高さ15メートルの津波、大量の放射性物質漏出、全電源喪失......。
すべての危機は警告され、握り潰された。
『原発報道の雄・東京新聞』
が
連載「レベル7(六部計三十五回)」において、事故発生当時から独自に「徹底取材・記録」されたものに、その後の当事者への「インタビュー」や2011年末に公表された「政府事故調査・検証委員会の中間報告」から新たにわかったこと(事実)の多くを加筆・修正し「単行本」として纏められたものです
その「徹底取材」は
2011年3月11日午後2時46分から
が
連載「レベル7(六部計三十五回)」において、事故発生当時から独自に「徹底取材・記録」されたものに、その後の当事者への「インタビュー」や2011年末に公表された「政府事故調査・検証委員会の中間報告」から新たにわかったこと(事実)の多くを加筆・修正し「単行本」として纏められたものです
その「徹底取材」は
2011年3月11日午後2時46分から
いまもなお続けられています
本書に書かれた「取材」について、東京新聞原発取材班総括デスク 加古陽治氏は「少し長いあとがき」でこう記しています。『あらゆる議論の前提となる正しい情報を伝えることだった。何が起きたのか分からなければ是非を判断しようがない。』と。また、この本に登場する人物はすべて「実名」で記され、その「アラスジ」はこうです
本書に書かれた「取材」について、東京新聞原発取材班総括デスク 加古陽治氏は「少し長いあとがき」でこう記しています。『あらゆる議論の前提となる正しい情報を伝えることだった。何が起きたのか分からなければ是非を判断しようがない。』と。また、この本に登場する人物はすべて「実名」で記され、その「アラスジ」はこうです
三月十一日以降の最初の一週間(連載当時、事故から二ヶ月)という時期であったため、取材対象の当事者のなかには協力を得られない人も少なくなかった。しかし、そのなかからも最も事実に近い一週間を描けた(第一部)。また、炉心の冷却がある程度できるようになった段階で、事故を収束させるための最大の関門は汚染水の処理であった。それはこの本(レベル7)の「あとがき」を書いている2012年2月の段階でも続いている(第二部)。そして、政府や東京電力が主張する「想定外」が実際にはそうではなかったということを明らかにしている。政府も東電も重大な事故を想定する機会があったにもかかわらず逃し続け、「自然災害」ですべての電源を喪うリスクへの備えを怠った。「核」や「自然」というものに対して人知によってすべてコントロールできる、そういったものへの「思い込み」に私たち人間の「驕り」があったのかもしれない(第三部)。ただ「国策」として進められた原子力関連施設立地の裏側では「地元工作」という、徹底した議論の代わりに原発誘致地元市民を「温泉付き旅行」に誘い出したり、「やらせシンポジウム」の開催など到底「日本国民主主義」の在り方とはほど遠い「やりかた」で進められていった(第四部)。そして原発導入にあたって、「安全神話」というものがつくられた。それは「安全神話」というにはあまりにも「原子力発電」というものへの「安全性」が軽んじられすぎていた(第五部)。そして、様々なカタチで「原発施設」にまつまる「トラブル」や「事故」が発生してゆく。炉心溶融を起こした米国のスリーマイル島原発や大学実験炉の放射能漏れにより存続し続けることへの断念(いわゆる「廃炉」)せざる得ないという状況。しかし、地球上に存在しない物質への対策・対応は「地下に埋める」以外ないことなど、ほぼ「人間の手に負えない」状態が続いてゆく。日本政府は2011年12月、福島第一原発事故の「収束宣言」をした。しかし、「原発事故」は「廃炉」ができたうえで初めて「収束」したといえるのである。福島第一原発の「廃炉」は、世界に衝撃を与えたスリーマイル島原発事故と比較にならないほど困難で長い道のりなのである。
全366ページの大著をすべて網羅することは難しい。東京新聞原発事故調査班(2012年から「原発取材班」へ改称)が『(福島原発事故の)正しい情報』として書かれた本書の(衝撃的な事実が書かれた)文を最後に抜粋し、未来への原子力を考えるための「道標」としておきたいとおもいます。
◇◇◇◇◇
(第一部『福島原発の一週間』より)
「大きいな」「見たことねえ」。避難してきた作業員が口々に話す。高さ三十メートルの大津波。1~4号機は最大で深さ五・五メートルも水没し、5,6号機あたりでは車がプカプカと浮いている。(中略)原発で働いて四十年になる。八年ほど前、東電社員との懇親会で「五メートル以上の津波が来たらどうするのか」と尋ねたことがある。「そんな津波は来ません」と言われたが、まさにその津波で、家々がやられていた。(中略)地震から五十分後、津波の第二波が防波堤を越えて、福島第一原発の敷地をのみ込む。東電は事故に備えて1999年までに、(原子炉)一基に二台の非常用ディーゼル発電機を配備している。ところが、大半は原子炉建屋に隣接するタービン建屋の地下にあり、運転中の1~3号機では六台のうち地下にあった五台が水没してしまう。2号機の一台は地上にあったが、電気を供給する電源盤が水没し、結局六台とも機能を失う。全交流電源喪失(ステーション・ブラックアウト=SBO)と呼ぶ深刻な事態である。(中略)(驚いたことに)深刻な事故が起きた時のためのマニュアルも開き、必要な操作の手順を確認する。この非常時のためのマニュアルも津波によるSBOを想定していない。そもそもマニュアルは中央制御室で原子炉の状況を把握できることが前提だった。運転中の原発三基が同時にSBOとなるのは世界でも例がないことである。地震からわずか二時間。事態は最悪へと向かいはじめる。(中略)原子力災害対策特別措置法は、「迅速な初期動作の確保」を目的とする。十五条通報や宣言案の提出を受けたら、首相は「直ちに」原子力緊急事態を宣言し、「緊急事態応急対策を実施すべき区域」を指定したり、その区域のある市町村長や都道府県知事に避難のための立ち退きや屋内退避の勧告などを行うよう指示したりしなくてはならない。それは法律に定められた義務だったが、宣言は午後七時三分にずれ込む。最初の十五条通報(「原子炉の水位が確認できない」という連絡)から二時間十八分がたっていた。(中略)原発は、原子炉から出る熱い蒸気で羽根車を回して発電する。羽根車を回した後の蒸気は配管越しに海水に触れさせて冷やし、再び原子炉に戻す。福島第一原発の原子炉建屋やタービン建屋は海から取水しやすいよう、高さ三十五メートルの台地を(わざわざ)二十五メートルも削り、海側に建設されていた。(中略)午後九時二十三分、菅(直人)は法令に基づいて三キロ圏内の住民に避難を、三~十キロ圏内の住民に屋内退避を指示する。避難対象は大熊、双葉両町の五千八百六十二人。枝野は午後十時前からの記者会見で「原子炉の一つが冷却できない状況に入っております」と認めた上で、放射能漏れはなく「念のため」の避難指示だと説明する。炉心溶融の危機を伝える東電からの報告は、伏せられた。(中略)(原子炉を覆う格納容器の)破裂を防ぐ決め手は、放射性物質を含んだ格納容器内の蒸気を大気中に逃すベント(排気)しかない。電源が生きていれば、中央制御室で弁を開く操作ができる。だが、電源がない中では当直長ら運転員が弁のある原子炉建屋内に入り、手作業で開けなければならない。(中略)「何のために俺(菅直人)がここに来たと思っているのか」疲れきった作業員たちが体を休めるそばで、菅は武藤を叱責する(中略)。吉田(所長)は図面を広げ、ベント弁には電気で開ける弁と、空気の圧力で開ける弁の二つがあり両方が開いて初めて排気できることや、(排気の)作業が(放射線量が高く)困難を極めていることを説明する。官邸にいては分からない話である。(中略)爆発が起きているのに、あまりにも甘すぎる評価。より安全な側に立ち厳しく評価するという思想は保安院にはなかった。(中略)「海水注入のリスクは何ですか」。日比野が問うと、川俣も久木田も「ありません」と口をそろえる。リスクはないが、今は時期ではない―。そんな回答だが、実際は炉内の状況が刻一刻と悪化し、悠長なことを言っていられる状況ではなかった。(中略)「海水を注入すれば、問題はすぐ片付くんですね。なぜやらないんだろう」日比野が疑問を呈すると、菅はポツリと言った。「要するに廃炉にしたくないんじゃないかな」(中略)「3号機は危ないですよ。プルサーマルですよ」プルサーマルとは、核燃料として新しいウラン燃料だけを使うのではなく、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX)燃料も使う発電方法である。プルサーマルでは、核分裂を抑える制御棒の効きがウラン燃料よりも悪くなるとされる。(中略)3号機の原子炉の水位計は、核燃料が水面から露出していることを意味する「マイナス」を示し続ける。炉心溶融が起きていた。(中略)原子炉の水位計は、燃料が水面からまる一日近く露出し続けていることを示していた。(中略)1号機に続く二度目(3号機)の爆発は、六十キロ余り離れた福島市の東電福島事務所に衝撃となって伝わる。(中略)午後八時前から海水の連続注入が続いていたが、原子炉を減圧してもすぐに上昇するため、十分に注水できない状況が続く。(中略)2号機で燃料棒が水面から露出したころ、免震重要棟二階の廊下では、下請け会社の作業員ら四十人余りが疲れ切って横になっていた。そこに吉田がやってきて、頭を下げる。「状況が状況なので、皆さん、このまま退避してもらってかまわないです。これまでありがとうございました」作業員らは解散となり、バスや車で福島第一原発を後にする。(中略)3号機の爆発後も、3,4号機の中央制御室では、運転員が懸命の作業を続けていた。放射線量が高いため、全面マスクで防護している。だが、当初使われていたマスクの一部は、揮発性の放射性ヨウ素を除去できないタイプのものだった。室内が汚染されていると分かっていても、生きるためには食べなくてはならない。マスクを外して非常食の乾パンを食べたり、ミネラルウォーターを飲んだりもした。こうして六人の運転員らが三〇八~六七八ミリシーベルトの被曝をする。今回の事故に限って引き上げられた被曝限度の二五〇ミリシーベルトをはるかに超える数値である。うち二人は、外部被曝よりさらに危険だとされる内部(体内)被曝が五〇〇ミリシーベルト超に達していた。(中略)(菅直人首相の)退任直後のインタビューで、菅はこの時の強い危機感を語っている。「福島第一原発には六個の原子炉と十個の使用済み燃料プールがある。二十キロ圏の第二原発まで含めると十個の原発と十一個のプール。これを全部立ち入り禁止区域にして一般の人みたいに逃げたら、どんどんどんどんメルトダウンしていく。撤退なんてことはあり得ないんだ。撤退してたら、今ごろここ(東京)に人っ子一人もいなくなってたかもしれないよ」(中略)「このままでは東日本全体がおかしくなる。決死隊をつくるしかない」補佐官らを前に、菅は重ねて言う。事故がおきた原発を放置するような国を、外国はどう見るのか。「海外から(日本を攻めに)やってくるぞ」(中略)米国の専門家たちは4号機の使用済み核燃料プールにこそ一番の危機が迫っていると考えていた。(中略)その4号機では十六日午前六時前、再び火の手が上がる。午前八時半すぎには3号機から白煙が噴出。トラブルの連鎖は止まらない。(中略)後でわかったことだが、4号機のプールには壁一つ隔てた原子炉上部に蓄えられている水が流れ込み、燃料棒の露出を防いでいた。水に浸かった燃料棒は、ほぼ無傷だった。4号機の損壊や出火について、東電は3号機から水素が流入したことによる爆発と推測している。2号機では爆発はなかったとみられている。中に入れないため、放射性物質が大量に放出された経緯は判然としない。
(第二部『汚染水との闘い』より)
「『負の選択肢』だが、低濃度の汚染水を海に放出するしかありません」海洋汚染に関するロンドン条約は、放射性廃棄物の海洋投棄を禁じている。だが、条約が禁止しているのは船や飛行機からの投棄で、陸上にある施設からの放出は該当しないという抜け道があった。(中略)東電は、海に放出した汚染水を「低レベル」と発表する。東電によると、これは「高濃度汚染水と比べると低い」という意味だという。だが、実際は法令に基づく濃度限度の最大五百倍に当たる。緊急事態でなければ決して許されない濃度である。(中略)放射性物質を取り除き、再び原子炉に注水する総額五百三十一億円のシステム。基本設計は東芝と日立GEが担うものの、中核となる放射性物質除去の技術は、経験豊富な米仏の二社(アレバ:仏、キュリオン:米)に頼ることになる。(中略)セシウムは体が必要とするカリウムと似ており、放射性ヨウ素と同様に体がカリウムだと間違えて取り込んでしまう。筋肉に多く溜まり、量次第では放射性ヨウ素同様、がんなどを引き起こす恐れがある。(中略)「年間二〇ミリシーベルトの被曝を基礎に毎時三・八マイクロシーベルトと決まったが、間違いです」「この数値を乳児、幼児、小学校に求めることは、学問上の見地からも、私のヒューマニズムからも受け入れ難い」四月二十九日、国会内で記者会見した東京大教授(放射線安全学)の小佐古敏荘(六一)は涙ながらこう訴え、内閣官房参与を辞任することを表明した。年二〇ミリシーベルトもの被曝は、原発作業員でも珍しい。それなのに大人より被曝による影響を受けやすい子供にその基準を当てはめるのはおかしい―。小佐古は強く抗議し、見直しを求めた。(しかしこの危惧とは別に「森」や「米」にも放射性物質はどんどん蓄積されていった)
(第三部『想定外への分岐点』より)
マグニチュードが「1」増えると、地震のエネルギーは三十二倍になる。試算結果は、明治三陸地震が、従来考えられていた規模より四倍から十六倍の大きさだったことを示している。これほどの超巨大地震は当時、日本周辺では確認されていなかった。(中略)過去に大地震や大津波をもたらした震源に限らず、日本海溝沿いに危険があるとの指摘だった。「三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのどこかで発生する確率」は、二十年以内に一〇パーセント、三十年以内に二〇パーセントとはじいた。報告書の考えに沿えば、それまで大きな地震が観測されてない福島沖から千葉・房総沖の地震の空白域でも大地震が起き得る。島崎(東大地震予知連絡会会長)はむしろ、これまでに起きたことのない空白域の方が発生の可能性が高いと考えた。ただ、島崎によると、この報告書には事務方を務めた文部科学省の官僚が一文を書き加えていた。「データとして用いる過去地震に関する資料が十分にないこと等による限界があることから、評価結果である地震発生確率や予想される次の地震の規模数値には誤差を含んでおり、防災対策の検討など評価結果の利用にあたってはこの点に十分留意する必要がある」(中略)過去の地震、津波の被害をもとに起き得る最大の津波を想定する。その上で現在の地形などを加味して浸水する可能性がある地域をつかみ、必要な対策を取る―。手引きは自治体にこういった手順で対策を取るよう求めた。基本的に未経験の高さの津波は起きないという前提に立っていた。(中略)「あれ?こんなのあったかな」「全交流電源喪失事象検討WG報告書[通産省]」(SBOに関する報告書)福島第一原発で原子炉の冷却ができなくなる原因となったSBOに関する報告書と思われた。(中略)やはり資料は安全委員会にあった。私たちの指摘を受けて安全委員会が捜したところ、ロッカーの段ボール箱に入れられたままになっているのが見つかる。報告書は七月、私たちに開示された。原発の安全確保に極めて重要な問題を議論しながら、まったく対策に生かすことなく、実に十八年(一九九三年十月二十八日夕、東京・霞が関、原子力安全委員会の一室でおこなわれた非公式の打合せで提示されていたもの)近くロッカーに眠らせていた。(中略)致命的だったのは、米国などで自然災害による三十分を超えるSBOがあることを確認しながら、地震や津波、洪水といった「外的要因」によるSBOを検討から外したことだった。(中略)福島のような外部電源喪失と、発電機の同時故障が一緒に起きる確率はどれほどか。報告書では、外部電源が喪失する頻度は原子炉を百年間運転した一回と試算。ディーゼル発電機が二台とも故障する確率は、起動を二百五十万回試みてたったの一回だけとされている。この計算通りなら、確率はほぼ「ゼロ」に近い。実際には、日本でも外部電源の喪失や、ディーゼル発電機の起動失敗は計算以上に起きていた。指針の評価には、既に疑問符が付いていたことに為る。だが、安全規則の担い手に問題意識を持つ人はおらず、ワーキンググループ以降に見直しの動きはなかった。今回の事故では1~4号機でSBOをが起き、水素爆発などにより炉心や建屋が大きく損傷した。中央制御室に外部電源が復旧するまでにかかった時間は最短で三百七十一時間にも及ぶ。指針で、それ以上は考えなくてもいいとされていた「三十分」の七百四十二倍だった。(中略)一九八六年七月、東京・大手町経団連会館。その三ヶ月前の四月二十六日、当時のソ連で驚天動地の事故が起きた。チェルノブイリ原発事故である。日本の原発の備えは大丈夫か―。当時、東京電力・原子力技術課長だった服部拓也は、その席で安全対策の強化を呼びかけた。(会議主催の)呼びかけは、通商産業省(現経済産業省)の側の意向を受けていた。だが、各社(各電力会社で原発安全対策を担当する)の課長からは色よい返事はない。「寝た子を起こさないでくれよ」「対策を講じたら『そんな事故が起きる可能性があるのか』と言われる。地元の反発に耐えられない」反論が相次ぐ。説得は不調に終わった。(中略)事故が起きたからといって国内の規制を強化する必要はなく、むしろ日本の技術を輸出すれば事故は防げるという論法である。まさに「安全神話」だった。(中略)落としどころは、「法規制ではなく電力会社の自主的な取り組みとして、SA(シビアアクシデント:炉心溶融・放射性物質の大量放出といった深刻な事故)対策を進める」こととされた。法規制はしない。だが、対策は進める―。中間をとったような結論である。(中略)深刻な事故が起きたら機能しなくなるのに、なぜこれほど近くに(オフサイトセンターは)建てられたのか。「遠いところに行ったら、(伊方)町民は私(中元清吉・旧町長)のことをなんと思うか。町民をほったらかしにして町長は逃げたと言われるでしょう」きれい事ばかりでない事情もある。「財政力の貧弱な町だから、国が面積割で負担したくれたら、町も助かるじゃないかという考えも持ちはしました(同・旧町長)」(中略)オフサイトセンターを近くに置くよう求めたのは、伊方町に限らず、多くは「地元の事情」だった。首長たちが地元の市町村内での建設を望んだ。(中略)オフサイトセンターには、住民の避難を支援する役目もある。今回(福島第一原発事故)はその面でも機能しなかった。
(第四部『「国策」推進の陰で』より)
「トイレのないマンション」。原発はしばしば、そう揶揄される。発電で出た核のゴミを処分する場所が決まっていないからだ。(中略)自治体の立候補を促す「アメ」は破格の交付金である。処分地は候補地の中から「文献調査」「概要調査」「精密調査」の三段階を経て決定される。処分場の完成までに三十年かかり、稼働期間を含めると百年以上に及ぶ。このうち、ボーリングなどの実地の調査を伴わない文献調査に応じるだけで、地元自治体には年に最高十億円の交付金が落ちる。(中略)「日本にはエネルギー資源がないという危機感が国民にはないのではないか。核燃料サイクル政策を国民が理解していないというのは、国の広報活動のやり方が足らないのではないか」(など原子力委員会の委員をまえに集まった「住民代表」が次々と国の尻をたたく言葉を放つ。しかし、この地元住民代表を集めて行う「語る会」は原子力委員会により用意周到に準備された「公聴会」だった)。(中略)使い勝手の良い金が必要な地元と、地元の機嫌を損ねるわけにいかない電力会社。その利害関係が一致し、時には匿名の形で寄付(「新幹線整備費(九州)」とか「漁業振興費(泊)」とか「市町村合併に伴う篤志(島根)」など(という名称での「匿名」寄付)が行われていた。
(第五部『安全神話の源流』より)
「将来日本工業のエネルギー源の絶対量を原子力によって増やさねばならない」「それは相当遠い将来になるかも知れないが、今日から出発しなければ、世界の大勢におくれる」(中略)一九五二年十月二十三日。原子力委員会の設置を政府に申し入れるべきかどうか検討するため、学術会議に臨時委員会を創設するよう提案する。いわゆる「茅(誠司)・伏見(康治)提案」である。(中略)軍事転用を恐れ、前に進めない学者たち。それを尻目に政界が動く。中心は改進党の衆院議員で「青年将校」と言われた中曽根康弘だった。(中略)五三年十二月八日、米大統領ドワイト・アイゼンハワーが国連総会演説で、核兵器の平和利用を世界にアピールする。(中略)軍事機密のベールに包まれていた原子力の技術が提供される―。その情報を知った中曽根は「日本でも急いでやらなくてはならない、一年遅れたら十年発展が遅れる」(「原子力回想」)と思った。(中略)国会で表に立ったのは衆院予算委員会理事の中曽根だった。首相吉田茂率いる少数与党の自由党と交渉し、初の原子力予算を自由、日本自由(鳩山自由)、改進の三党で共同提案。「科学技術振興費」三億円の中に、原子炉築造費二億三千五百万円、ウラン探査費千五百万円、国会図書館原子力資料費一千万円が含まれていた。中でもいきなり原子炉築造費が入っていることに学術会議側は仰天し、騒然となった。(中略)原子力問題を話し合う委員会の委員長だった東京教育大教授の藤岡由夫は、翌月の総会で当日の様子を報告した。藤岡は改進党側に、学術会議の議論がでるまで「待って欲しい」と申し入れた。「しかしながら、それは遂に取上げられませんでした」。藤岡は中曽根らにこう言われたという。「野党は予算をつくる機能を持たないから、学術会議に正式に諮問することはできない。だから、ああいうふうな突発的なことをしなければならない。しかし、ひそかにいろいろの学者の意見をよく聞いてあるのだ」(中略)予算案は、三月四日に衆院を通過する。「原子炉築造費」が「原子力平和利用研究費補助金」と名前を変えただけで、四月三日に自然成立した。(中略)初の原子力予算が成立すると、政府は副総理の緒方竹虎を会長とする原子力利用準備調査会を発足させ、原子力予算をどう使うか検討を始める。メンバーはほかに、経団連の石川一郎、茅誠司、藤岡由夫ら。調査会は五四年六月末、以下の基本方針を決めた。(その基本方針とは)1.わが国将来のエネルギー供給及びその他原子力の平和的な利用を行うものとする。2.前項の目的に資するため、小型実験用原子炉を築造することを目標として、これに関連する調査研究及び技術の確立等を行うものとする。3.この外特に放射能の危害防止についても調査研究を推進するものとする。(中略)米国からの原子炉導入に前のめりになっていく政府側。これに対して、警鐘を鳴らす意見もなかったわけではない。(中略)一九五五年八月八日。スイス・ジュネーブで国連主催の「第一回原子力平和利用国際会議」が開催される。日本からも政府代表団が派遣(藤岡由夫、駒形作次、石川一郎、日本民主党の中曽根康弘、自由党・前田正男、左派社会党・志村茂治、右派社会党・松前重義ら)された。(日本)国から支給された渡航費は一万円。議員運営委員会では「そんなわけの分からん会議に国会代表を送るのは、日本の恥辱だ」とまで言われたという。一万円ではまったく足りず、松前が「電気通信の関係で顔がきく」東京電力に頼んで四百万円を用立ててもらい、四人(中曽根・前田・志村・松前)で分けた。(中略)四人は間もなく、原子力関係の法案づくりに取りかかる。「原子力の憲法」となる「原子力基本法」の担当は松前だった。(中略)基本法には当初(一九五五年十二月十六日)、安全ついての言及がなかった。第二条の基本方針に「安全の確保を旨として」と加えられるのは十三年後、原子力船「むつ」の放射能漏れを契機に原子力安全委員会が創設された一九七八年の改正を待たねばならない。(中略)「原子炉の安全性(五五年ジュネーブ会議):米原子力委員会論文」坂田昌一が一部引用している。「原子炉の運転は安全なように見えるが、実は見かけ上の安全なのである。原子炉は、計画や運転のひどい過失が数多くされない限り暴走することはない。しかし、このような過失が突発的に発生することなく長期間にわたって広汎な運転を行うことは不可能である。現在までに原子炉の暴走によって死亡した人は一人もいないといったことは幸運で合ったが、このような幸運がいつまでも続くことを当てにすることはできない」「将来ほんとうに安全な原子炉が利用できるようになるまでの間は、われわれは原子炉を極端な慎重さで建設せねばならぬし、また安全に十年間運転した後でも運転を開始したまさにその第一日目と同じ慎重さで運転を続けねばならない」「運がよくても誰もしななかったとしても、大きな都市から立ち退き、または主要流域地方を見捨てねばならぬことになるかも知れないし、あるいは原子炉の敷地自身も以後何年かは立入禁止地域にせねばならぬようになるおそれは充分にある」福島第一原発の事故にもつながる警鐘が、既に鳴らされていた。(中略)原子力委員会が発足した。初代委員長は、前年に衆院議員に初当選した読売新聞社主正力松太郎。委員はノーベル賞学者の湯川秀樹、経団連会長の石川一郎、マルクス主義経済学者として知られる東京大教授の有沢広巳、藤岡由夫という豪華メンバーだった。湯川と石川は、正力と中曽根が口説き落とした。中曽根は湯川の先にまず学術会議会長の茅誠司を説得した。(中略)正力というエンジンを得て、原子力開発に猛進する政府。気が付けば原発輸入のレールが敷かれ、科学者の影響力は消えていた。原子力委員会事務局の一員だった伊原義徳によると、正力は、関連の会議で席の並び順までチェックし、自分の思うように並べ替えるというワンマン振りだった。自らの手で、日本に原子力発電を導入したい―。そんな熱意に燃えていた。(中略)西側で当時、商業用発電に成功していたのは英国のコールダーホール原発だけだった。後に世界の主流となる米国の軽水炉は、まだ実用化されていない。英国の後、米国とカナダを視察した石川らは、軽水炉について「ただちに導入することは時期尚早」と報告し、日本の選択肢は英国型に絞られた。(中略)英国では、発電と同時に生産されるプルトニウムを国が買い上げている。国営の炭鉱会社は人件費が高いため石炭の料金も高く、火力発電のコストを押し上げている。日本は石炭の価格が安く、米国からの技術導入の結果、火力発電の効率も良い。もちろんプルトニウムの買い上げもない。だから、日本では原発が火力発電より割安になることはない―。それが田中らの結論だった。田中が代表となって結果を報告すると、正力は激怒した。「ヒントンがペイすると言ったらペイするんだ。木っ端役人は黙っとれ!」原発導入の道筋をつけたという実績を力に政界の頂点に上りつめようと望む正力にとって、導入に否定的な意見は邪魔でしかなかった。(中略)「コールダーホール型は技術的に難しくない。北朝鮮だって造れるような炉です。問題なのは軍用なので安全性など二の次だったことです。故障が少ないとか、コストが安いとか、安定運転できるとか、安全性が高いとか、いろいろポイントがあるが、コールダーホール型は条件を満たしていなかった」東海原発の設置を認可した時の原子力委員の一人、有沢広巳も石川一郎の追悼文(「原子力の父」)で、こう述懐している。「コルダー・ホール型発電所は原子力発電としては成功であったとはいいがたい」(中略)「百五十億円近い金をかけ、十年以上の歳月をかけて、しかも、できた船がいつでもでられる状態になって二年動かない」(中略)不意打ちのようにして沖合に出たむつ。出港二日後の八月二十八日には、青森県の尻屋崎から東に八百キロの試験海域で、初めての臨界を達成する。順調な滑り出し。だが、そのわずか四日後に異変が起きる。(中略)(原子力船開発事業団技術部長の)田村は観念して試験を打ち切り、船長の荒稲蔵に結果(原子炉の出力がゼロに近い水準での「放射線」漏れのこと)を報告した。臨界の時には笑顔で握手を交わした二人。今度は荒が「そうか」と答えたきり、互いに黙り込んだ。「さすがにみんながっくりとしていました」。荒は歴戦の海の強者だったが、やがて小便に血が混じるほど憔悴しきる。(中略)田村は確かに「放射線漏れ」と説明したつもりだった。だが、連絡の行き違いからか、一部新聞に放射性物質そのものが漏れたことを意味する「放射能漏れ」の見出しが踊る。実は、放射線漏れの危険は事前に指摘されていた。むつの原子炉は三菱原子力工業が設計、製造した。船舶用の原子炉は国内で初めてである。(放射線の)漏れ出す量を計算で求め、隙間をふさぐ鋼鉄製のリングを取り付けることにした。これがミスだった。「当時、国内では中性子の動きがよく知られていなかった」科技庁退官後に日本原子力研究所副理事長となり、むつ問題の後始末をした辻栄一は、こう説明する。ストリーミングは動きの遅い熱中性子が起こす現象とされ、動きの速い高速中性子には考慮する必要はない―。当時はそう考えられていた。しかし、実際に漏れたのは高速中性子だった。陸上や岸壁に係留している時点で出力を上げる試験を行えば、漏れは確認できたはずだったが、地元の強い反対の中、できるはずもなかった。(中略)時代の夢を乗せて進水したむつは、原子力船が行き交う未来を実現できなかった。それでも倉本(昌昭:科技庁審議官)は「実験は成功だった。原子力船を建造する技術が日本にあると分かった」と胸を張る。そして、もう一つの成果を口にする。「商業的に採算が合わないと確認されました」原子力船開発は止まった。国策といえども、地域に暮らす人々の意向を無視して推し進めることはできない。そのことを示す一例になった。同時に、むつは原子力をめぐる安全規制を見直すきっかけにもなる。放射線漏れの混乱が起きているのに、当時、安全審査を担っていた原子力委員会は沈黙し、あまりにも無力だった。七五年に公表された国の事故調査報告書は、原子力委員会の安全審査のお粗末さを厳しく指摘している。(中略)原子力船「むつ」の放射線漏れの際、沈黙を続けた原子力委に批判が集まったことが発端で始まった懇談会。安全への責任が不明確なこと、開発推進と安全規制との相反する任務を同じ組織が担うこと―。そうした原子力委員会の問題は、安全委員会を新設することでひとまず解消する。残るは新組織と各省庁の権限をどう分けるか、ということだった。そこで関連する省庁の官僚たちによる「縄張り争い」が始まった。(中略)省庁と安全委員会が安全を審査する「ダブルチェック」を導入するなど、有沢行政懇で安全規制は強化されたとされる。しかし、東電福島第一原発の事故では、入念に審査したはずの原子炉が大津波で全電源を喪失した結果、制御機能を失い、広く放射性物質をまき散らした。「きちんと規制するだけの行政体制が育っていなかったのではないか。核心に及ぶ規制をしていたとは、とても思えない」(元科技庁科学審議官で、懇談会の事務を担当した)沖村(憲樹)はそう話し、経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会の力不足を指摘した。「むつの(放射線漏れ)事故がなぜ起きたのか。規制の体制が、むつの炉をきちんとチェックできていなかったわけです。それを規制するためにはどういう体制が必要で、どういう規制の仕方が必要か、行政懇では議論がなかった。規制する方にもっと、原子炉を造るところから携わって、あらゆることが分かった人がいないと防げなかったんだ。ところが、その部分はそうじゃないままに現在の体制になっている」福島第一原発事故を受けて、政府は今春、安全規制権限を集中させた環境省の外局「原子力規制庁」を設ける。沖村は、その中身が大事だと言う。「規制の中身が同じで切り離したとしても、意味がない。原因を詰めて考えないと、昔と同じことになります。看板の付け替えだけではだめだ」
(第六部『X年の廃炉』より)
一九八六年の初め、米ペンシルベニア州を縦断するサスケハナ川の中洲にあるスリーマイル島原発で、モニターを見つめる作業員たちから驚きと戸惑いの声が上がる。スリーマイル島原発では七九年三月、原子炉の加熱を抑える冷却水の給水ポンプの故障に端を発し、弁の故障や水位計の誤作動、運転員が起動した非常用冷却装置を停止させるなどのミスも重なり、空焚きとなって炉心溶融が起きた。核燃料の四五パーセントに当たる六十二トンが溶け、その三分の一があの原子炉の下部に落ちて積もった。それから、七年近く。作業員たちは、廃炉に向けた作業を進めていた。(中略)スリーマイルでは炉心溶融はあったが、原子炉そのものは壊れなかった。このため原子炉の中に水を張ることができ、放射線を遮蔽するところ(水棺)までは比較的順調に進んだ。だが、福島第一原発では、原子炉の底が抜けているとみられ、その外側にある格納容器まで損傷している。この水張りをどうやって実現するか、そこには高度な技術開発が求められる。さらにスリーマイル(の事故)では一基だったが、福島第一原発では事故を起こした1~4号機の四基をすべて廃炉にしなくてはならない。「スリーマイルの事故より厳しい条件にある」「どういう技術開発をして、どうやってそれをやるか、これにかなりの時間を覚悟しなければならないんだろうなという感じはいたします」スリーマイルの調査研究団の団長だった早瀬佑一=現東電顧問=は一一年八月三日、廃炉について検討する原子力委員会の専門部会でこう話し、福島第一原発の廃炉への工程の難しさを認めた。(中略)福島第一原発の事故では、高濃度の汚染水が格納容器の外にまで漏れ出した。溶融したとはいえ、基本的には原子炉の中にとどまったスリーマイル事故とは比べものにならないくらい、作業員の被曝のリスクは高い。その分、スリーマイル以上にロボットの必要性も上がる。(中略)文科省原子力規制室によると、研究用の原子炉は全国に二十二基ある。そのうち七基が「廃炉中」だが、放射性廃棄物の処分のめどが立たず、いずれも作業が停滞している。(中略)日本には、原発の廃炉をやり遂げた経験が一度だけある。茨城県東海村にあった出力一万二千五百キロワットの動力試験炉(JPDR)である。(中略)この作業時に、多くの作業員が被曝した。「被曝線量は遠隔操作で行う解体そのものより、準備作業で増える傾向がありました」原研バックエンド技術部長だった宮坂靖彦=現原子力研究バックエンド推進センター技術顧問=は振り返る。(中略)七年計画だった手探りの廃炉。終わってみれば十年を要した。宮坂は「汚染レベルがかなり低かったこともあり、大きな事故はなかった」と廃炉作業を振り返る。だが、これは出力の小さい試験炉(一万二千五百キロワット)の話だ。廃炉の決まっている福島第一原発の1~4号機の出力は四十六万~七十八万キロワット。段違いに規模の大きな商業用原発の原子炉を解体した経験は、わが国にはない。(中略)原発を解体すると、使用済み核燃料とは別に、放射線量が低いコンクリートのがれきから、とても人が近づけないような放射能を帯びた原子炉の鋼材や配管まで、大量の放射性廃棄物が出るからである(東海村では「千六百七十トン」の廃棄物がでた。しかし、解体された「原子炉」「制御棒」「放射性物質を含む一次系冷却水ポンプ、弁」などを含む「二千百トン」は、黒鉛を混ぜた鋳鉄でできた厚さ三十三センチの遮蔽容器・ドラム缶などに詰められて「専用倉庫」で眠ったままということだ)。福島第一原発の廃炉。それは間違いなく、前例のない難事業となる。炉心が溶融したり、建屋が爆発で吹き飛んだりした炉が四つ。使用済み核燃料(燃料棒の束)は三千百八体ある。汚染されたがれきは、これまでに回収されたものだけでコンテナ九百個分にも上っている。原子炉を解体する段になると、今度は溶け落ちた核燃料と制御棒など炉内の構造物が交ざった「核のゴミ」との闘いが始まる。それぞれが、がれきとは桁違いの放射能にまみれ、現行法が想定していない廃棄物である。さらにこの廃棄物には、事故当初、緊急に注入された海水による塩分が含まれている。錆や腐食を生むため、これまで高レベル放射性廃棄物の保管に使ってきた容器はそのままでは使えない。超長期にわたり、放射性物質が漏れないようにする新たな容器の開発が必要になる。(中略)事故から核燃料の取り出しまで六年半を要したスリーマイル島原発の事故では、処理費用がこれまでに九億七千三百万ドル(約七百五十億円)かかっている。今回はその比ではなく、政府の第三者委員会の試算では廃炉に一兆千五百億円が見込まれる。順調に進まなければ、額はもっと膨らむ。さらにその先には、大量の放射性廃棄物の処分が待っている。現状では地層処分の技術確立は道半ばで、候補地は白紙のままである。どこかが地層処分のための最終処分場を受け入れる見通しは、まったく立っていない。そんな中でどうやってゴールにたどり着くのか。先は見えないが、それでも道を見出さなければ、(福島第一原発の)事故は終わらない。
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全366ページの大著をすべて網羅することは難しい。東京新聞原発事故調査班(2012年から「原発取材班」へ改称)が『(福島原発事故の)正しい情報』として書かれた本書の(衝撃的な事実が書かれた)文を最後に抜粋し、未来への原子力を考えるための「道標」としておきたいとおもいます。
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(第一部『福島原発の一週間』より)
「大きいな」「見たことねえ」。避難してきた作業員が口々に話す。高さ三十メートルの大津波。1~4号機は最大で深さ五・五メートルも水没し、5,6号機あたりでは車がプカプカと浮いている。(中略)原発で働いて四十年になる。八年ほど前、東電社員との懇親会で「五メートル以上の津波が来たらどうするのか」と尋ねたことがある。「そんな津波は来ません」と言われたが、まさにその津波で、家々がやられていた。(中略)地震から五十分後、津波の第二波が防波堤を越えて、福島第一原発の敷地をのみ込む。東電は事故に備えて1999年までに、(原子炉)一基に二台の非常用ディーゼル発電機を配備している。ところが、大半は原子炉建屋に隣接するタービン建屋の地下にあり、運転中の1~3号機では六台のうち地下にあった五台が水没してしまう。2号機の一台は地上にあったが、電気を供給する電源盤が水没し、結局六台とも機能を失う。全交流電源喪失(ステーション・ブラックアウト=SBO)と呼ぶ深刻な事態である。(中略)(驚いたことに)深刻な事故が起きた時のためのマニュアルも開き、必要な操作の手順を確認する。この非常時のためのマニュアルも津波によるSBOを想定していない。そもそもマニュアルは中央制御室で原子炉の状況を把握できることが前提だった。運転中の原発三基が同時にSBOとなるのは世界でも例がないことである。地震からわずか二時間。事態は最悪へと向かいはじめる。(中略)原子力災害対策特別措置法は、「迅速な初期動作の確保」を目的とする。十五条通報や宣言案の提出を受けたら、首相は「直ちに」原子力緊急事態を宣言し、「緊急事態応急対策を実施すべき区域」を指定したり、その区域のある市町村長や都道府県知事に避難のための立ち退きや屋内退避の勧告などを行うよう指示したりしなくてはならない。それは法律に定められた義務だったが、宣言は午後七時三分にずれ込む。最初の十五条通報(「原子炉の水位が確認できない」という連絡)から二時間十八分がたっていた。(中略)原発は、原子炉から出る熱い蒸気で羽根車を回して発電する。羽根車を回した後の蒸気は配管越しに海水に触れさせて冷やし、再び原子炉に戻す。福島第一原発の原子炉建屋やタービン建屋は海から取水しやすいよう、高さ三十五メートルの台地を(わざわざ)二十五メートルも削り、海側に建設されていた。(中略)午後九時二十三分、菅(直人)は法令に基づいて三キロ圏内の住民に避難を、三~十キロ圏内の住民に屋内退避を指示する。避難対象は大熊、双葉両町の五千八百六十二人。枝野は午後十時前からの記者会見で「原子炉の一つが冷却できない状況に入っております」と認めた上で、放射能漏れはなく「念のため」の避難指示だと説明する。炉心溶融の危機を伝える東電からの報告は、伏せられた。(中略)(原子炉を覆う格納容器の)破裂を防ぐ決め手は、放射性物質を含んだ格納容器内の蒸気を大気中に逃すベント(排気)しかない。電源が生きていれば、中央制御室で弁を開く操作ができる。だが、電源がない中では当直長ら運転員が弁のある原子炉建屋内に入り、手作業で開けなければならない。(中略)「何のために俺(菅直人)がここに来たと思っているのか」疲れきった作業員たちが体を休めるそばで、菅は武藤を叱責する(中略)。吉田(所長)は図面を広げ、ベント弁には電気で開ける弁と、空気の圧力で開ける弁の二つがあり両方が開いて初めて排気できることや、(排気の)作業が(放射線量が高く)困難を極めていることを説明する。官邸にいては分からない話である。(中略)爆発が起きているのに、あまりにも甘すぎる評価。より安全な側に立ち厳しく評価するという思想は保安院にはなかった。(中略)「海水注入のリスクは何ですか」。日比野が問うと、川俣も久木田も「ありません」と口をそろえる。リスクはないが、今は時期ではない―。そんな回答だが、実際は炉内の状況が刻一刻と悪化し、悠長なことを言っていられる状況ではなかった。(中略)「海水を注入すれば、問題はすぐ片付くんですね。なぜやらないんだろう」日比野が疑問を呈すると、菅はポツリと言った。「要するに廃炉にしたくないんじゃないかな」(中略)「3号機は危ないですよ。プルサーマルですよ」プルサーマルとは、核燃料として新しいウラン燃料だけを使うのではなく、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX)燃料も使う発電方法である。プルサーマルでは、核分裂を抑える制御棒の効きがウラン燃料よりも悪くなるとされる。(中略)3号機の原子炉の水位計は、核燃料が水面から露出していることを意味する「マイナス」を示し続ける。炉心溶融が起きていた。(中略)原子炉の水位計は、燃料が水面からまる一日近く露出し続けていることを示していた。(中略)1号機に続く二度目(3号機)の爆発は、六十キロ余り離れた福島市の東電福島事務所に衝撃となって伝わる。(中略)午後八時前から海水の連続注入が続いていたが、原子炉を減圧してもすぐに上昇するため、十分に注水できない状況が続く。(中略)2号機で燃料棒が水面から露出したころ、免震重要棟二階の廊下では、下請け会社の作業員ら四十人余りが疲れ切って横になっていた。そこに吉田がやってきて、頭を下げる。「状況が状況なので、皆さん、このまま退避してもらってかまわないです。これまでありがとうございました」作業員らは解散となり、バスや車で福島第一原発を後にする。(中略)3号機の爆発後も、3,4号機の中央制御室では、運転員が懸命の作業を続けていた。放射線量が高いため、全面マスクで防護している。だが、当初使われていたマスクの一部は、揮発性の放射性ヨウ素を除去できないタイプのものだった。室内が汚染されていると分かっていても、生きるためには食べなくてはならない。マスクを外して非常食の乾パンを食べたり、ミネラルウォーターを飲んだりもした。こうして六人の運転員らが三〇八~六七八ミリシーベルトの被曝をする。今回の事故に限って引き上げられた被曝限度の二五〇ミリシーベルトをはるかに超える数値である。うち二人は、外部被曝よりさらに危険だとされる内部(体内)被曝が五〇〇ミリシーベルト超に達していた。(中略)(菅直人首相の)退任直後のインタビューで、菅はこの時の強い危機感を語っている。「福島第一原発には六個の原子炉と十個の使用済み燃料プールがある。二十キロ圏の第二原発まで含めると十個の原発と十一個のプール。これを全部立ち入り禁止区域にして一般の人みたいに逃げたら、どんどんどんどんメルトダウンしていく。撤退なんてことはあり得ないんだ。撤退してたら、今ごろここ(東京)に人っ子一人もいなくなってたかもしれないよ」(中略)「このままでは東日本全体がおかしくなる。決死隊をつくるしかない」補佐官らを前に、菅は重ねて言う。事故がおきた原発を放置するような国を、外国はどう見るのか。「海外から(日本を攻めに)やってくるぞ」(中略)米国の専門家たちは4号機の使用済み核燃料プールにこそ一番の危機が迫っていると考えていた。(中略)その4号機では十六日午前六時前、再び火の手が上がる。午前八時半すぎには3号機から白煙が噴出。トラブルの連鎖は止まらない。(中略)後でわかったことだが、4号機のプールには壁一つ隔てた原子炉上部に蓄えられている水が流れ込み、燃料棒の露出を防いでいた。水に浸かった燃料棒は、ほぼ無傷だった。4号機の損壊や出火について、東電は3号機から水素が流入したことによる爆発と推測している。2号機では爆発はなかったとみられている。中に入れないため、放射性物質が大量に放出された経緯は判然としない。
(第二部『汚染水との闘い』より)
「『負の選択肢』だが、低濃度の汚染水を海に放出するしかありません」海洋汚染に関するロンドン条約は、放射性廃棄物の海洋投棄を禁じている。だが、条約が禁止しているのは船や飛行機からの投棄で、陸上にある施設からの放出は該当しないという抜け道があった。(中略)東電は、海に放出した汚染水を「低レベル」と発表する。東電によると、これは「高濃度汚染水と比べると低い」という意味だという。だが、実際は法令に基づく濃度限度の最大五百倍に当たる。緊急事態でなければ決して許されない濃度である。(中略)放射性物質を取り除き、再び原子炉に注水する総額五百三十一億円のシステム。基本設計は東芝と日立GEが担うものの、中核となる放射性物質除去の技術は、経験豊富な米仏の二社(アレバ:仏、キュリオン:米)に頼ることになる。(中略)セシウムは体が必要とするカリウムと似ており、放射性ヨウ素と同様に体がカリウムだと間違えて取り込んでしまう。筋肉に多く溜まり、量次第では放射性ヨウ素同様、がんなどを引き起こす恐れがある。(中略)「年間二〇ミリシーベルトの被曝を基礎に毎時三・八マイクロシーベルトと決まったが、間違いです」「この数値を乳児、幼児、小学校に求めることは、学問上の見地からも、私のヒューマニズムからも受け入れ難い」四月二十九日、国会内で記者会見した東京大教授(放射線安全学)の小佐古敏荘(六一)は涙ながらこう訴え、内閣官房参与を辞任することを表明した。年二〇ミリシーベルトもの被曝は、原発作業員でも珍しい。それなのに大人より被曝による影響を受けやすい子供にその基準を当てはめるのはおかしい―。小佐古は強く抗議し、見直しを求めた。(しかしこの危惧とは別に「森」や「米」にも放射性物質はどんどん蓄積されていった)
(第三部『想定外への分岐点』より)
マグニチュードが「1」増えると、地震のエネルギーは三十二倍になる。試算結果は、明治三陸地震が、従来考えられていた規模より四倍から十六倍の大きさだったことを示している。これほどの超巨大地震は当時、日本周辺では確認されていなかった。(中略)過去に大地震や大津波をもたらした震源に限らず、日本海溝沿いに危険があるとの指摘だった。「三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのどこかで発生する確率」は、二十年以内に一〇パーセント、三十年以内に二〇パーセントとはじいた。報告書の考えに沿えば、それまで大きな地震が観測されてない福島沖から千葉・房総沖の地震の空白域でも大地震が起き得る。島崎(東大地震予知連絡会会長)はむしろ、これまでに起きたことのない空白域の方が発生の可能性が高いと考えた。ただ、島崎によると、この報告書には事務方を務めた文部科学省の官僚が一文を書き加えていた。「データとして用いる過去地震に関する資料が十分にないこと等による限界があることから、評価結果である地震発生確率や予想される次の地震の規模数値には誤差を含んでおり、防災対策の検討など評価結果の利用にあたってはこの点に十分留意する必要がある」(中略)過去の地震、津波の被害をもとに起き得る最大の津波を想定する。その上で現在の地形などを加味して浸水する可能性がある地域をつかみ、必要な対策を取る―。手引きは自治体にこういった手順で対策を取るよう求めた。基本的に未経験の高さの津波は起きないという前提に立っていた。(中略)「あれ?こんなのあったかな」「全交流電源喪失事象検討WG報告書[通産省]」(SBOに関する報告書)福島第一原発で原子炉の冷却ができなくなる原因となったSBOに関する報告書と思われた。(中略)やはり資料は安全委員会にあった。私たちの指摘を受けて安全委員会が捜したところ、ロッカーの段ボール箱に入れられたままになっているのが見つかる。報告書は七月、私たちに開示された。原発の安全確保に極めて重要な問題を議論しながら、まったく対策に生かすことなく、実に十八年(一九九三年十月二十八日夕、東京・霞が関、原子力安全委員会の一室でおこなわれた非公式の打合せで提示されていたもの)近くロッカーに眠らせていた。(中略)致命的だったのは、米国などで自然災害による三十分を超えるSBOがあることを確認しながら、地震や津波、洪水といった「外的要因」によるSBOを検討から外したことだった。(中略)福島のような外部電源喪失と、発電機の同時故障が一緒に起きる確率はどれほどか。報告書では、外部電源が喪失する頻度は原子炉を百年間運転した一回と試算。ディーゼル発電機が二台とも故障する確率は、起動を二百五十万回試みてたったの一回だけとされている。この計算通りなら、確率はほぼ「ゼロ」に近い。実際には、日本でも外部電源の喪失や、ディーゼル発電機の起動失敗は計算以上に起きていた。指針の評価には、既に疑問符が付いていたことに為る。だが、安全規則の担い手に問題意識を持つ人はおらず、ワーキンググループ以降に見直しの動きはなかった。今回の事故では1~4号機でSBOをが起き、水素爆発などにより炉心や建屋が大きく損傷した。中央制御室に外部電源が復旧するまでにかかった時間は最短で三百七十一時間にも及ぶ。指針で、それ以上は考えなくてもいいとされていた「三十分」の七百四十二倍だった。(中略)一九八六年七月、東京・大手町経団連会館。その三ヶ月前の四月二十六日、当時のソ連で驚天動地の事故が起きた。チェルノブイリ原発事故である。日本の原発の備えは大丈夫か―。当時、東京電力・原子力技術課長だった服部拓也は、その席で安全対策の強化を呼びかけた。(会議主催の)呼びかけは、通商産業省(現経済産業省)の側の意向を受けていた。だが、各社(各電力会社で原発安全対策を担当する)の課長からは色よい返事はない。「寝た子を起こさないでくれよ」「対策を講じたら『そんな事故が起きる可能性があるのか』と言われる。地元の反発に耐えられない」反論が相次ぐ。説得は不調に終わった。(中略)事故が起きたからといって国内の規制を強化する必要はなく、むしろ日本の技術を輸出すれば事故は防げるという論法である。まさに「安全神話」だった。(中略)落としどころは、「法規制ではなく電力会社の自主的な取り組みとして、SA(シビアアクシデント:炉心溶融・放射性物質の大量放出といった深刻な事故)対策を進める」こととされた。法規制はしない。だが、対策は進める―。中間をとったような結論である。(中略)深刻な事故が起きたら機能しなくなるのに、なぜこれほど近くに(オフサイトセンターは)建てられたのか。「遠いところに行ったら、(伊方)町民は私(中元清吉・旧町長)のことをなんと思うか。町民をほったらかしにして町長は逃げたと言われるでしょう」きれい事ばかりでない事情もある。「財政力の貧弱な町だから、国が面積割で負担したくれたら、町も助かるじゃないかという考えも持ちはしました(同・旧町長)」(中略)オフサイトセンターを近くに置くよう求めたのは、伊方町に限らず、多くは「地元の事情」だった。首長たちが地元の市町村内での建設を望んだ。(中略)オフサイトセンターには、住民の避難を支援する役目もある。今回(福島第一原発事故)はその面でも機能しなかった。
(第四部『「国策」推進の陰で』より)
「トイレのないマンション」。原発はしばしば、そう揶揄される。発電で出た核のゴミを処分する場所が決まっていないからだ。(中略)自治体の立候補を促す「アメ」は破格の交付金である。処分地は候補地の中から「文献調査」「概要調査」「精密調査」の三段階を経て決定される。処分場の完成までに三十年かかり、稼働期間を含めると百年以上に及ぶ。このうち、ボーリングなどの実地の調査を伴わない文献調査に応じるだけで、地元自治体には年に最高十億円の交付金が落ちる。(中略)「日本にはエネルギー資源がないという危機感が国民にはないのではないか。核燃料サイクル政策を国民が理解していないというのは、国の広報活動のやり方が足らないのではないか」(など原子力委員会の委員をまえに集まった「住民代表」が次々と国の尻をたたく言葉を放つ。しかし、この地元住民代表を集めて行う「語る会」は原子力委員会により用意周到に準備された「公聴会」だった)。(中略)使い勝手の良い金が必要な地元と、地元の機嫌を損ねるわけにいかない電力会社。その利害関係が一致し、時には匿名の形で寄付(「新幹線整備費(九州)」とか「漁業振興費(泊)」とか「市町村合併に伴う篤志(島根)」など(という名称での「匿名」寄付)が行われていた。
(第五部『安全神話の源流』より)
「将来日本工業のエネルギー源の絶対量を原子力によって増やさねばならない」「それは相当遠い将来になるかも知れないが、今日から出発しなければ、世界の大勢におくれる」(中略)一九五二年十月二十三日。原子力委員会の設置を政府に申し入れるべきかどうか検討するため、学術会議に臨時委員会を創設するよう提案する。いわゆる「茅(誠司)・伏見(康治)提案」である。(中略)軍事転用を恐れ、前に進めない学者たち。それを尻目に政界が動く。中心は改進党の衆院議員で「青年将校」と言われた中曽根康弘だった。(中略)五三年十二月八日、米大統領ドワイト・アイゼンハワーが国連総会演説で、核兵器の平和利用を世界にアピールする。(中略)軍事機密のベールに包まれていた原子力の技術が提供される―。その情報を知った中曽根は「日本でも急いでやらなくてはならない、一年遅れたら十年発展が遅れる」(「原子力回想」)と思った。(中略)国会で表に立ったのは衆院予算委員会理事の中曽根だった。首相吉田茂率いる少数与党の自由党と交渉し、初の原子力予算を自由、日本自由(鳩山自由)、改進の三党で共同提案。「科学技術振興費」三億円の中に、原子炉築造費二億三千五百万円、ウラン探査費千五百万円、国会図書館原子力資料費一千万円が含まれていた。中でもいきなり原子炉築造費が入っていることに学術会議側は仰天し、騒然となった。(中略)原子力問題を話し合う委員会の委員長だった東京教育大教授の藤岡由夫は、翌月の総会で当日の様子を報告した。藤岡は改進党側に、学術会議の議論がでるまで「待って欲しい」と申し入れた。「しかしながら、それは遂に取上げられませんでした」。藤岡は中曽根らにこう言われたという。「野党は予算をつくる機能を持たないから、学術会議に正式に諮問することはできない。だから、ああいうふうな突発的なことをしなければならない。しかし、ひそかにいろいろの学者の意見をよく聞いてあるのだ」(中略)予算案は、三月四日に衆院を通過する。「原子炉築造費」が「原子力平和利用研究費補助金」と名前を変えただけで、四月三日に自然成立した。(中略)初の原子力予算が成立すると、政府は副総理の緒方竹虎を会長とする原子力利用準備調査会を発足させ、原子力予算をどう使うか検討を始める。メンバーはほかに、経団連の石川一郎、茅誠司、藤岡由夫ら。調査会は五四年六月末、以下の基本方針を決めた。(その基本方針とは)1.わが国将来のエネルギー供給及びその他原子力の平和的な利用を行うものとする。2.前項の目的に資するため、小型実験用原子炉を築造することを目標として、これに関連する調査研究及び技術の確立等を行うものとする。3.この外特に放射能の危害防止についても調査研究を推進するものとする。(中略)米国からの原子炉導入に前のめりになっていく政府側。これに対して、警鐘を鳴らす意見もなかったわけではない。(中略)一九五五年八月八日。スイス・ジュネーブで国連主催の「第一回原子力平和利用国際会議」が開催される。日本からも政府代表団が派遣(藤岡由夫、駒形作次、石川一郎、日本民主党の中曽根康弘、自由党・前田正男、左派社会党・志村茂治、右派社会党・松前重義ら)された。(日本)国から支給された渡航費は一万円。議員運営委員会では「そんなわけの分からん会議に国会代表を送るのは、日本の恥辱だ」とまで言われたという。一万円ではまったく足りず、松前が「電気通信の関係で顔がきく」東京電力に頼んで四百万円を用立ててもらい、四人(中曽根・前田・志村・松前)で分けた。(中略)四人は間もなく、原子力関係の法案づくりに取りかかる。「原子力の憲法」となる「原子力基本法」の担当は松前だった。(中略)基本法には当初(一九五五年十二月十六日)、安全ついての言及がなかった。第二条の基本方針に「安全の確保を旨として」と加えられるのは十三年後、原子力船「むつ」の放射能漏れを契機に原子力安全委員会が創設された一九七八年の改正を待たねばならない。(中略)「原子炉の安全性(五五年ジュネーブ会議):米原子力委員会論文」坂田昌一が一部引用している。「原子炉の運転は安全なように見えるが、実は見かけ上の安全なのである。原子炉は、計画や運転のひどい過失が数多くされない限り暴走することはない。しかし、このような過失が突発的に発生することなく長期間にわたって広汎な運転を行うことは不可能である。現在までに原子炉の暴走によって死亡した人は一人もいないといったことは幸運で合ったが、このような幸運がいつまでも続くことを当てにすることはできない」「将来ほんとうに安全な原子炉が利用できるようになるまでの間は、われわれは原子炉を極端な慎重さで建設せねばならぬし、また安全に十年間運転した後でも運転を開始したまさにその第一日目と同じ慎重さで運転を続けねばならない」「運がよくても誰もしななかったとしても、大きな都市から立ち退き、または主要流域地方を見捨てねばならぬことになるかも知れないし、あるいは原子炉の敷地自身も以後何年かは立入禁止地域にせねばならぬようになるおそれは充分にある」福島第一原発の事故にもつながる警鐘が、既に鳴らされていた。(中略)原子力委員会が発足した。初代委員長は、前年に衆院議員に初当選した読売新聞社主正力松太郎。委員はノーベル賞学者の湯川秀樹、経団連会長の石川一郎、マルクス主義経済学者として知られる東京大教授の有沢広巳、藤岡由夫という豪華メンバーだった。湯川と石川は、正力と中曽根が口説き落とした。中曽根は湯川の先にまず学術会議会長の茅誠司を説得した。(中略)正力というエンジンを得て、原子力開発に猛進する政府。気が付けば原発輸入のレールが敷かれ、科学者の影響力は消えていた。原子力委員会事務局の一員だった伊原義徳によると、正力は、関連の会議で席の並び順までチェックし、自分の思うように並べ替えるというワンマン振りだった。自らの手で、日本に原子力発電を導入したい―。そんな熱意に燃えていた。(中略)西側で当時、商業用発電に成功していたのは英国のコールダーホール原発だけだった。後に世界の主流となる米国の軽水炉は、まだ実用化されていない。英国の後、米国とカナダを視察した石川らは、軽水炉について「ただちに導入することは時期尚早」と報告し、日本の選択肢は英国型に絞られた。(中略)英国では、発電と同時に生産されるプルトニウムを国が買い上げている。国営の炭鉱会社は人件費が高いため石炭の料金も高く、火力発電のコストを押し上げている。日本は石炭の価格が安く、米国からの技術導入の結果、火力発電の効率も良い。もちろんプルトニウムの買い上げもない。だから、日本では原発が火力発電より割安になることはない―。それが田中らの結論だった。田中が代表となって結果を報告すると、正力は激怒した。「ヒントンがペイすると言ったらペイするんだ。木っ端役人は黙っとれ!」原発導入の道筋をつけたという実績を力に政界の頂点に上りつめようと望む正力にとって、導入に否定的な意見は邪魔でしかなかった。(中略)「コールダーホール型は技術的に難しくない。北朝鮮だって造れるような炉です。問題なのは軍用なので安全性など二の次だったことです。故障が少ないとか、コストが安いとか、安定運転できるとか、安全性が高いとか、いろいろポイントがあるが、コールダーホール型は条件を満たしていなかった」東海原発の設置を認可した時の原子力委員の一人、有沢広巳も石川一郎の追悼文(「原子力の父」)で、こう述懐している。「コルダー・ホール型発電所は原子力発電としては成功であったとはいいがたい」(中略)「百五十億円近い金をかけ、十年以上の歳月をかけて、しかも、できた船がいつでもでられる状態になって二年動かない」(中略)不意打ちのようにして沖合に出たむつ。出港二日後の八月二十八日には、青森県の尻屋崎から東に八百キロの試験海域で、初めての臨界を達成する。順調な滑り出し。だが、そのわずか四日後に異変が起きる。(中略)(原子力船開発事業団技術部長の)田村は観念して試験を打ち切り、船長の荒稲蔵に結果(原子炉の出力がゼロに近い水準での「放射線」漏れのこと)を報告した。臨界の時には笑顔で握手を交わした二人。今度は荒が「そうか」と答えたきり、互いに黙り込んだ。「さすがにみんながっくりとしていました」。荒は歴戦の海の強者だったが、やがて小便に血が混じるほど憔悴しきる。(中略)田村は確かに「放射線漏れ」と説明したつもりだった。だが、連絡の行き違いからか、一部新聞に放射性物質そのものが漏れたことを意味する「放射能漏れ」の見出しが踊る。実は、放射線漏れの危険は事前に指摘されていた。むつの原子炉は三菱原子力工業が設計、製造した。船舶用の原子炉は国内で初めてである。(放射線の)漏れ出す量を計算で求め、隙間をふさぐ鋼鉄製のリングを取り付けることにした。これがミスだった。「当時、国内では中性子の動きがよく知られていなかった」科技庁退官後に日本原子力研究所副理事長となり、むつ問題の後始末をした辻栄一は、こう説明する。ストリーミングは動きの遅い熱中性子が起こす現象とされ、動きの速い高速中性子には考慮する必要はない―。当時はそう考えられていた。しかし、実際に漏れたのは高速中性子だった。陸上や岸壁に係留している時点で出力を上げる試験を行えば、漏れは確認できたはずだったが、地元の強い反対の中、できるはずもなかった。(中略)時代の夢を乗せて進水したむつは、原子力船が行き交う未来を実現できなかった。それでも倉本(昌昭:科技庁審議官)は「実験は成功だった。原子力船を建造する技術が日本にあると分かった」と胸を張る。そして、もう一つの成果を口にする。「商業的に採算が合わないと確認されました」原子力船開発は止まった。国策といえども、地域に暮らす人々の意向を無視して推し進めることはできない。そのことを示す一例になった。同時に、むつは原子力をめぐる安全規制を見直すきっかけにもなる。放射線漏れの混乱が起きているのに、当時、安全審査を担っていた原子力委員会は沈黙し、あまりにも無力だった。七五年に公表された国の事故調査報告書は、原子力委員会の安全審査のお粗末さを厳しく指摘している。(中略)原子力船「むつ」の放射線漏れの際、沈黙を続けた原子力委に批判が集まったことが発端で始まった懇談会。安全への責任が不明確なこと、開発推進と安全規制との相反する任務を同じ組織が担うこと―。そうした原子力委員会の問題は、安全委員会を新設することでひとまず解消する。残るは新組織と各省庁の権限をどう分けるか、ということだった。そこで関連する省庁の官僚たちによる「縄張り争い」が始まった。(中略)省庁と安全委員会が安全を審査する「ダブルチェック」を導入するなど、有沢行政懇で安全規制は強化されたとされる。しかし、東電福島第一原発の事故では、入念に審査したはずの原子炉が大津波で全電源を喪失した結果、制御機能を失い、広く放射性物質をまき散らした。「きちんと規制するだけの行政体制が育っていなかったのではないか。核心に及ぶ規制をしていたとは、とても思えない」(元科技庁科学審議官で、懇談会の事務を担当した)沖村(憲樹)はそう話し、経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会の力不足を指摘した。「むつの(放射線漏れ)事故がなぜ起きたのか。規制の体制が、むつの炉をきちんとチェックできていなかったわけです。それを規制するためにはどういう体制が必要で、どういう規制の仕方が必要か、行政懇では議論がなかった。規制する方にもっと、原子炉を造るところから携わって、あらゆることが分かった人がいないと防げなかったんだ。ところが、その部分はそうじゃないままに現在の体制になっている」福島第一原発事故を受けて、政府は今春、安全規制権限を集中させた環境省の外局「原子力規制庁」を設ける。沖村は、その中身が大事だと言う。「規制の中身が同じで切り離したとしても、意味がない。原因を詰めて考えないと、昔と同じことになります。看板の付け替えだけではだめだ」
(第六部『X年の廃炉』より)
一九八六年の初め、米ペンシルベニア州を縦断するサスケハナ川の中洲にあるスリーマイル島原発で、モニターを見つめる作業員たちから驚きと戸惑いの声が上がる。スリーマイル島原発では七九年三月、原子炉の加熱を抑える冷却水の給水ポンプの故障に端を発し、弁の故障や水位計の誤作動、運転員が起動した非常用冷却装置を停止させるなどのミスも重なり、空焚きとなって炉心溶融が起きた。核燃料の四五パーセントに当たる六十二トンが溶け、その三分の一があの原子炉の下部に落ちて積もった。それから、七年近く。作業員たちは、廃炉に向けた作業を進めていた。(中略)スリーマイルでは炉心溶融はあったが、原子炉そのものは壊れなかった。このため原子炉の中に水を張ることができ、放射線を遮蔽するところ(水棺)までは比較的順調に進んだ。だが、福島第一原発では、原子炉の底が抜けているとみられ、その外側にある格納容器まで損傷している。この水張りをどうやって実現するか、そこには高度な技術開発が求められる。さらにスリーマイル(の事故)では一基だったが、福島第一原発では事故を起こした1~4号機の四基をすべて廃炉にしなくてはならない。「スリーマイルの事故より厳しい条件にある」「どういう技術開発をして、どうやってそれをやるか、これにかなりの時間を覚悟しなければならないんだろうなという感じはいたします」スリーマイルの調査研究団の団長だった早瀬佑一=現東電顧問=は一一年八月三日、廃炉について検討する原子力委員会の専門部会でこう話し、福島第一原発の廃炉への工程の難しさを認めた。(中略)福島第一原発の事故では、高濃度の汚染水が格納容器の外にまで漏れ出した。溶融したとはいえ、基本的には原子炉の中にとどまったスリーマイル事故とは比べものにならないくらい、作業員の被曝のリスクは高い。その分、スリーマイル以上にロボットの必要性も上がる。(中略)文科省原子力規制室によると、研究用の原子炉は全国に二十二基ある。そのうち七基が「廃炉中」だが、放射性廃棄物の処分のめどが立たず、いずれも作業が停滞している。(中略)日本には、原発の廃炉をやり遂げた経験が一度だけある。茨城県東海村にあった出力一万二千五百キロワットの動力試験炉(JPDR)である。(中略)この作業時に、多くの作業員が被曝した。「被曝線量は遠隔操作で行う解体そのものより、準備作業で増える傾向がありました」原研バックエンド技術部長だった宮坂靖彦=現原子力研究バックエンド推進センター技術顧問=は振り返る。(中略)七年計画だった手探りの廃炉。終わってみれば十年を要した。宮坂は「汚染レベルがかなり低かったこともあり、大きな事故はなかった」と廃炉作業を振り返る。だが、これは出力の小さい試験炉(一万二千五百キロワット)の話だ。廃炉の決まっている福島第一原発の1~4号機の出力は四十六万~七十八万キロワット。段違いに規模の大きな商業用原発の原子炉を解体した経験は、わが国にはない。(中略)原発を解体すると、使用済み核燃料とは別に、放射線量が低いコンクリートのがれきから、とても人が近づけないような放射能を帯びた原子炉の鋼材や配管まで、大量の放射性廃棄物が出るからである(東海村では「千六百七十トン」の廃棄物がでた。しかし、解体された「原子炉」「制御棒」「放射性物質を含む一次系冷却水ポンプ、弁」などを含む「二千百トン」は、黒鉛を混ぜた鋳鉄でできた厚さ三十三センチの遮蔽容器・ドラム缶などに詰められて「専用倉庫」で眠ったままということだ)。福島第一原発の廃炉。それは間違いなく、前例のない難事業となる。炉心が溶融したり、建屋が爆発で吹き飛んだりした炉が四つ。使用済み核燃料(燃料棒の束)は三千百八体ある。汚染されたがれきは、これまでに回収されたものだけでコンテナ九百個分にも上っている。原子炉を解体する段になると、今度は溶け落ちた核燃料と制御棒など炉内の構造物が交ざった「核のゴミ」との闘いが始まる。それぞれが、がれきとは桁違いの放射能にまみれ、現行法が想定していない廃棄物である。さらにこの廃棄物には、事故当初、緊急に注入された海水による塩分が含まれている。錆や腐食を生むため、これまで高レベル放射性廃棄物の保管に使ってきた容器はそのままでは使えない。超長期にわたり、放射性物質が漏れないようにする新たな容器の開発が必要になる。(中略)事故から核燃料の取り出しまで六年半を要したスリーマイル島原発の事故では、処理費用がこれまでに九億七千三百万ドル(約七百五十億円)かかっている。今回はその比ではなく、政府の第三者委員会の試算では廃炉に一兆千五百億円が見込まれる。順調に進まなければ、額はもっと膨らむ。さらにその先には、大量の放射性廃棄物の処分が待っている。現状では地層処分の技術確立は道半ばで、候補地は白紙のままである。どこかが地層処分のための最終処分場を受け入れる見通しは、まったく立っていない。そんな中でどうやってゴールにたどり着くのか。先は見えないが、それでも道を見出さなければ、(福島第一原発の)事故は終わらない。
◇◇◇◇◇
(目次)
第一部 福島原発の一週間
三月十一日午後二時四十六分、福島第一原発/三月十一日午後、北京、関西、東電本店/三月十一日午後、経済産業省原子力安全・保安院/三月十一日午後、参院第一委員会室、首相官邸/三月十一日午後、福島県自治会館/三月十一日夕、福島第一原発/三月十一日午後、東電本店/三月十一日夜、福島第一原発/三月十一日夜~十二日未明、首相官邸/三月十一日夜~十二日未明、福島県自治会館、大熊町/三月十一日深夜~十二日未明、福島第一原発/三月一二日未明、オフサイトセンター/三月十二日未明、首相官邸、福島県自治会館、経産省/三月十二日早朝、福島第一原発/三月十二日午後、1号機爆発/三月十二日午後、海水注入/三月十二日、SPEEDI公表せず/三月十三日、3号機の危機/三月十四日、3号機爆発/三月十四~十五日、2号機の異変/三月十五日、統合本部設置/三月十五日、4号機爆発/三月十五~十七日、海水投下/三月十七~十九日、大量放水
第二部 汚染水との闘い
六月下旬、福島第一原発/作業員被曝/日米協議/仏アレバ登場/汚染水放出/「水棺」決定と挫折/循環冷却へ/終わらない闘い/「驚くべき数字」/ホットスポット/二〇ミリシーベルト/森に溜まる放射能/米からもセシウム
第三部 想定外への分岐点
生かされなかった津波想定/根拠なき安全指針/先送りされた過酷事故対策/近すぎた対策拠点/複合災害、考慮せず
第四部 「国策」推進の陰で
丸抱え視察旅行/原子力委員会の「やらせ」/「匿名」の寄付金
第五部 安全神話の源流
初の原子力予算/原子力委員会発足/英国炉導入/東海原発認可/原子力船「むつ」漂流/原子力安全委員会新設
第六部 X年の廃炉
スリーマイル、緑色の敵/万能ロボット、お蔵入り/捨てられない廃棄物/手探りの十年/果てしない道のり
福島第一原発事故発生からの主な経緯
少し長いあとがき
主要参考文献
写真提供元一覧
(参考)