『すばらしい新世界』続編となる長編小説です。
家族(ひと)と自然(環境)の関り合いが描かれた前作の家族に起こった出来事。
それぞれが離れて暮らす「日々の生活」のなかに
みつける「場所」とは。
そんな、現代社会に生きる「難しさ」と「希望」が描かれた長編小説。
著者、池澤夏樹さんの筆致に
私たちの暮らしを見直す「きっかけ」があります。
◇◇◇◇◇
トーマスには友人が多かったし、彼の家には入れ替わり立ち替わり誰かが来ていた。
アユミのように何か手伝っていく者もいたし、畑やその他のことで彼の知恵を借りる者もいた。
ただなんとなくおしゃべりをして帰る友人もいる。
「あなたは人気があるのね」と二人だけの時に言ったことがある。
「ぼくではない。この家だよ」とトーマスは答えた。
言われてみれば、ここはたしかに居心地がいい。
坐り込むとなかなか立ちたくない。
最初に来た時は愛想のない居間だと思ったけれど、このがらんとした感じがいいのかもしれない。
「モノが少ないだろ」とトーマスは言う。
「椅子だっていつも足りない。でも、これ以上は増やそうと思わない。あぶれた奴は床に坐ればいいんだよ。
じゃなけりゃ、ごろりと横になればいい。モノは足りないくらいがいいのさ」
「そういう方針なの?」
「好きなようにやっていたらそうなった」
「たしかに無理はしてないみたいだわ」
「それから、この家は外とつながっている。玄関も閉じないし、お茶のカップを手に庭に出て、
そのままお喋りを続けることがよくある。
冬でもぼくはよく窓を開けておくし、ここに来る人はいやでも周囲の木や草や風や空を見ることになる」
「自然が好きということ?」
「そうなのかな。こういうことは姿勢みたいなもので、そんなに意識してるわけじゃない。これがいちばん楽なんだ」
楽というのはいいことだ。
「ガンディーの家の話を聞いたことがある」とトーマスが言った。
「あの、インドの?」
「そう。マハトマ・ガンディー。偉大な政治家だったし思想家だった。
でも彼の家はそんなに大きくないし、ぜんぜん豪華でもなかったんだって。
木と泥の、がらんとした、シンプルな、家具のない、飾りもない家。
その代わり、いつでも開いていて、誰でも入ってこられる」
「ふーん」と言ったのは、たまたまその時に来ていたグィネヴィアという若い女だった。
今日のお茶はお客が三人。アユミと、グィネヴィアとカートというトーマスと同じ年格好の男。
「それで、ぼくは昔どこかで聞いたロビンソン・クルーソー批判を思い出した」
そうトーマスは言って、みんなを見た。
ロビンソン・クルーソーか、この人は話がうまいなあと思ってアユミは聞いている。
「あれは孤島に漂着したロビンソンがとても努力して暮らす話だろう。
イギリスの田舎に住むジェントルマンと変わらない暮らしをするための努力。
だから彼の小屋はやがて立派な家になって、そこには手間をかけて作った家具がたくさん並ぶことになる」
そんな話だったと思いながらアユミは聞いた。
「それに対して、そんなのぜんぜん必要なかったんじゃない、という反論があるんだ。
誰かフランス人の作家が書いたロビンソン・クルーソーのパロディみたいな話。
半年もかけて食卓と椅子を作ってそこで食事ををしなくたって、床に坐って食べればいいんじゃないって」
「でも、ちゃんとしたかったんですよ、ロビンソンは」とグィネヴィアが言った。
「そう。ちゃんとしたかった。
彼はちゃんとしたイギリス式の食事という考えから自由になれなかった。
だからたった一人なのに食卓と椅子でごはんを食べた。
言ってみれば食卓と椅子という考えにすっかり縛られていたわけさ」
「だが、人生に、食卓と椅子を手に入れる以上の目的があるだろうか?」
とカートが少し皮肉な口調で言った。
「逆に言えば、食卓と椅子を手に入れた時以上の満足感があるだろうか?」
「問題はそこにある」とトーマスは言った。
「我々はみんな食卓と椅子の奴隷になっている。本当はなくても済むもののために生涯を費やす。
その意味では現代人はみんなロビンソン・クルーソーだよ。それぞれに魂の孤島に住んでいるという意味でも」
「だけど、今どきガンディーと言われてもね」とカートが言った。「禁欲主義みたいでさ」
「まさに」とトーマスが力を込める、
「今どきだからガンディーなんだ。禁欲主義というのは半分あたっている。
欲望が欲望を生むこのシステムが人をがんじがらめにしている。
Aを買ったら次はBが買いたくなる。Bを手に入れたらCが欲しくなる。
やっとCを買ったらAの新しいバージョンが出た。そうやってモノが増える」
「たしかに次から次へと買っているわ。じゃなきゃ、買えなくて我慢している」
とグィネヴィアが言った。
「通販のカタログを丹念に読むもの。次にはこれを買おうと思うもの」
「だから、話を家に戻せば、
現代人にとって家は住むところ、暮らすところではなくて、買ったモノの展示場になってしまったのさ。
冷蔵庫を過不足なき満杯の状態で維持するための人生」
「それはわたしもそう思っていた」とアユミは言った。
「毎日が家財や家電製品に奉仕するためにあるみたいだった。
でも、どうしてあなたはそこから降りられたの?この家でのこんな暮らしができるようになったの?」
「いろいろ失敗をしたからね」とトーマスはちょっと遠いところを見る目で言った。
「ごく若い時のたくさんの失敗。その後の放浪。
ヒッピーの聖地廻り。それからまた、結婚を含むいくつかの失敗。
最後にここに来て、似たような考えの仲間に会ってきっかけを得た。
それから時間をかけて、この家を造った。風が通る家」
「俺にはこの生活は無理だなあ」とカートが言った。「根が俗っぽいんだな」
「あたしもダメみたい」とグィネヴィアが言う。
「すてきだと思うけど、自分のこととなると、これだけで済ませるのは無理。
ここのシンプル・ライフと、ロンドンの生活が半々というのがいちばんいいの」
「わたしはわかる気がする」とアユミが言った。
「たぶん余計なことを考えなくても済むのが楽」
「余計なことか」とカートが言った。
「東京の暮らしに疲れたんだと思うわ。
それはたぶんロンドンでもニューヨークでも同じね。身体は慣れていて、いろんな道具を使いこなして
すらすら暮らしているんだけど、どこか深いところで疲れているの」
「たしかにそれはある」とグィネヴィアが言った。
「だからって、それに背を向けると不安なのよ。すごく不安になる」
「その不安のことは知ってるよ」とトーマスが言った。「だけどぼくは、
それで不安になることについて不安になった。わかるかな?」
みんな、わからないという顔をした。
「新しい車や、新しいテレビや、新しい冷凍食品が買えない、
あるいは、しばらく新しいモノの情報に接していない。
それで不安になるのは、そう仕組まれているからではないか。
そのことに気づいて、今度はいいように操作されている自分のありかたが不安になった。
自分は自分の主人ではないという不安」
「きみは強いんだ」とカートが言う。
「きみは、この土地を、この暮らしを、営々と自分で築いた堤防で守っている。
ひたひたと迫る商業主義の洪水の中で、ここだけを水に浸されない乾いた土地として保っている」
「でも、ユニコーニアはもともとそいう場所でしょ」とアユミは言った。
「そうだよ。だが、ユニコーニアよりもトーマスの領土は堤防がもう一段高いんだ」
「それは大袈裟だ」とトーマスは言う。
「わたしは、自分もトーマスみたいに生きられたらいいだろうなと思っているわ」とアユミが言った。
「まだまだ無理だけど、畑と、風の通る家と、友人だけって、いい組合わせだと思う」
「ならば一緒に暮らしたら?」とグィネヴィアが半分くらいからかうような口調で言った。
「ダメよ」とアユミは即座に答える。
これまで考えたこともない仮定だったのに、返事はすぐに出た。
「きっとわたしはトーマスに寄生することになる」
「ぼくもダメだ。ぼくはアユミが好きだけど、この堤防は一人でしか守れない。
この家に二人なんて想像もできない」
そう言われてアユミはふっとちからが抜けた。
そう言われて納得したのだが、その思いのどこかに落胆が混じっていないか、自分で検証してみる。
ダメだ、の部分はわかる。
アユミは自分でも即座にダメだと思った。
今のキノコと二人の自由が大事。
そのためにここまで来たのだ。
ここの暮らしがいいのはなんといっても自由なこと。
自分の意思が生活のすみずみまで行き渡って、そこに余計なものが入ってこない。
ショッピングの誘惑がないというのはそのたくさんの自由のうちのひとつでしかない。
◆
第二次世界大戦の時、ドイツ軍が攻めてくるかもしれないというので、
海岸にコンクリートの防塁が造られて、
ところによってはそれがまだみっともない積み木細工のように残っている。
ここの人たちは天気に敏感で、晴れて暖かくなるとすぐに外に出る。
◆
この間、
あなたとトーマスは一緒になったらとグィネヴィアが冗談に言った。
一瞬だけその可能性を考えて、それはないと思った。
誰であれ他人はわずらわしい。
トーマスも考えられないと言った。
トーマスとはたしかに話が合う。
ものの考えかたはよくわかるし、生活の方針について納得するところが多い。
世間に対する姿勢もだいたいはなるほどと思う。
それでもあきれたのは、彼の畑の土地のことだった。
実はその三分の二までは彼のものではなくて、どこか遠いところにある会社の所有地なのだそうだ。
「この家のまわりからあのあたりまではぼくのものさ」と彼はある時、
畑の一角を指さしながら、ちょっと得意そうに説明した。
「ちゃんとお金を払って取得した。だけどその先はそうではない」
「そうではないって?」
「そもそも土地を私有するという考えが間違いなんだ。本来ならば土地は誰のものでもない。
公有でも共有でもない。土地はただそこにある。耕すという行為の対象になり得るものとして、そこにある」
よくわからないな、とアユミは考えた。
「しかし今の社会は土地を独り占めして囲い込むことで成立している。これは正しいことではない」
「ラディカルな考え方ね」
「そうだよ。過激であり根源的。だからぼくは耕すという行為によってこの土地と親密な仲を築くことにしたんだ。
具体的には毎年二メートルずつ境界線を外に動かす」
「そうか。畑に若いところと熟したところがあると思ったら、そうやっていたのね」
「広げた境界のすぐ内側は最初堆肥を作るのなんかに使うんだ。
そうやって慣らしていって、だんだん豊かな土壌にする」
「ばれないの?」
「この土地を公簿の上で所有している会社にとって、
ここは抽象的な数字でしかない。
彼らはここなんか見たこともないんだよ。
紙の上で、今だからコンピューターの中で、数字が行ったり来たりしただけなんだ」
「彼らには愛がないのね、土地への」
「そのとおり。きみはうまいことを言う。まさに愛がないんだ。それに対して、ぼくはこの土地をこんなに愛している」
◇◇◇◇◇
解説で作家の角田光代さんが池澤夏樹さん(の書物)との出会いについて書かれています。
それは『「おもしろい本に夢中になる」と、少々異なる感覚......。
何か非常に大きな、信じるに足るものに出会った感じ。
小説への感想というよりも、哲学や、思想に対して持つような印象』を受けたと表現されています。
その角田光代さんが、本書『光の指で触れよ』について次のように評しています。
『読み手である私たちも、
まったくあたらしい暮らしを、考えを、方法を、知らされる。
そうして日本で暮らす私たちが持つ、あるいは持たされているゆがみについて、気づかされる。
小説は、
異国のコミュニティーのありようがまともで、日本のありようがおかしい
と言っているのではない。
そんな単純なことではない。
私たちの考え方、暮らし方、消費の仕方、当り前と思って受け入れていることが、
いかに画一化しているかを小説は静かに指摘する。
ほかにどんな考え方があり、どんな暮らし方があり、どんな生き方があるのかを、
私たちはアユミ(妻)とともに、ある新鮮さを持って知ることになる。
やはりこの作品も、
私にとって小説を超えて、大いなる哲学であり思想であった。
そうして、「すばらしい新世界」ののちに、
チベット仏教僧たちによる大規模暴動が起こり、
この「光の指で触れよ」ののちに
サブプライム問題、リーマンショックによるアメリカ金融危機、そこから波及した世界金融危機が起きたことを思うと、
鳥肌が経つのである。
小説はこのように世界を超えることができるのかと。
二十歳過ぎの私に、
池澤夏樹を教えてくれた男の子とはうまくいかなかったけれど、
もしかしてそれも私にとって重要なきっかけとしての恋愛だったのかもしれないと、
ちょっと本気で考えてしまう。
この小説世界を知るか知らないかは、私にとってそのくらい大きな違いがある。』
『風が通う家』
は
いままで「あたりまえ」と考えていたことを改めて、問い、見つめ直す、
そんな「場所」になるのではないか、と思っています。
それぞれが離れて暮らす「日々の生活」のなかに
みつける「場所」とは。
そんな、現代社会に生きる「難しさ」と「希望」が描かれた長編小説。
著者、池澤夏樹さんの筆致に
私たちの暮らしを見直す「きっかけ」があります。
◇◇◇◇◇
トーマスには友人が多かったし、彼の家には入れ替わり立ち替わり誰かが来ていた。
アユミのように何か手伝っていく者もいたし、畑やその他のことで彼の知恵を借りる者もいた。
ただなんとなくおしゃべりをして帰る友人もいる。
「あなたは人気があるのね」と二人だけの時に言ったことがある。
「ぼくではない。この家だよ」とトーマスは答えた。
言われてみれば、ここはたしかに居心地がいい。
坐り込むとなかなか立ちたくない。
最初に来た時は愛想のない居間だと思ったけれど、このがらんとした感じがいいのかもしれない。
「モノが少ないだろ」とトーマスは言う。
「椅子だっていつも足りない。でも、これ以上は増やそうと思わない。あぶれた奴は床に坐ればいいんだよ。
じゃなけりゃ、ごろりと横になればいい。モノは足りないくらいがいいのさ」
「そういう方針なの?」
「好きなようにやっていたらそうなった」
「たしかに無理はしてないみたいだわ」
「それから、この家は外とつながっている。玄関も閉じないし、お茶のカップを手に庭に出て、
そのままお喋りを続けることがよくある。
冬でもぼくはよく窓を開けておくし、ここに来る人はいやでも周囲の木や草や風や空を見ることになる」
「自然が好きということ?」
「そうなのかな。こういうことは姿勢みたいなもので、そんなに意識してるわけじゃない。これがいちばん楽なんだ」
楽というのはいいことだ。
「ガンディーの家の話を聞いたことがある」とトーマスが言った。
「あの、インドの?」
「そう。マハトマ・ガンディー。偉大な政治家だったし思想家だった。
でも彼の家はそんなに大きくないし、ぜんぜん豪華でもなかったんだって。
木と泥の、がらんとした、シンプルな、家具のない、飾りもない家。
その代わり、いつでも開いていて、誰でも入ってこられる」
「ふーん」と言ったのは、たまたまその時に来ていたグィネヴィアという若い女だった。
今日のお茶はお客が三人。アユミと、グィネヴィアとカートというトーマスと同じ年格好の男。
「それで、ぼくは昔どこかで聞いたロビンソン・クルーソー批判を思い出した」
そうトーマスは言って、みんなを見た。
ロビンソン・クルーソーか、この人は話がうまいなあと思ってアユミは聞いている。
「あれは孤島に漂着したロビンソンがとても努力して暮らす話だろう。
イギリスの田舎に住むジェントルマンと変わらない暮らしをするための努力。
だから彼の小屋はやがて立派な家になって、そこには手間をかけて作った家具がたくさん並ぶことになる」
そんな話だったと思いながらアユミは聞いた。
「それに対して、そんなのぜんぜん必要なかったんじゃない、という反論があるんだ。
誰かフランス人の作家が書いたロビンソン・クルーソーのパロディみたいな話。
半年もかけて食卓と椅子を作ってそこで食事ををしなくたって、床に坐って食べればいいんじゃないって」
「でも、ちゃんとしたかったんですよ、ロビンソンは」とグィネヴィアが言った。
「そう。ちゃんとしたかった。
彼はちゃんとしたイギリス式の食事という考えから自由になれなかった。
だからたった一人なのに食卓と椅子でごはんを食べた。
言ってみれば食卓と椅子という考えにすっかり縛られていたわけさ」
「だが、人生に、食卓と椅子を手に入れる以上の目的があるだろうか?」
とカートが少し皮肉な口調で言った。
「逆に言えば、食卓と椅子を手に入れた時以上の満足感があるだろうか?」
「問題はそこにある」とトーマスは言った。
「我々はみんな食卓と椅子の奴隷になっている。本当はなくても済むもののために生涯を費やす。
その意味では現代人はみんなロビンソン・クルーソーだよ。それぞれに魂の孤島に住んでいるという意味でも」
「だけど、今どきガンディーと言われてもね」とカートが言った。「禁欲主義みたいでさ」
「まさに」とトーマスが力を込める、
「今どきだからガンディーなんだ。禁欲主義というのは半分あたっている。
欲望が欲望を生むこのシステムが人をがんじがらめにしている。
Aを買ったら次はBが買いたくなる。Bを手に入れたらCが欲しくなる。
やっとCを買ったらAの新しいバージョンが出た。そうやってモノが増える」
「たしかに次から次へと買っているわ。じゃなきゃ、買えなくて我慢している」
とグィネヴィアが言った。
「通販のカタログを丹念に読むもの。次にはこれを買おうと思うもの」
「だから、話を家に戻せば、
現代人にとって家は住むところ、暮らすところではなくて、買ったモノの展示場になってしまったのさ。
冷蔵庫を過不足なき満杯の状態で維持するための人生」
「それはわたしもそう思っていた」とアユミは言った。
「毎日が家財や家電製品に奉仕するためにあるみたいだった。
でも、どうしてあなたはそこから降りられたの?この家でのこんな暮らしができるようになったの?」
「いろいろ失敗をしたからね」とトーマスはちょっと遠いところを見る目で言った。
「ごく若い時のたくさんの失敗。その後の放浪。
ヒッピーの聖地廻り。それからまた、結婚を含むいくつかの失敗。
最後にここに来て、似たような考えの仲間に会ってきっかけを得た。
それから時間をかけて、この家を造った。風が通る家」
「俺にはこの生活は無理だなあ」とカートが言った。「根が俗っぽいんだな」
「あたしもダメみたい」とグィネヴィアが言う。
「すてきだと思うけど、自分のこととなると、これだけで済ませるのは無理。
ここのシンプル・ライフと、ロンドンの生活が半々というのがいちばんいいの」
「わたしはわかる気がする」とアユミが言った。
「たぶん余計なことを考えなくても済むのが楽」
「余計なことか」とカートが言った。
「東京の暮らしに疲れたんだと思うわ。
それはたぶんロンドンでもニューヨークでも同じね。身体は慣れていて、いろんな道具を使いこなして
すらすら暮らしているんだけど、どこか深いところで疲れているの」
「たしかにそれはある」とグィネヴィアが言った。
「だからって、それに背を向けると不安なのよ。すごく不安になる」
「その不安のことは知ってるよ」とトーマスが言った。「だけどぼくは、
それで不安になることについて不安になった。わかるかな?」
みんな、わからないという顔をした。
「新しい車や、新しいテレビや、新しい冷凍食品が買えない、
あるいは、しばらく新しいモノの情報に接していない。
それで不安になるのは、そう仕組まれているからではないか。
そのことに気づいて、今度はいいように操作されている自分のありかたが不安になった。
自分は自分の主人ではないという不安」
「きみは強いんだ」とカートが言う。
「きみは、この土地を、この暮らしを、営々と自分で築いた堤防で守っている。
ひたひたと迫る商業主義の洪水の中で、ここだけを水に浸されない乾いた土地として保っている」
「でも、ユニコーニアはもともとそいう場所でしょ」とアユミは言った。
「そうだよ。だが、ユニコーニアよりもトーマスの領土は堤防がもう一段高いんだ」
「それは大袈裟だ」とトーマスは言う。
「わたしは、自分もトーマスみたいに生きられたらいいだろうなと思っているわ」とアユミが言った。
「まだまだ無理だけど、畑と、風の通る家と、友人だけって、いい組合わせだと思う」
「ならば一緒に暮らしたら?」とグィネヴィアが半分くらいからかうような口調で言った。
「ダメよ」とアユミは即座に答える。
これまで考えたこともない仮定だったのに、返事はすぐに出た。
「きっとわたしはトーマスに寄生することになる」
「ぼくもダメだ。ぼくはアユミが好きだけど、この堤防は一人でしか守れない。
この家に二人なんて想像もできない」
そう言われてアユミはふっとちからが抜けた。
そう言われて納得したのだが、その思いのどこかに落胆が混じっていないか、自分で検証してみる。
ダメだ、の部分はわかる。
アユミは自分でも即座にダメだと思った。
今のキノコと二人の自由が大事。
そのためにここまで来たのだ。
ここの暮らしがいいのはなんといっても自由なこと。
自分の意思が生活のすみずみまで行き渡って、そこに余計なものが入ってこない。
ショッピングの誘惑がないというのはそのたくさんの自由のうちのひとつでしかない。
◆
第二次世界大戦の時、ドイツ軍が攻めてくるかもしれないというので、
海岸にコンクリートの防塁が造られて、
ところによってはそれがまだみっともない積み木細工のように残っている。
ここの人たちは天気に敏感で、晴れて暖かくなるとすぐに外に出る。
◆
この間、
あなたとトーマスは一緒になったらとグィネヴィアが冗談に言った。
一瞬だけその可能性を考えて、それはないと思った。
誰であれ他人はわずらわしい。
トーマスも考えられないと言った。
トーマスとはたしかに話が合う。
ものの考えかたはよくわかるし、生活の方針について納得するところが多い。
世間に対する姿勢もだいたいはなるほどと思う。
それでもあきれたのは、彼の畑の土地のことだった。
実はその三分の二までは彼のものではなくて、どこか遠いところにある会社の所有地なのだそうだ。
「この家のまわりからあのあたりまではぼくのものさ」と彼はある時、
畑の一角を指さしながら、ちょっと得意そうに説明した。
「ちゃんとお金を払って取得した。だけどその先はそうではない」
「そうではないって?」
「そもそも土地を私有するという考えが間違いなんだ。本来ならば土地は誰のものでもない。
公有でも共有でもない。土地はただそこにある。耕すという行為の対象になり得るものとして、そこにある」
よくわからないな、とアユミは考えた。
「しかし今の社会は土地を独り占めして囲い込むことで成立している。これは正しいことではない」
「ラディカルな考え方ね」
「そうだよ。過激であり根源的。だからぼくは耕すという行為によってこの土地と親密な仲を築くことにしたんだ。
具体的には毎年二メートルずつ境界線を外に動かす」
「そうか。畑に若いところと熟したところがあると思ったら、そうやっていたのね」
「広げた境界のすぐ内側は最初堆肥を作るのなんかに使うんだ。
そうやって慣らしていって、だんだん豊かな土壌にする」
「ばれないの?」
「この土地を公簿の上で所有している会社にとって、
ここは抽象的な数字でしかない。
彼らはここなんか見たこともないんだよ。
紙の上で、今だからコンピューターの中で、数字が行ったり来たりしただけなんだ」
「彼らには愛がないのね、土地への」
「そのとおり。きみはうまいことを言う。まさに愛がないんだ。それに対して、ぼくはこの土地をこんなに愛している」
◇◇◇◇◇
解説で作家の角田光代さんが池澤夏樹さん(の書物)との出会いについて書かれています。
それは『「おもしろい本に夢中になる」と、少々異なる感覚......。
何か非常に大きな、信じるに足るものに出会った感じ。
小説への感想というよりも、哲学や、思想に対して持つような印象』を受けたと表現されています。
その角田光代さんが、本書『光の指で触れよ』について次のように評しています。
『読み手である私たちも、
まったくあたらしい暮らしを、考えを、方法を、知らされる。
そうして日本で暮らす私たちが持つ、あるいは持たされているゆがみについて、気づかされる。
小説は、
異国のコミュニティーのありようがまともで、日本のありようがおかしい
と言っているのではない。
そんな単純なことではない。
私たちの考え方、暮らし方、消費の仕方、当り前と思って受け入れていることが、
いかに画一化しているかを小説は静かに指摘する。
ほかにどんな考え方があり、どんな暮らし方があり、どんな生き方があるのかを、
私たちはアユミ(妻)とともに、ある新鮮さを持って知ることになる。
やはりこの作品も、
私にとって小説を超えて、大いなる哲学であり思想であった。
そうして、「すばらしい新世界」ののちに、
チベット仏教僧たちによる大規模暴動が起こり、
この「光の指で触れよ」ののちに
サブプライム問題、リーマンショックによるアメリカ金融危機、そこから波及した世界金融危機が起きたことを思うと、
鳥肌が経つのである。
小説はこのように世界を超えることができるのかと。
二十歳過ぎの私に、
池澤夏樹を教えてくれた男の子とはうまくいかなかったけれど、
もしかしてそれも私にとって重要なきっかけとしての恋愛だったのかもしれないと、
ちょっと本気で考えてしまう。
この小説世界を知るか知らないかは、私にとってそのくらい大きな違いがある。』
『風が通う家』
は
いままで「あたりまえ」と考えていたことを改めて、問い、見つめ直す、
そんな「場所」になるのではないか、と思っています。
(目次)
恋の波紋
みんなで暮らす
美緒の雅歌
子供たちの反乱
壊れた風車
アムステルダムふたたび
影の長い国
雪、降り積む
変容のゲーム
花見の宴
美緒の哀歌
風が通う家
岩手山
巡礼たち
土の匂い
解説 角田光代
(参考)