上は新しい。
食べる光景
台所と食卓の距離がなくなってはっきりしたのは、むしろ食べる光景の退化である。電車のなかなど何かを口に押し込んでいる人を見ると、すでに台所も食卓も、食器さえないわけで、それだけ食事が手軽になったと思う以上に、その目つきが百年も前の人みたいでもある。家のなかにもその百年前がもちこまれているかもしれない。
サービス動線
店内全体に広がるコの字形のカウンターで、内側にいつも人が調理やおでんの鍋や酒の燗に関わっているばあいはなぜか魔の空白時間帯(店の人の行き来がとだえ、向かいの客を意識してしまう)がない。そんなことも考えているうちに、例の後ろから肩ごしのサービスは、それだけ見るともともとは正餐に通じる王道であることに、いま思いいたった。
帰りつく寝室
外音の遮蔽、自然通気の確保、くわえて光、気温、湿度のコントロールもできるかぎり建築的解決をはかる。それは眠りという行為のさなかでは室内気候を操作する手がないことを前提とした解決でなければならず、ホテルの個室にみられるような単純強引な機械的解決をも同時回避しなければならない。(そして)寝室のよい事例に出会うことは少ない。
DENの役割
主婦は家にいても華やかに着飾り、挑発して、夫が他の女性に惹かれないように腐心する。スリーピング・クォーターといっても夫婦の交わりが中心であることは歴然としていて、夫人が生理のあいだは、夫は寝室から追い出される。その行く先がDENのなのだという。だから、何よりもまずベッドがこの小部屋には不可欠で、それが男のひとり遊びの隠れ部屋に使われるとしても付加的要素にすぎない。こんな寝室論を語った建築家は私の知るかぎりでは彼ひとりである。そもそもあの特異な時代に、アメリカ人の住生活に正面衝突するような体験をした建築家はほかにいないかもしれない。そのときに彼なりに把握した住宅の基本から少しずつ逸れて、その後の日本の住宅設計が展開していくのを、彼は黙ってずっと見ていた。
「五一C」
五十年以上も前に、日本人の新生活のモデルとして、それぞれ六畳足らずの寝室を南北に配して壁で分断した。その狭さ、しかも当時の空調設備の貧しさを考えれば非現実的とも異様ともいえる提案である。しかし、夫婦を核として構成するアメリカの住宅の基本形を考えれば、もっとも正統的なモデルともいえるのだ。
ハンモック
アマゾンのハンモックのことは、この連載をお願いしたひとりから教えてもらったので、現状はどうなっているかわからない。屋内に間仕切りができ、床にベッド、かもしれない。そんな変容もまた調査の対象になりうるが、私たち日本人は、そもそも住まいに欠かせぬ構成要素としてのハンモックに縁がない。寝室という抽象的平準的な部屋を用意すれば事足りる。東京には枕の専門店だってあるにちがいない。
ウォークイン・クロゼット
自分のスタイルを意識することは、モノを買う衝動が和らげられる時間をつくりだし、それは何世代にもわたる時間に引き継がれる。白い鉄骨造の家にあったのは、モノの強さとそれに連動する収納の明確さである。モノとの決着は、捨てる決断が肝要とよくいわれる。しかし捨てる意識があるかぎり、モノを気ままに買うことを許してもいる。
収納階
ふつうは収納充実させるほどに大きく厚い壁や間仕切りとなって、部屋部屋を分断しかねない。地下室や屋根裏に集中させれば、モノはいかにもしまわれた存在になってしまう。このお宅では収納に思いきった面積をとり、機能的な動線上に置いたことでうまくいったというより、モノを人並みに扱うことでモノのあり方を変えている。モノの立居振舞が見えるようで。
雨漏り
日本の戦後から現在にいたる住宅設計は、家族をどう平面形に反映させるかがメインテーマだったが、モノだけが人間から離れて住む家には、平面計画以上にモノとしての建築の潜在能力(自然素材や自然換気からはじまって)が参照されるべきだろう。モノだって放置されれば死ぬ。
薪ストーブ
掃除のためにブラシを先端にとりつけて煙突のなかに押しこむ鉄のケーブルがいまのところ見つからないので、ブラシにつないだ針金を煙突の先のほうから入れて引っ張り、煤を手元に出して受けるという逆のやり方でしのいでいる。ともあれ、煙突は回復した。これも彼につくってもらった木の下地にブリキ張りの台を部屋のまんなかに置き、さらにその上に平瓦を敷いてストーブを据え、煙突につなげた。あとは日々薪を割ればいい。舵を振るう自分は少し依怙地な絵になっているのかもしれない。
住むことの病い
家は新しくなったが、室内に受け継がれている生活の慣習と階層性が変わらない。それは労働者の帰る場がなくなり、住むことの病いだけがある姿でもあった。
バルコニーなしの間取り図
標準設計。というと、かつての日本住宅公団の住戸設計にすぐ結びつけて考えてしまう。寸法や構成部材の統一は、押入れの棚を支える棧の数や位置までも指定していたらしいが、つくってもつくっても目標に追いつかない当時の住宅不足のなかでは、全国にわたる設計の規格化すなわち効率化は欠かせなかっただろう。だいいち、標準設計とは住居の水準を守る手だてでもあった。
戦後初期から、日本では新しい時代の住宅の提唱がめだった。建築家の設計する実例は、その具体的イメージのよりどころとなる。たとえば最小限に切りつめた住宅である。当の設計者が「最小限」、と堂々と「作品名」をつけた例も少なくない。ならば最小限の住宅は社会への告知を自負していた。日本では、と先に書いたが、戦後初期住宅史に残るこうした建築家の仕事は東京、いやほとんど二十三区内、さらにいえば三、四区での出来事である。時代を告知する建築なのだから、これで問題はない。しかし気になるのは、関西圏にはこうした住宅設計の流れがメディアから見えにくいことである。最小限住宅登場、といったあらわれもない。だからきっと現実の住まいが隠されたままの住宅史なのである。
ちいさいおうち
最近の「小さな」の特集のいくつかを見るかぎりでは、隠れ家の快適さといった程度の穏やかな事例の紹介であり論であるが、それをおしすすめれば既存の住宅の分解や変形にいたる。定住や階層が解体され、貧困、抑圧、逃避があ住むことに直結される。戦時戦後では、都市のふつうは考えもつかない隙間に潜む生態までが見えていた。部屋をいくつも加算しただけならば、大邸宅を独自の建築類型として定義できない。標準的な住宅とちがう点があるとしたら、街の一画としてのまとまりのある佇まいである。かつては都内の屋敷街でも、塀と庭と家の美しさが造形されていた。その幻影を海外や阪神間、東京圏の高級住宅地にあらためて探したのだったが、現在、住宅設計とは対象が小さいほど素敵、というごく狭い領域に意識が向いている。
蚊帳ハウス
幼いころの娘が近所の女の子たちとこの広間で遊ぶときなどに蚊帳などを吊った。子どもは暑いからと文句は言わないが、虫に刺されるのはいやがる。いっぷう変わった自分たちだけの場所を楽しむのは季節に関係ない。(蚊帳のことを「即席ルーム」と表現したことに)ルームと書いたけれど、蚊帳には屋根があるから、ハウスというべきかもしれない。家のなかの家。落ち着くはずだ。日本の生活空間のなかでは仮説的なものほど異世界を現出できる。蚊帳という就寝前の、また起床後の一瞬の異世界を介して、子どもは家族とともにいた。その時代は去った。すでに使わなくなっていた蚊帳をもらい集めたのは、数十年も前のことである。
炬燵住宅
私には、炬燵に足を入れたまま眠れるように整えられた寝具ははじめての体験だった。興奮と深い眠りを誘い込んだ炬燵の大きさといったら、後にも先にもない。
江戸の衣食住
住まいが「衣」や「食」と同じ臨場感を帯びるのは、外からの脅威につねにあらわになっている家、あるいは逆に物語の主体が攻撃する対象としての家であるときで、そこでは建築的構造が精彩を放ち、立体化してくる。これは『鬼平犯科帳』よりも登場人物のシチュエーションからして『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』に顕著で、また明暗に読者を誘う。
幕末の絵日記
忍藩の城下は、現埼玉県行田市である。石城の居宅から一〇〇メートルそこらぐらいの範囲に友人宅や寺があり、いちばん遠くでも一キロ先の町外れに位置する寺を訪ねる程度だから(堀や二之丸、三ノ丸を構えた肝心の城はもっと近い!)、全員が家族のような距離のなかにいるといっていい。しかも訪ね合うときは玄関ではなく、庭を通り、座敷の濡れ縁から勝手に入る、みたいな間柄だ。だから濡れ縁に腰掛けたまま酒宴に加わる者もいるし、柱に寄りかかって話し合ったり、おたがいに寝ころんで本を読んでいたり、みんなの見ている前で素裸になって風呂場に行く和尚の姿があったり。犬や猫まで一緒に座敷にいる。
部屋着
買いものかごを下げて小走りに門内に入ってくる姿を、中学生のときだったか人から借りたカメラで撮ったことがある。その写真を見た母は小さく叫んだ。「わたしって毎日こんな格好で、こんな顔でいるんだ!」
回転式
住宅は基本的に、どこかに動くものをつくらないと住宅にならない。玄関ドアを開けなければ家に入れない。閉めなければ物騒だ。窓も開け閉めできないと息が詰まるし、私的領域が守れない。道具や家具にも、動きや方向転換が必要とされるものが多くある。可動性は、本来は不動である住宅を補完する機能だが、それを強調し、住宅の姿を一変させようとする考えもある。かつてのデ・スティル派の建築家の試みでそこに近づいている事例がある。それをさらに劇的におこなおうとするときに回転が使われるのかもしれない。
隠し部屋
隠す工夫とそれを発見する知恵の攻防は、「盗まれた手紙」をはじめポオの作品にすべて収まる枠のなかでの出来事かもしれない。探偵デュパンの明察ぶりはわかっているが、この短篇を読み返してあらためて驚いたのはパリ警察総監が目的物をむなしく探す、その執拗な描写である。あらゆる本を開き、あらゆる家具の継ぎ目を顕微鏡で調べ、夜具や絨毯を残らず長い針で突き刺してまわる.......建築は別なものに変容する。
門構え
住宅地がごく自然に統一された美しさを生み出していたのは、だれもクルマを持っていなかった時代までである。玄関のドアに人の気配があると、ばあいによっては「裏にまわってください」と勝手口を教える言い方があったが、いまはその裏がない家ばかり。御用聞きの声も絶えた。裏口とは言うが、表口とはあまり言わない。裏窓にたいする表窓、裏町にたいする表町はない。表通りは裏通りの陰影に負ける。格式性より生活感のほうに言葉だけは潤沢に流れている。であれば、これは皮肉なんかではなく本気で思うのだが、むしろ裏返しの家並みを徹底して積極的に計画すれば、おもいがけない魅力のある街ができるのではないか。
◇◇◇◇◇
(目次)
Ⅰ
仮名の家
ピロティ
ヒアシンスハウス
ロッカーの部屋
路地の椅子
物干す風景
わきにバスタブ
水まわり
本の居場所
書棚拝見
書庫通い
ブランコと鉄棒
応接室
デッキチェア
家族の空間 ※リンク先全文あり
桐仕上げ
人研ぎ
集合住宅ビフォーアフター
ありえない住宅
電線のゆくえ
Ⅱ
ガラスと壁
全面引き戸
緑の鎧戸
動物ファサード
「ぼくたちここには住めません」
畳に靴
机に靴
ドマに靴
四面カウンター
台所の位置
食べる光景
サービス動線
帰りつく寝室
DENの役割
「五一C」
ハンモック
モノの家
ウォークイン・クロゼット
収納階
雨漏り
薪ストーブ
Ⅲ
住むことの病い
「新しさ」の状況
竜の家並み
バルコニーなしの間取り図
見え隠れする家
客待ちの家
様々なる意匠
ちいさいおうち
B&B
蚊帳ハウス
炬燵住宅
「やぐらでござい」
江戸の衣食住
幕末の絵日記
部屋着
回転式
隠し部屋
門構え
私の家
あとがき
(参考)