2012-08-27

鶴川日記。

鶴川(現在の町田市)での三十年間の日々を書いてから、ほぼ同じ年月が経ちました。この三十年間の周囲の変化はすさまじく、母(白洲正子)と私が共有している記憶は、もはや我々が暮らしていた家(「武相荘」として公開中)の敷地にしかもう残っていないような気がします。私が小さかった頃のように、日の暮れるまで遊び回るという光景も見られなくなりました。
(「復刊によせて」より。牧山桂子)
そんな「光景」や人々の「暮らし」を、情景溢れる「描写」で綴られている、白洲正子自身の「文」で抜粋しておきます。そう、これはほんの四半世紀にも満たない、東京近郊にあった「風景」や「暮らし」なのです。

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この辺は多摩丘陵の一部なので、山や谷が多く、雑木林では炭を焼き、山あいには田圃がひらけて、秋は柿と栗がたくさんとれる。買い出しに行って、夕方おそく田圃道を歩いていると、蛍が顔にぶつかるほど飛んでいて草葉にすだく虫の音がかまびすしい。百年以上も経た家は荒れはてていたが、さすがに土台や建具はしっかりしており、長年の煤に黒光りがして、戸棚もふすまもいい味になっていた。間もなく屋根の葺き替えがはじまり、私どもは納屋に移った。農村では、屋根替えのことを「普請」というが、確かにそれは普請と呼ぶにふさわしい大仕事であった(「鶴川の家」より)。
何もかも珍しく、どこから手をつけていいか、はじめのうちは見当もつかなかった。私どもが居ぬきの家を選んだのは、生活に必要なお茶、筍、蕗、茗荷、こんにゃく、さんしょ、などが手近にあるだけでなく、古い農家は釘を使っていないので、移転すると元の形をくずすからである。前の持ち主が、植物が好きだったので、庭には木の花、草の花が、四季を通じ咲き乱れていた。山には女郎花、桔梗、りんどうなどが自生し、谷にはえびね蘭や春蘭が至るところに見いだされた。そういう野草も、いつの間にか消えてなくなり、今残っているのは山百合と野菊くらいである。野鳥もたくさんいた。一番多いのはこじゅけいだが、雉は今でも時々見かけることがある(「農村の生活」より)。
空襲のサイレンが鳴りわたった。ふと空を見あげると、大きな飛行機が、銀翼を輝かせて、悠々と飛んでいる。きれいだと思った。それがB29であると知ったのは後のことで、それから毎日きまった時間に、欠かさず飛んできた。これも後に知ったことだが、彼らは偵察に来て、克明な写真を撮っていたそうである。彼らのすることは、何でもそういう風に計画的で、緻密であるに対して、こちらはバケツと竹槍で立ち向かおうというのだから、どだい無理な話である(「農村の生活」より)。
農村の生活は、自然に順応して、すべてが都合よく循環していた。必要以上にむさぼらないのは、野生の動物と同じである。村の結婚式にも招かれた。農家の婚礼は、朝早くはじまって、夜中までつづく。「田」の字に造られた家のふすまは全部とりはずされ、冬でも障子が開け放ってある。そこの縁先まで、近所の子供たちが、時には大人も見物に来る。床の間には州浜がかざられ、嫁入り道具が所せましと並んでいる。私どもの結婚式より、はるかにおごそかなもので、どちらかといえば、お祭りの気分であった(「農村の生活」より)。
チェホフの小説に田園生活を描いた作品がある。習慣の違いというものはおのずからあり、我々の常識では、はかり知れぬものがあったことも事実である。考えてみれば、それは何も農民にかぎるわけではあるまい。人間が二人よれば、考え方の違いや誤解が生まれるのは当たり前のことで、チェホフはその微妙な人間関係を、都会と農村の対比において、たくみにとらえてみせたのであろう(「農村の生活」より)。
そのころ鶴川村は、ほとんど無医村にひとしかった。「無医村には、無医村だけのことがあるのですよ。あの人たちには、医者よりおまじないの方が利く。世の中、それでいいんです」ほんとうの名医とはそうしたものだろう。馬場先生は、終戦後まもなく亡くなられたが、あの先生のような人生の名医は、だんだん少くなって行くに違いない(「村の訪問客」より)。
農村には自然の恵みがある。春になれば蕗の薹や筍を、秋は栗と柿をお土産にあげることができた。秩父宮様までおいでになった。妃殿下と私は同級で、アメリカでもご一緒だったので、親しくして頂いている宮様はもうお体が大分悪かったが、御殿場で畑をやっておられ、子供だましのような私どもの田畑を、熱心に見て回られた。それはたしか初夏のころで、「雑草が生えて困ります」というと、殿下は「雑草が出るのはうらやましい。御殿場では草も生えない」と、寂しそうにいわれた。気候が寒い上、火山灰で、地味が痩せているためだが、心なしかそれだけのことではないようにお見うけした。(六つか七つであった次男に昆虫図鑑をくださった)殿下のお膝にかじりついて、「宮さま、死んじゃあいや」と大声で叫んだ。あとで妃殿下にうかがった話によると「あんなことをいわれたのは、生まれてはじめてだ」と、喜んでくださったという(「村の訪問客」より)。
父は「我慢の人」であったと私は思っている。生活や仕事に対してもひかえ目で、要するに彼は絵に描いたようなジェントルマンであった。ずい分わがままをいったし、心配もかけたと思うが、父の最期だけは心行くまで看病をした。別の病気というわけではなく、ただ「疲れた」といって寝たきり、二週間後に眠るがごとく世を去った。それは老衰というより、自然の樹木が朽ちはてるような終末であった(「村の訪問客」より)。
私どもの畑からも、耕すたびに縄文土器の破片が出た。いずれも小さなかけらなので、畑のすみに積みあげておくうちに、土にかえってしまったが、紀元前から開けた古い土地であることは想像がついた。縄文土器は、民俗学のうちには入らないけれども、そういう所には、必ず面白い風習や、遺品が残っているはずである。町田の周辺には、大和、奈良、岡上、三輪、小野路、香具山、竹内、原当麻など、大和と関係のある地名が多い。私はいつも不思議に思っていたが、武蔵に国分寺が造られた時、大和から移って来た人々が、故郷をなつかしんで名づけたものに違いない。そのうち香具山は、土地ではカゴ山と発音しており、私の家から見えるところにそびえている。あわよくば、畝傍も耳成もないかと思って探してみたが、そう都合よくは行かなかった(「鶴川の周辺」より)。
神社の前のタタラ川を渡ったところに、妙福寺という日蓮宗の寺院がある。欅並木の美しい参道で、寛文年間の祖師堂は、都の重要文化財になっているとか。日は三輪山のかなたに没し、森閑とした寺の境内には、みみずくが含み声で啼きはじめていた。町田と合併する以前、鶴川村は八つの集落にわかれていた。その一番北のはずれにあるのを小野路といい、鎌倉街道と大山街道が交錯する地点にあり、古の宿場の面影をとどめている。ここまで来ると、まだ開発も進んではいず、入りくんだ岡の間に、田畑がひらけ、のどかな田園風景を満喫することができる。小島家は、徳川時代に、苗字帯刀を許された大庄屋で、どっしりした屋敷の構えは、かつての堅実な暮らしぶりを物語っている。が、茅葺きは近代的な瓦に替えられ、太い大黒柱もきれいに磨かれ、外も内も洋風に直してあるのは、勿体ないことである(「鶴川の周辺」より)。
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人間は模倣にはじまり、模倣によって育つ。


(目次)

※付記:(   )内は執筆年を示す。

復刊によせて 牧山圭子(2000.01)

鶴川日記
鶴川の家
農村の生活
村の訪問者
鶴川の周辺
(1978)

東京の坂道
富士見坂から三宅坂へ
永田町のあたり
麹町界隈
国府路の町
番町皿屋敷
靖国神社の周辺
一ツ木の憶い出
赤坂 台町
赤坂から麻布へ
伝通院と後楽園
神楽坂散歩
八百屋お七と振袖火事
(1978)

心に残る人々
ある日の梅原さん(1979)
熊谷守一先生を訪ねて(1975)
熊谷先生の憶い出―追悼(1977)
芹沢さんの蒐集(1978)
バーナード・リーチの芸術(1979)
牟田洞人の生活と人間(1976)
角川源義さんの憶い出(1976)
北小路功光『説庵歌冊』(1978)
祖父母のこと(1963)

あとがき(1979.11)


(参考)