もう20年もまえに出版されていた本ですが、いま読みなおすに「イイ本」です。
著者である、マルク・ブルディエさんは1954年生まれの建築家。パリでの設計活動のかたわら、日本の集合住宅について研究活動を行なっています。1984年の早春のある午後、表参道通りを散歩していたマルク・ブルディエさんは「同潤会青山アパート(現存せず)」と出会います。それは「一目惚れ」といった瞬間的な遭遇であり、「都市型住宅の問題」から「同潤会(アパート)」への研究へと向かわせた出会いであった、といいます。研究をはじめるにあたって次のようなことを考えていたようです。
◆同潤会アパートに初めて住んだ人たちは、日本では「木造住宅以外」に住んだことの無い人たちで、この人たちが、どんな「住みかた」をしたか、またどんな「改造」をしたかを調べると、『日本人の生活の仕方』の本質的な部分がわかる。
◆賃貸として計画された同潤会アパートであるが、のちに「分譲」として供給されるよう変わってゆく。そのときに、様々な改造がおこわなれたという事実があり、これを調べると、その人たちが、『なにを我慢していた』のか、なにを我慢できなかったのかが、わかる。
◆その後、同潤会アパートを出た(退去)人たちがあるので、その人たちが、鉄筋コンクリートのアパートに住んだか、木造の日本住宅に住んだかを調べると、彼らが本当は『どちらを好んでいたか』、という本音がわかる。
このような実地見聞とレポートによって、まとめられてゆくマルクさんの「研究と論文」について、建築家・内田祥哉氏は、『自らの論文を下敷きにして、読み易いかたちにし、さらにヨーロッパ特にフランスの公営住宅との比較にも触れている。彼の努力の成果が、広く紹介されることは、日本の集合住宅の将来に貴重な一石を投じることと確信している』と評価・展望されています。そのマルクさんの一文をメモしておきたいとおもいます。
◇◇◇◇◇
●日本住宅公団の最初の建物が建った昭和30年以来、日本での住居規準は「DK」(ダイニングキッチン)と「L」(リビング)という省略記号によって表している。この記号の頭に寝室数を示す数字を付け加え、2DK、3Dk、3LDK........と住居の間取りを表現する。この表記方法は一見、戦後の外国からの影響によっているような印象を与える。しかし、この印象は誤っている。日本は、いつの時代にも自国の要求に応え、他国の製品や思想を日本化することを知っていた。この点から「DK」という呼び名は洋風であるが、これは非常に「日本的な和製用語」なのである。この「DK」という基準は、長期にわたる準備および熟考の末に生まれている。記号の語源は、戦後の資料の中にも見つけることができるほどだ。つまりこの「DK」の歴史は、現代の日本における国庫融資住宅建設の歴史と同様に長く、またこれらは互いに深く関係している。このことからも、現在に至る日本における住まい方の変遷の中で日本政府の役割を理解するためには、歴史の流れを遡る必要があり、国庫融資による住宅供給に関する最初の重要な国家発議にまで遡り、留意することが重要であると言える。この最初の重要な国家発議というのが、大正13年5月の「同潤会創設」である。
●明治の官僚の流れを汲みながらも、彼らとは違った価値観を大正時代の官僚たちは見出しつつあった。大正六年には、都市計画と市街地建築に関する明確な法的手段を持つために、一定の同意が確立されたようである。それまでの古い法規では、大都市圏の益々悪化していく状況に対処していけなくなっていた。また、経済の発展による国際舞台への進出を計る日本にとって、経済発達の基盤となるべき都市の環境改善は重要課題と考えられた。そしてその後の半世紀の間、都市計画と都市建築の基盤となる「都市計画法」と「市街地建築物法」(大正8年4月4日に法案可決)である。この法律の適用範囲は、日本全土に及んだ。
●同潤会の最初の仕事は、東京、横浜に木造仮住宅を建築することだった。これは大正13年末までに2160戸建設された。次いで、大正14年1月から12月までに東京、横浜の11ヶ所に3000戸以上の賃貸普通住宅を建てた。そして、大正14年8月26日、最初の同潤会アパートの工事が東京市本所区(現、墨田区)中之郷で始まった。
●正確には、同潤会は内務省の発意というよりも内務省内に設置された「社会局の所産」であったと言うべきであろう。もちろん、会長のポストは内務大臣が自動的に占め、社会局長は副会長の地位に就いた。副会長の下には35人のスタッフがおり、その中には都市計画と建築の分野で著名な人々がいた。順不同に名前を挙げてみると、評議員に渡辺鐵蔵、佐野利器、理事に内田祥三がおり、大正15年には池田宏が評議員に加わった。渡辺鐵蔵は明治43年に東京帝国大学政治学科卒業、30歳にして経済学部教授となった。非常に博学な知識人であった。住宅政策や都市計画の問題に関する著作も多数ある。
●年代ごとに見て、「アパートと共同住宅の供給」は同潤会の第三番目の事業である。「仮住宅」と「普通住宅」を建設した後、新しい任務に着手した同潤会はまず社会的整備について二つの目標を持った。一、中流階層のために実用的で最新の住宅の建設。二、不良住宅改良事業および関係住民への住宅提供。以上に技術的整備の目標が加えられた。三、耐震、耐火住宅の提供。一と三を合わせた目標に対しては15の建設事業が任務を負った。これは,アパートメントハウス事業と呼ばれ、13の建設事業が東京市で、二つが横浜市で実現された。二と三を合わせた目標に応えるものとしては、東京の住利共同住宅・猿江裏町(昭和五年、江東区深川)建設事業があった。
●建物は、都市に建てられたときから完全に「都市の一部分」となる。だが、「都市景観への同化」が成功するかどうかは、物理的条件や法規上の制約、また建物に付属する機能に対する考察レベルによって左右される。建設事業は実在する都市景観に調和良く溶け込んでこそ、都市の在り方の新しい形の創作に参画する可能性を持つ。同潤会アパートはその点において評価できるだろうか、また都市にふさわしいとはどのようなものを指すのか。建設事業の物理的同化は、第一に敷地の地形と密接な関係がある。物理的制約を引き受けると同時に住環境の質を提供することは、同潤会の(アパートメント)事業の大切な目的の一つであった。当然ではあるが、都市は自然環境からのみ成り立っているわけではない。景観には人間によって作られる「人為的景観」、あるいは規制から生まれる「規制景観」とでもいうべきものもある。大正12年の大震災による火災の罹災地域の地図と、同潤会のアパートメントハウス事業の用地とを比べてみると、同潤会の事業が罹災地域と非罹災地域の両方で行われていることが確認できる。同様に東京市の復興計画の地図と比べてみた場合には少し違った結果が得られるが、この二つの比較によって、アパートメントハウス事業の中には土地区画整理事業が活用された「罹災地域」で行われたものもあったことがわかる。
●都市型集合住宅の建設が直面する最も大きな問題のひとつは、「地域からの孤立」である。だが同潤会のアパートの共同施設について調べていくと、施設の多くが居住者以外の地域住民にも開放され、利用されていることが確認できる。このことは同潤会によって初めから予定されていたのである。都市に住宅を建設するとき、そこに真に都会的な側面を付随されたければ、単なる住宅建設に加えて、地域の都市生活に何らかの機能を果たすものをプラスしなければならない。同潤会の多くのアパートにある店舗もまた、この考えから生じているといえるだろう。さらに、これらの店舗は店舗付住宅の形式をとっており、そこには日本の都市のひとつの「伝統的な習慣」を見出すことができる。この「伝統的な習慣」を同潤会が具現したことは注目すべきである。同潤会アパートを都市の住宅事業にたらしめているのは、アパートばかりかそれを取り囲んでいる都市についてもさまざまな考察がほどこされ、実現された理由によるからであろう。
●同潤会のアパートのもうひとつの特色に、それが「共同生活の場」であるというコンセプトが前面に押し出されている点がある。都市の生活者の単位には家族と独身者があり、このそれぞれにふさわしい住宅を供給することは、同潤会の重要な課題であった。このために、彼らはアパート建設のうえで次の四つの方法を用いている。第一の方法は、代官山のように同じ敷地の中に、一方は家族向け専用の建物を、もう一方には独身者向き専用の建物を建てるというものである。第二の方法は、同潤会により「立場による不分離」と言われているもの。第三の方法は、独立した独身者向け独身者向け住宅が都市には必要不可欠であり、同潤会としてその必要を満たすことも重要であるとの考えからくる。第四の方法は、中之郷や青山、柳島、住利、鶯谷、東町、さらに「平沼町」アパートのように、すべて家族向け住宅だけが作られたものである。また、居住者の年齢層を考慮した、子供たちの遊び場も計画されていた。これらのスペースはすべて中庭に置かれた。子供たちが外で遊んでいても親たちが安心していられるように。また、建物の屋上には洗濯場と物干し場が作られた。ここは女性たちの井戸端会議場としても役立っていたのではないだろうか。そして共同浴場のついたアパートメントもあった(虎ノ門・大塚・代官山・江戸川)。
●人々の生活に植物の緑は潤いをもたらしてくれる。現存する同潤会アパートの敷地内を散歩してみると、まず草木の多さに驚かされるだろう。60年以上の歳月を経て、代官山のように草木を鑑賞するに心地よいほどまで達しているところもある。こうした緑もまた、同潤会の当初からの目的のひとつであった。この目的のために特別予算の措置も講じられている。
●同潤会アパートでは、家族向け、独身者向けを問わず、アパートメントの配置の問題を解決するために建物ごとに様々な工夫(豊富な間取り、内部空間の工夫、建物内の配置など)が凝らされていた。また「中廊下」と住戸の配列にも新しい試みが取り入れられていた(「独身者向け」など)。
●同潤会アパートの建設は、大正時代末期の日本において幾多の調査や科学実験を重ねた新しい建築技術を、大規模な現場で生かすことのできた唯一の機会でもあった。幾つかの残された図面から読み取れるモノを挙げてみると「緩やかな地形にあわせた立面計画、モジュールの掛け合わせによる連結長さの変化、二階部住戸へのテラス設置、住棟形態の変形」など。そして、同潤会アパートの設計図には次のような意図が含まれている。一、建物の原則を示している。二、一ヶ所(一計画地)のためにだけつくられたものである。三、いくつかの建設事業で繰り返して使われているようなものは存在しない。四、各建設事業は、後に続くもののモデルとしてではなく、何らかの新しい試みを取り入れた、いわば実験(「一」型、「L」型、「凹」型、「□」型)として行われた。
●佐野利器や内田祥三らは、地震の振動と火事の高熱に同時に耐えうる建物の研究に情熱を注いでいた。建物の基礎についても、同潤会では活発な研究が行われた。また、大正12年の大震災以前の日本では、三種類(イギリスの計量法、メートル法、日本の計量法)が使われていた。同潤会アパートで使われていた寸法(「渋谷C号アパートメント」の設計図に見られるもの)は「部屋の広さは敷かれる畳の数」で設計されていたことが読み取れる。また、床スラブ配筋図や壁配筋図などにおいても「尺貫法」が用いられていたものと考えられる(「江戸川アパートメント」)。このように同潤会アパートの建設にとって新技術の使用は、寸法を測る方法に対しては影響を及ぼさなかった。
●同潤会のアパート建設は新技術を使う機会だけではなく、時代の先端をいく新しい設備(「金属製の玄関ドア、調理・各室の暖房に使用されたガス、上水道、便所、流し台・調理台、ダストシュート」など)が導入され、建物は非常に独創的なデザインで形造られていた。
●昭和9年8月16日、江戸川アパートの建設完了を最後に、同潤会によるアパート建設活動は終了した。おそらく、その最大の理由は、最新技術を駆使していくための「建築材料の欠乏」にあったのだろう。だが一方で、経済秩序への考慮も建設停止の別の理由であった。昭和6年に片岡安によって、「関西建築協会雑誌」の名のもとに創刊された日本建築協会の月刊誌『建築と社会』は、科学的雑誌『建築学研究』ともつながりがあった。東京の日本建築学会の『建築雑誌』の中央集権体制や保守主義に反対を唱えるこれら二冊の関西系の雑誌は、若い研究者たちに次々と新しい考え方を紹介していった。西山夘三はこれらの誌面を利用して、関西の住宅事情について自らが指導した研究者たちの研究成果を発表させている。その当時、西山は関西の大都市における5000戸の貧しい階層の家屋の測定調査に取り組んでいた。西山によると小住宅の建設問題は「小住宅では食事室と寝室とは別々にしておかなければならない」というように、食べる部屋と寝る部屋とを最初から分割しておくことで解決できる。食寝分離という機能主義の概念は、こうして誕生したのだった。こうしたことから、同潤会の精神の本当の消滅は同潤会解散の日ではなく、「食寝分離の法則」に従った住宅が一二軒建てられた日であったと考える。同潤会は18年で活動を終えたが、っその精神は国庫融資住宅の建設現場にその後もしばらくの間息づいていたのだ。同潤会の完全な消滅は、住宅の問題を実用主義により解決していく方法が失われたということであった。以後重要とされていくのは、より学術的なプロセスを重視する解決法なのである。そして日本では、第二次世界大戦の間に、戦後住宅政策の基盤が生まれたのであった。
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著者である、マルク・ブルディエさんは1954年生まれの建築家。パリでの設計活動のかたわら、日本の集合住宅について研究活動を行なっています。1984年の早春のある午後、表参道通りを散歩していたマルク・ブルディエさんは「同潤会青山アパート(現存せず)」と出会います。それは「一目惚れ」といった瞬間的な遭遇であり、「都市型住宅の問題」から「同潤会(アパート)」への研究へと向かわせた出会いであった、といいます。研究をはじめるにあたって次のようなことを考えていたようです。
◆同潤会アパートに初めて住んだ人たちは、日本では「木造住宅以外」に住んだことの無い人たちで、この人たちが、どんな「住みかた」をしたか、またどんな「改造」をしたかを調べると、『日本人の生活の仕方』の本質的な部分がわかる。
◆賃貸として計画された同潤会アパートであるが、のちに「分譲」として供給されるよう変わってゆく。そのときに、様々な改造がおこわなれたという事実があり、これを調べると、その人たちが、『なにを我慢していた』のか、なにを我慢できなかったのかが、わかる。
◆その後、同潤会アパートを出た(退去)人たちがあるので、その人たちが、鉄筋コンクリートのアパートに住んだか、木造の日本住宅に住んだかを調べると、彼らが本当は『どちらを好んでいたか』、という本音がわかる。
このような実地見聞とレポートによって、まとめられてゆくマルクさんの「研究と論文」について、建築家・内田祥哉氏は、『自らの論文を下敷きにして、読み易いかたちにし、さらにヨーロッパ特にフランスの公営住宅との比較にも触れている。彼の努力の成果が、広く紹介されることは、日本の集合住宅の将来に貴重な一石を投じることと確信している』と評価・展望されています。そのマルクさんの一文をメモしておきたいとおもいます。
◇◇◇◇◇
●日本住宅公団の最初の建物が建った昭和30年以来、日本での住居規準は「DK」(ダイニングキッチン)と「L」(リビング)という省略記号によって表している。この記号の頭に寝室数を示す数字を付け加え、2DK、3Dk、3LDK........と住居の間取りを表現する。この表記方法は一見、戦後の外国からの影響によっているような印象を与える。しかし、この印象は誤っている。日本は、いつの時代にも自国の要求に応え、他国の製品や思想を日本化することを知っていた。この点から「DK」という呼び名は洋風であるが、これは非常に「日本的な和製用語」なのである。この「DK」という基準は、長期にわたる準備および熟考の末に生まれている。記号の語源は、戦後の資料の中にも見つけることができるほどだ。つまりこの「DK」の歴史は、現代の日本における国庫融資住宅建設の歴史と同様に長く、またこれらは互いに深く関係している。このことからも、現在に至る日本における住まい方の変遷の中で日本政府の役割を理解するためには、歴史の流れを遡る必要があり、国庫融資による住宅供給に関する最初の重要な国家発議にまで遡り、留意することが重要であると言える。この最初の重要な国家発議というのが、大正13年5月の「同潤会創設」である。
●明治の官僚の流れを汲みながらも、彼らとは違った価値観を大正時代の官僚たちは見出しつつあった。大正六年には、都市計画と市街地建築に関する明確な法的手段を持つために、一定の同意が確立されたようである。それまでの古い法規では、大都市圏の益々悪化していく状況に対処していけなくなっていた。また、経済の発展による国際舞台への進出を計る日本にとって、経済発達の基盤となるべき都市の環境改善は重要課題と考えられた。そしてその後の半世紀の間、都市計画と都市建築の基盤となる「都市計画法」と「市街地建築物法」(大正8年4月4日に法案可決)である。この法律の適用範囲は、日本全土に及んだ。
●同潤会の最初の仕事は、東京、横浜に木造仮住宅を建築することだった。これは大正13年末までに2160戸建設された。次いで、大正14年1月から12月までに東京、横浜の11ヶ所に3000戸以上の賃貸普通住宅を建てた。そして、大正14年8月26日、最初の同潤会アパートの工事が東京市本所区(現、墨田区)中之郷で始まった。
●正確には、同潤会は内務省の発意というよりも内務省内に設置された「社会局の所産」であったと言うべきであろう。もちろん、会長のポストは内務大臣が自動的に占め、社会局長は副会長の地位に就いた。副会長の下には35人のスタッフがおり、その中には都市計画と建築の分野で著名な人々がいた。順不同に名前を挙げてみると、評議員に渡辺鐵蔵、佐野利器、理事に内田祥三がおり、大正15年には池田宏が評議員に加わった。渡辺鐵蔵は明治43年に東京帝国大学政治学科卒業、30歳にして経済学部教授となった。非常に博学な知識人であった。住宅政策や都市計画の問題に関する著作も多数ある。
●年代ごとに見て、「アパートと共同住宅の供給」は同潤会の第三番目の事業である。「仮住宅」と「普通住宅」を建設した後、新しい任務に着手した同潤会はまず社会的整備について二つの目標を持った。一、中流階層のために実用的で最新の住宅の建設。二、不良住宅改良事業および関係住民への住宅提供。以上に技術的整備の目標が加えられた。三、耐震、耐火住宅の提供。一と三を合わせた目標に対しては15の建設事業が任務を負った。これは,アパートメントハウス事業と呼ばれ、13の建設事業が東京市で、二つが横浜市で実現された。二と三を合わせた目標に応えるものとしては、東京の住利共同住宅・猿江裏町(昭和五年、江東区深川)建設事業があった。
●建物は、都市に建てられたときから完全に「都市の一部分」となる。だが、「都市景観への同化」が成功するかどうかは、物理的条件や法規上の制約、また建物に付属する機能に対する考察レベルによって左右される。建設事業は実在する都市景観に調和良く溶け込んでこそ、都市の在り方の新しい形の創作に参画する可能性を持つ。同潤会アパートはその点において評価できるだろうか、また都市にふさわしいとはどのようなものを指すのか。建設事業の物理的同化は、第一に敷地の地形と密接な関係がある。物理的制約を引き受けると同時に住環境の質を提供することは、同潤会の(アパートメント)事業の大切な目的の一つであった。当然ではあるが、都市は自然環境からのみ成り立っているわけではない。景観には人間によって作られる「人為的景観」、あるいは規制から生まれる「規制景観」とでもいうべきものもある。大正12年の大震災による火災の罹災地域の地図と、同潤会のアパートメントハウス事業の用地とを比べてみると、同潤会の事業が罹災地域と非罹災地域の両方で行われていることが確認できる。同様に東京市の復興計画の地図と比べてみた場合には少し違った結果が得られるが、この二つの比較によって、アパートメントハウス事業の中には土地区画整理事業が活用された「罹災地域」で行われたものもあったことがわかる。
●都市型集合住宅の建設が直面する最も大きな問題のひとつは、「地域からの孤立」である。だが同潤会のアパートの共同施設について調べていくと、施設の多くが居住者以外の地域住民にも開放され、利用されていることが確認できる。このことは同潤会によって初めから予定されていたのである。都市に住宅を建設するとき、そこに真に都会的な側面を付随されたければ、単なる住宅建設に加えて、地域の都市生活に何らかの機能を果たすものをプラスしなければならない。同潤会の多くのアパートにある店舗もまた、この考えから生じているといえるだろう。さらに、これらの店舗は店舗付住宅の形式をとっており、そこには日本の都市のひとつの「伝統的な習慣」を見出すことができる。この「伝統的な習慣」を同潤会が具現したことは注目すべきである。同潤会アパートを都市の住宅事業にたらしめているのは、アパートばかりかそれを取り囲んでいる都市についてもさまざまな考察がほどこされ、実現された理由によるからであろう。
●同潤会のアパートのもうひとつの特色に、それが「共同生活の場」であるというコンセプトが前面に押し出されている点がある。都市の生活者の単位には家族と独身者があり、このそれぞれにふさわしい住宅を供給することは、同潤会の重要な課題であった。このために、彼らはアパート建設のうえで次の四つの方法を用いている。第一の方法は、代官山のように同じ敷地の中に、一方は家族向け専用の建物を、もう一方には独身者向き専用の建物を建てるというものである。第二の方法は、同潤会により「立場による不分離」と言われているもの。第三の方法は、独立した独身者向け独身者向け住宅が都市には必要不可欠であり、同潤会としてその必要を満たすことも重要であるとの考えからくる。第四の方法は、中之郷や青山、柳島、住利、鶯谷、東町、さらに「平沼町」アパートのように、すべて家族向け住宅だけが作られたものである。また、居住者の年齢層を考慮した、子供たちの遊び場も計画されていた。これらのスペースはすべて中庭に置かれた。子供たちが外で遊んでいても親たちが安心していられるように。また、建物の屋上には洗濯場と物干し場が作られた。ここは女性たちの井戸端会議場としても役立っていたのではないだろうか。そして共同浴場のついたアパートメントもあった(虎ノ門・大塚・代官山・江戸川)。
●人々の生活に植物の緑は潤いをもたらしてくれる。現存する同潤会アパートの敷地内を散歩してみると、まず草木の多さに驚かされるだろう。60年以上の歳月を経て、代官山のように草木を鑑賞するに心地よいほどまで達しているところもある。こうした緑もまた、同潤会の当初からの目的のひとつであった。この目的のために特別予算の措置も講じられている。
●同潤会アパートでは、家族向け、独身者向けを問わず、アパートメントの配置の問題を解決するために建物ごとに様々な工夫(豊富な間取り、内部空間の工夫、建物内の配置など)が凝らされていた。また「中廊下」と住戸の配列にも新しい試みが取り入れられていた(「独身者向け」など)。
●同潤会アパートの建設は、大正時代末期の日本において幾多の調査や科学実験を重ねた新しい建築技術を、大規模な現場で生かすことのできた唯一の機会でもあった。幾つかの残された図面から読み取れるモノを挙げてみると「緩やかな地形にあわせた立面計画、モジュールの掛け合わせによる連結長さの変化、二階部住戸へのテラス設置、住棟形態の変形」など。そして、同潤会アパートの設計図には次のような意図が含まれている。一、建物の原則を示している。二、一ヶ所(一計画地)のためにだけつくられたものである。三、いくつかの建設事業で繰り返して使われているようなものは存在しない。四、各建設事業は、後に続くもののモデルとしてではなく、何らかの新しい試みを取り入れた、いわば実験(「一」型、「L」型、「凹」型、「□」型)として行われた。
●佐野利器や内田祥三らは、地震の振動と火事の高熱に同時に耐えうる建物の研究に情熱を注いでいた。建物の基礎についても、同潤会では活発な研究が行われた。また、大正12年の大震災以前の日本では、三種類(イギリスの計量法、メートル法、日本の計量法)が使われていた。同潤会アパートで使われていた寸法(「渋谷C号アパートメント」の設計図に見られるもの)は「部屋の広さは敷かれる畳の数」で設計されていたことが読み取れる。また、床スラブ配筋図や壁配筋図などにおいても「尺貫法」が用いられていたものと考えられる(「江戸川アパートメント」)。このように同潤会アパートの建設にとって新技術の使用は、寸法を測る方法に対しては影響を及ぼさなかった。
●同潤会のアパート建設は新技術を使う機会だけではなく、時代の先端をいく新しい設備(「金属製の玄関ドア、調理・各室の暖房に使用されたガス、上水道、便所、流し台・調理台、ダストシュート」など)が導入され、建物は非常に独創的なデザインで形造られていた。
●昭和9年8月16日、江戸川アパートの建設完了を最後に、同潤会によるアパート建設活動は終了した。おそらく、その最大の理由は、最新技術を駆使していくための「建築材料の欠乏」にあったのだろう。だが一方で、経済秩序への考慮も建設停止の別の理由であった。昭和6年に片岡安によって、「関西建築協会雑誌」の名のもとに創刊された日本建築協会の月刊誌『建築と社会』は、科学的雑誌『建築学研究』ともつながりがあった。東京の日本建築学会の『建築雑誌』の中央集権体制や保守主義に反対を唱えるこれら二冊の関西系の雑誌は、若い研究者たちに次々と新しい考え方を紹介していった。西山夘三はこれらの誌面を利用して、関西の住宅事情について自らが指導した研究者たちの研究成果を発表させている。その当時、西山は関西の大都市における5000戸の貧しい階層の家屋の測定調査に取り組んでいた。西山によると小住宅の建設問題は「小住宅では食事室と寝室とは別々にしておかなければならない」というように、食べる部屋と寝る部屋とを最初から分割しておくことで解決できる。食寝分離という機能主義の概念は、こうして誕生したのだった。こうしたことから、同潤会の精神の本当の消滅は同潤会解散の日ではなく、「食寝分離の法則」に従った住宅が一二軒建てられた日であったと考える。同潤会は18年で活動を終えたが、っその精神は国庫融資住宅の建設現場にその後もしばらくの間息づいていたのだ。同潤会の完全な消滅は、住宅の問題を実用主義により解決していく方法が失われたということであった。以後重要とされていくのは、より学術的なプロセスを重視する解決法なのである。そして日本では、第二次世界大戦の間に、戦後住宅政策の基盤が生まれたのであった。
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最後になりましたが、「すまい学体系」のことについて、少しふれておきます。
現在、100冊シリーズのほかに
など
小さい本ではありますが、「住宅・都市・建築」などをきちんと纏めて考察されている本であるとおもいます。ちなみに出版社は№001~100は「星雲社」、№101~(現在№102)は「ラトルズ」というところから発刊されています。
(目次)
日本人と生活の仕方 内田祥哉
はじめに
序論
一、同潤会誕生の様々な理由
大正期の都市計画
都市住宅の状況
新基本法
予期せぬ出来事
二、同潤会アパートの都市観
十五ヶ所+一ヶ所
中之郷/青山/代官山/清砂通/住利/柳島
三田/山下町/平沼町/三ノ輪/上野下
鶯谷/東町/虎ノ門/大塚/江戸川
都市型事業
都市に住まわせる
三、同潤会アパートの建築
アパートとは何か?
新技術
新建築
四、同潤会の消滅
住宅の調査と住宅調査
「国民住宅」対「国民住居」
食寝分離論の誕生
住宅の問題から住宅問題へ
おわりに
(参考)
内田祥哉 Wikipedia
片岡安 Wikipedia
西山夘三 Wikipedia
財団法人 同潤会 Wikipedia
同潤会アパート Wikipedia
同潤會アパートメントの記憶~消えゆく同潤會アパート~
エベネザー・ハワード Wikipedia
長屋 Wikipedia
都市計画法 Wikipedia
市街地建築物法
関東大震災 Wikipedia
表参道ヒルズ
(拙ブログ関連記事)
taka_raba_ko 住む42。
taka_raba_ko 都市デザイン 後藤新平とは何か。
taka_raba_ko 日本人はどうすまうべきか?
taka_raba_ko 都市住宅クロニクルⅠ
taka_raba_ko 都市住宅クロニクルⅡ
taka_raba_ko 住む。ということ
taka_raba_ko ジュウタクケンチク AUG2011
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